The Woman in Indigo 藍色の女

f

I. 死者の埋葬


 男は海を眺めていた。

 白く輝く砂浜、紺碧のうねりの上で鴎が飛び交う。バカンスにはうってつけのリゾート地だが、今はオフシーズンで人影はまばらだ。穏やかな波の音と遠くから聞こえる街の喧騒。風はやや冷たい。男の褐色の肌は地元の人間に似ているが、服装や立ちふるまいを見ればすぐに他所者だと分かる。男は折りたたみの椅子に座り、ホテルが用意したパラソルの影の中にいた。手の中にある本は半ば閉じられている。

 男の視線はずっと向こうに見える海峡の対岸をさまよっていた。宝は見つからないと知りながら探索を続けている、あるいは来ることのない迎えの船を待っている、そんな面持ちで。


 どれほどの間そうしていただろうか。男は囁くような言葉を聴いた。


"April is the cruellest month,”


 男はふと、自分と同じように海を眺めている女を見つけた。女はどう見ても異邦人だったが、男と同国人ではなかった。上品な白いワンピース、つばの広い帽子は黒く、その黒に覆われて表情は分からない。彼女は海と男の間の、中途半端な位置に佇んでいた。男は彼女がやって来たことに気づかなかったので、まるで蜃気楼を見ているような感覚に陥った。

 先ほどの言葉は彼女が発したはずだ。彼女は自分と同じものを見ている、あるいは探している、と男は考えた。

 やがて、女はいなくなった。



 夕方、男はホテルのカフェで再びあの女を見つけた。海の見えるテラス席で、行儀良く整えられた植木と幻想的なランプに囲まれ、女は夜めいていく対岸の街を眺めていた。ゆるい風が女の黒い髪を揺らしている。

 男は突然、彼女と会話をしなければならない、という衝動に駆られた。

 男は女に近づき、とりあえず英語で話しかけた。


「こんばんは。ご一緒してよろしいですか」

「……分からない」

「申し訳ない、言葉が──」

「いいえ、言葉は分かるわ……そう、どうぞお座りになって」


 オレンジ色のランプに照らされた女は確実に男よりも若かったが、女の子とかそういう言葉で表すには超然としすぎていた。少なくとも男にはそのように見えた。忘れられた神殿の遺物、老いることなく古びた彫像のような。

 男はコーヒーを一杯注文してから言った。


「さっき、あなたが海を眺めているのを見かけました」

「そう?私からあなたは見えなかった」


 男は女の前に置かれたカップに目をとめた。伝統的な紋様に縁取られた磁器、中のハーブティはすっかり冷めて、その香りすら静止している。

 男は自ら名乗ってから、尋ねた。


「あなたの名前は?」

「そうね……」


 女は自分の爪を見つめ、それから天を見上げた。時刻は午後七時を回っていた。少し前に陽が沈み、空は深い藍色に染まっている。

 女は答えた。


「インディゴよ」


 それは明らかに名前ではなかったが、なぜか嘘をついているようにも聞こえなかった。


「インディゴ……」

「ええ。あなたはどちらからいらしたの?」


 二人は互いの国のことをほとんど知らなかった。どちらもなぜこの地に来たのかは話さず、尋ねることもしなかった。

 男は言った。


「あなたは詩がお好きなのですか?」

「ええ。どうしてそれを?」

「《4月は最も残酷な月、》──海岸でエリオットの詩を呟いたでしょう」

「あら、聞こえていたのね……」


 女は冷めたハーブティを飲み干した。

 女が立ち去ろうとする気配を感じ、このまま別れがたいと思った男は言った。


「中庭に行きませんか?」


 意外にも、女は頷いた。


「ええ」


 立ち上がった女は思ったより背が高く、踵のないサンダルでも男より少し小さいだけだった。

 ホテルの中庭は幻想的にライトアップされていた。花々は夜の帷と共に眠りについていたが、その香りはまだあたりを漂っていた。昼間に来たらもっと美しいだろう。


「ヒヤシンスだわ」

「そうですね」


 二人のほかに人影はなかった。地面の上にも、イオニアの柱を模った鉢の上にも、品よく伸びたヒヤシンスたちが並んでいる。

 女が小さく声を上げた。


「あ……」


 球根が一つ、幾何学模様に並べられたタイルの上に転がっていた。根っこは懸命に掴むべき大地を探し、玉ねぎ型のてっぺんから緑の芽が出てこようとしていたが、このままでは腐ってしまうだろう。

 女は屈んでそれを拾い上げ、しげしげと眺めた。

 男も彼女の隣に膝をつき、手で近くの地面を掘った。そして、できた穴を指して言った。


「それをここへ」


 女は黙って球根を穴の中に置き、二人はそれにそっと土をかけた。てっぺんが少し見えるくらいに。

 二人ともなにかを言おうとしていたが、ふさわしい言葉はすぐに現れなかった。

 どちらもなにも言わないうちに、女の携帯が鳴った。


「ちょっとごめんなさい」


 しばらくの間、女は男の知らない言語で、電話の相手と話した。

 男はその相手の正体が無性に気になった。通話を終えた女に、男は尋ねた。


「ご家族?」


 女は曖昧に首を振った。


「なんと言えばいいかしら……私を恋人だと思っている人よ」


 恋人という言葉に、男は自分がやや失望するのを感じたが、思い浮かんだ問いを口にした。


「恋人ではないのですか?」

「どうかしらね……」


 女は少し思案していたが、ゆっくりと答えた。


「彼は良い人だと思うわ」


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