第6話

 勉学に専念するために帰宅部を選んだ僕は、夕課外後のホームルームが終わるとそのまま予備校に直行するというのが、高校三年間のルーチンであった。

 しかしその日は進路希望についての書類を提出し忘れてしまい、昇降口でそのことに気づいた僕は逆再生みたいにシューズを下駄箱に戻し、上履きに履き替えて、担任のいる理科準備室へと向かった。


 南棟3階にある理科準備室は、理科室に隣接している。生徒から見て教卓の左端にある老朽した木製扉だけが、準備室を訪ねる唯一の手段となっていた。


 校舎の外では蝉が、生きるのが嬉しいのか死ぬのが怖いのか、声を枯らすように鳴いている。


 ようやく3階に着いたとき、幼い頃から運動神経とは無縁だった僕の肺は酸素を取り込もうと必死になって、伸びたり縮まったりしていた。

 廊下を進んで理科室の前方から入り、準備室の扉を叩く。


「失礼します」


 扉を押し開けるやいなや、コーヒーをタバコでかき混ぜたような臭いが、僕の鼻腔を充満した。私物化された職員室の臭いだと思った。


「あの、これ」


 進路希望の紙です、まで言うつもりがあまりの悪臭に気道は塞いでしまって、台本通りの発声ができない。


「なんだ?」


 やけに座高の低い回転椅子をぐるりとまわして、テーブルクロスを引くように僕の指から書類を抜き取る。


「お、一橋大学か。たしかお前の兄ちゃんもこの大学の経済学部だったよな。あー、あれか。そういやお前の父ちゃん、メガバンクのお偉いさんだっけ。いやあ、兄弟揃って。ご両親はさぞかし鼻が高いだろうな」


 苦しくなって、準備室を出た。



「っ、はっ」


 呼吸を再開する。


「はっ」


「はぁ」


「………」


 ドアノブを握ったままの手に、力が入る。



「カサッ」


 背後からの物音に振り返ると、僕と対角線をなす教室の隅に彼がいた。

 例のように突っ立って、料理の仕上げに塩を振るみたくメダカに餌をやっている。いつからここにいたのだろう。


「あ、ごめん。今週は僕だったね」


 月曜だからか、今日は忘れ物が多いらしい。餌やり当番を代わるため彼に接近した。


「いいよ、やっておくから」


 頚椎が折れたように水槽を覗き込んで、メダカを真上から観察している。そんな彼の態度に僕は、無性に腹が立った。


「あのさ、どうして泳がないの、水泳」


 僕の奇襲を受けて、彼は餌やりを中断した。


「…知りたい?」


 メダカに話しかけているみたいで余計に腹が立つ。


「いや、別に…」


「いいよ」


「見せてあげる」


 そう言うと彼は水槽の横に餌を置いて、僕の方に90度回転した。そして指の先まであるワイシャツの袖をたくし上げると、白い布で覆われている左手首を見せた。


「なに?それ」


「切ったんだ、自分で」


 よく見てみると白い布は包帯だった。赤褐色の染みが、血管の走行と交差するように一本の線を引いている。


「…なんの意味があんの、それ」


「集中できるんだよ」


「え?」


「痛みに集中して、他は何も考えなくてよくなるんだ」


「…なに、それ。意味分かんない」


「はは、そのほうがいいよ」


 小さく笑ってまくった袖を元に戻すと、彼は再び90度回転して水槽のメダカを静観し始めた。



 ミーンミーンミーンミーン。ミシミシミシミシ。

 沈黙が、蝉の慟哭どうこくを助長する。



「……そうだ、行かないと」


 堪らなくなってきびすを返す。


「ねえ」


 やけに弾んだ声に思わず振り向いた。


「LINE、教えてよ」


「…なんで」


 僕からの問いに、彼は一瞬怯んだように思えた。が、すぐに僕の目を見て照れくさそうに言った。


「見てほしいんだ。文人あやとくんに」


 蛍光灯に照らされた彼の笑顔には、墨入れをした木版画のようなグロテスクさがあった。

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