III. 火の説教


 二人は夕食を共にし、夜遅くまで話しこむことも多くなった。だが、一日の終わりには必ずお互いの部屋に戻った。

 午後八時になると、例によって女に電話がかかってきて、女はその場を離れる。


「ごめんなさいね」


 女はあらかじめ席を外すようなことはしなかった。時間が近づくと、女は何度か携帯に目を留め、電話がかかってこない可能性について考えているように見えた。男は自分が、電話がかかってこなければ良いと考えていることに気づく。


 今夜も女はホテルのラウンジからテラスに出て行った。男はふと思い立ち、それについて行った。外は日が沈み、東から満月が昇ろうとしていた。海の上では漁船の光が宝石のように輝いている。

 女は男には分からない言葉で話している。その言葉は男と話す時とちょうど同じくらいの温度を持っていた。

 しばらくの間、男は女の後ろに佇み、その背中を眺めていた。女は大理石の手すりに肘をついている。男は女の向こう側の風景が、女をかき消そうとしているような感覚に陥った。

 男は女の隣に肘をついた。男は女が携帯を持つ手に自分の耳を当て、その向こうの声に耳をすませた。低く落ち着いた男性の声が聞こえる。男にはその言葉は分からなかったが、その響きが甘さを孕んでいるのを感じた。

 女は携帯を持ち直したが、男から離れはしなかった。二人は電話の声を聞き、女はときおり言葉を紡ぎ、男は沈黙していた。


 電話が切られても、二人は長いことそのまま動かなかった。夜のざわめきが二人を囲った。

 やがて、女が携帯を持つ手を下ろした。

 男は言った。


「彼は優しい声をしていますね」

「言ったでしょう。彼はいつも優しい」


 男は身を起こし、女の方を向いた。

 男は尋ねた。


「あなたの言葉で愛はなんというのですか?」


 女は男の方を見て、答えた。

 男が言った。


「とても短い」

「そちらの言葉では?」


 男は答えた。

 女が言った。


「長くはないわね」



 二人はホテルの中庭に忍びこんだ。

 時間が遅かったため、灯は消えていた。出会った時よりも暖かくなったため、草花は力強く生い茂り始めている。

 月明かりに照らされて、男の浅黒い肌が深い青色に染まっている。女は男の顔を眺めた。長い睫毛に縁取られた顔はどこか神秘的だ。

 女は男に向かい合い、その顔の輪郭を指でなぞった。男は拒絶しなかったが、女の意図を図りかねていた。

 女は囁いた。


「あなたは美しい……あなたの恋人はどうしてその美しさを手放せたのかしら」

「美とは刹那的なものです」

「その刹那を永遠に胸に抱くことは?」

「愛のように?」


 女は笑い、首を横に振った。


「愛は感情よ。永遠ではないでしょう」

「あなたは感情を軽く見過ぎですよ」

「逆だわ」


 女は男の頬に手を当てた。


「すべてを決定づけるのは感情よ。そして感情は否応なくうつろう……抗いようがない。でも、美は変わらない」

「美も衰えます」

「それは見かけだけのことよ」


 女は男から離れ、背の高い鉢から垂れ下がるジャスミンの影に入った。

 女は呟くように言った。


「美は、心に根を張って、永遠に人を苛み続けるの……」


 男は女を追って影に入った。


「私には、あなたは愛の話をしているように聞こえます」

「では、私たちは別々の言葉を話しているのね」

「彼は?彼はあなたと同じ言葉を話しているのですか?」


 女は携帯を見やった。


「彼の言葉は……」


 男は辛抱強く続きを待った。

 女は言った。


「……時々、私の中を素通りしていく。まったくなんの意味もなさずに──いいえ、意味は確かにあるの。ただ……」

「……あなたを苛むことはない?」

「……ええ」

「つまり──彼は優しい人なのですね」

「そうよ……」


 男はゆっくりした動作で女の前に回りこんだ。

 今度は男が女の頬に触れた。


「あなたはきっと、彼なしで生きられる……」


 男は静かに、女と顔を近づけた。お互いの呼吸を感じられるほどに。

 男は動きを止め、言った。


「ただあなたは、彼があなたなしで生きられるかどうかを知りたがっている……」

「そうかもしれないわ」


 女は目を逸らした。

 男は続けた。


「あるいは、すでにあなたの答えは出ている……」


 女は首を傾げた。


「……そう?」

「あなたは……いずれでも構わない」


 男は女から離れ、自分の部屋に戻った。


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