II. チェス遊び
男も女も、この地にいつまで滞在するかは決めていなかった。ただ、なにかを引き延ばすためにここにいた。
二人は顔を合わせると一緒に過ごすようになった。お互いの言葉は分からなかったものの、二人とも英語が堪能だった。しかし、それでも言いよどんだ末にまったく別のことを言うこともしばしばあった。
夜の八時になると必ず女の携帯が鳴ることを、男は知った。例の「女を恋人だと思っている」人物からだ。画面に表示される異国の文字を、男は読むことができないが、その形を覚えた。
その日の午前中、彼らはホテルのラウンジでチェスをしていた。女はルールを知らなかったので、真剣な勝負ではなく気楽なレッスンのようなものを。
二人はあまりお互いのことを話さなかった。ただ、そこにある景色や音楽、詩について語った。
女は自分のルークで男のナイトを取りながら言った。
「ここは美しい土地ね。それとも目新しさがそう感じさせるのかしら。ここは私の国とは何もかも違う。空気も光も……呼吸の仕方も鼓動の打ち方も異なっている」
男は、どうゲームを進めれば女が勝てそうか考えつつ自分のビショップを動かした。
「ええ。違った時の流れを持っていて……自分が異質な存在であると感じます」
「疎外感?」
「いいえ。美しい孤独です」
「そうね……」
女はテーブルの上に置いた携帯を見た。
「どこにいても、誰とでも話すことはできるけれど、それは手段があるというだけ……繋がりがあるというのは幻想で、人は孤独なのだわ、いつでも……」
女は電話の相手のことをを思い出している、と男は考えた。
「毎日電話をかけてくるなんて、彼はあなたをとても大切に思っているのですね」
それはやや踏み込んだ会話の始まりだったが、女はさり気ない様子で答えた。
「どうかしら。彼自身が安心するためかもしれないわ」
「それでもですよ」
「それでも?」
「彼の中で、あなたの存在は不可欠なのでしょう」
女はポーンを持ち上げ、手の中で弄んだ。
「彼、私にプロポーズしたのよ」
男は顔を上げ、女の表情を読もうとした。
「……そして?」
「私は旅に出たわ」
「答えを出すために?」
「いいえ……どこにも答えはない」
後半は独り言のようだった。
「別にね、彼と結婚する必要もないの。周りから勧められた相手でもないし、子どもが欲しいとか、私にはそういう希望もない。だから、その気になれないなら、ただ断ればよかったのよ」
「でも、断ってはいない……」
女は駒を進めようとしてから、両手でぐしゃりと一ヶ所に集めた。駒が一つ、深い青色の絨毯の上に落ちた。
「ただ、彼がこう言ったの。君はこれからずっと孤独に生きられるのか、と」
女は駒を一つ一つ取り、でたらめにマス目の上に置いていった。
「私は孤独を感じたことはないし……誰かと一緒だと感じたこともない」
男は絨毯の上の駒を拾い上げ、尋ねた。
「あなたは彼を愛していない?」
「さあ。彼は私を愛していると言うけれど……いったいそれになんの意味があるのかしら」
「愛に意味なんてありませんよ」
「では、それを伝える意味もないのかしら」
二人は散歩に出かけた。このあたりにはひどくトゲトゲしいアザミの生垣が多いので、男はさり気なくそちら側を歩く。
女は自ら、電話の相手について語り始めた。
「彼と出会ったのは五、六年前よ。それからすぐに……今のような関係になって、私たちはお互いの存在に慣れてしまった」
「飽きた?」
「いいえ。そばにいることが当たり前になったの」
「それは心地よいものでしたか」
「そう言えると思うわ……」
乾いた風が吹き、女は黒い帽子を押さえた。
「私、思ったのよ。これから、彼なしで生きていくことができるのか、と」
「それで、ここに来たのですか」
「ええ。ひとりになるために」
「私は邪魔をしてしまっているようですね」
女は笑い、アザミの生垣の輪郭をなぞるように手を伸ばした。
男は言った。
「危ないですよ」
女は気にしなかった。彼女は一つ一つの棘を突くようにしながら言った。
「愛というのは、結局は肉体的なものよ」
「肉体と心は隔たれていると?」
女は立ち止まってアザミの生垣に触れ、その棘で強く指を貫いた。みるみるうちに、鮮やかでねっとりした血が指を伝う。
「肉体を傷つけても、心は痛まない」
男はポケットから濃紺のハンカチを取り出し、血を流す女の手を握った。
「私の心は痛みましたよ」
女は声を出さずに笑った。
「それは奇妙ね」
男はハンカチで女の指を縛った。きつすぎず、緩すぎない程度。
女は離れようとする男の手を握った。
「あなたは優しい」
男は女の目を見つめ、さらに一歩進んだ問いを口にした。
「彼の触れ方は?」
「優しいわ。彼はいつも優しく触れる。言葉も肉体も」
「彼の愛を感じなかった?」
女は答えず、男の手を離した。彼女は歩き始めながら尋ねた。
「あなたは?」
「何が?」
「恋人か、奥さんはいるの?」
「数年前に……」
男が言い淀むと、女が代わりに言った。
「終わったのね」
「ええ、別れました」
二人ともしばらく黙っていた。地元の若者たちが二人の横を通り過ぎた。二人は何らかの侮蔑的な言葉を聞いたように思うが、定かではない。
女は言った。
「彼女を愛していた?」
「ええ。失えば世界が崩れてしまうと思っていた」
アザミの生垣に終わりが来た。女は再び立ち止まった。
「世界は崩れたの?」
「ある意味では」
「今も崩れたまま?」
今度は男がアザミの棘に手を伸ばした。だが、彼は血を流すような真似はしなかった。
「そうだな……とても……空虚だ」
「……ほらね」
男は女を見た。
「何が?」
「愛には終わりが来る。いつか消えて失われるものを枷にすることはできないわ」
「愛は枷ではない」
「そうね……」
女は男の手を掴み、棘から引き離した。
「どうして世界が崩れるような危険を犯すの?」
「ただ……抗うことができなかった」
「抗うことができなかった……」
女は繰り返した。
「抗えなかったのね」
女は男の手を離した。
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