三原色
文化祭も終わり、あんなに賑わっていた構内は随分と落ち着いた雰囲気となった。それは学生の一大イベントが終わった空虚感からか、はたまた今年ももう終わるという哀愁感からか。今ではそこに冬休みに入ったことによる人気の少なさも加わって、学校内はどこかもの寂しげな空気感を纏っている。そんなことを感じるということは、俺自身がそう思っている、ということだろうか……。
「はぁ……」
ふと、立ち止まり息を吐く。生まれた白い息は肌を突き刺すような寒さに溶け、そのまま消えていく。それはまるで元から存在しなかったように、跡形もなくきれいに。
「……早く行こう」
誰もいない静かな構内に、小さな独り言が溶ける。俺は再び足を進め、もう目前となった九号館の中へと入る。
あれはいつのことだったろう。確か十二月の活動、有名な駅前通りのイルミネーションを撮影しに行った、その翌日のことだった。いつものように放課後の部室で本を読んでいると、さっきまで西尾さんと葛城さんと談笑していた彼女がふと「諫早くん」と、俺を呼んだ。
「……どうしたの?」
訊ねると彼女はニコリと微笑む。視界の端に映る二人も一緒に笑みを浮かべていた。
「あのね、今度みんなでパーティーしようよ」
「……ぱーてぃー?」
聞き馴染みのない単語に俺は最初、理解が追いつかなかった。数秒経てようやく意味を理解したところで、そんな提案をした彼女にまた理解が追いつかなかった。
そろそろ彼女の突発で突飛な提案に慣れてきたと思ったが、まだまだ先は長いらしい。
「……十二月の活動はもう済んだよ」
「そうじゃなくて、活動とか関係なく」
「……関係なく?」
「そう。普通に、みんなで遊ぶ感じ」
「……いつも遊んでると思うけど」
「それはそうなんだけどそうじゃない!」
「ははっ!」
「もう、何してるの二人とも」
俺たちの会話を今まで静かに聞いていた葛城さんと西尾さんが吹き出すように笑う。そんなに愉快な会話をしていただろうか。
「諫早、そんなに深く考えなくていいんだよ。ただ休日に会ってみんなで遊ぼうって、それだけ」
「ほら、十二月といったらまだ大きなイベントが残ってるでしょ?」
西尾さんに言われ、俺は十二月の暦を思い返す。
とはいえもう十二月も中旬で、残っているイベントといえば……。
「……年越し?」
「ベタ! 違う!」
「ほら諫早くん、ウィーウィッシュアメリクリスマス……」
「色葉それ答えだよ」
「あ!」
ハッと慌てて口元を抑える彼女に、再び葛城さんと西尾さんは笑みを溢す。やはり彼女には誰かを笑顔にする力があるのだと、そう思う。
「……えっと、クリスマスってこと?」
俺は彼女の歌った答えを再確認するように口にする。彼女は「正解!」と、一気に表情を彩った。
「だから、みんなでクリスマスにパーティーしようよ。どう?」
「……え、いや」
どう、と言われても……。俺は葛城さんと西尾さんを窺う。二人は相変わらずニコニコと笑みを浮かべていた。
恐らくさっき三人が話していた内容はこのことで、葛城さんと西尾さんも賛成しての彼女の提案だったのだろう。三人の笑顔から期待の色が見える。
「……どこでやるの?」
そう訊ねると三人は合わせたように目を見開く。そして、再び合わせたように……。
「前に使った装飾の残りもあるし、ここでいいんじゃない?」
「確か学校に入れるのって、今年は十二月二十三日までだったから、やるなら一日早いけどその日どうかな?」
「私は大丈夫よ」
「私も」
三人の視線が俺に向く。
「……俺も大丈夫、かな」
そして本日、十二月二十三日。例の鍵を使ってドアを開けると、部室の中は外と大差ないほど冷え切っていた。俺は石油ストーブに火をつけ、手をかざす。ボッボと音を鳴らす炎が青くなったことを確認し、軽く窓を開け、ようやく少し暖まった室内でコートとマフラー、鞄を机に置き、加湿用にタオルを二枚濡らしてハンガーに干す。
そのまま流しの前に立ち、ヤカンに水を入れて火にかけると、廊下から足音が聞こえてきた。次第に足音はこちらに近づき、止まったと思うと、ガチャンと部室のドアが開く。
「おはよー諫早」
「……おはよう」
どうやら足音の正体は葛城さんだったらしい。
恐らく俺もさっきまでそうだったのだろう、鼻先を赤く染めている。
「部室暖めておいてくれたんだね、ありがとう」
「……いや、たまたま早く着いただけだから」
「はは、そっか」
葛城さんはドアを閉め鞄を机に置くと、そのままストーブの前に座る。いくら外より暖かいとはいえ、冷え切った体にはまだ暖が足りていないのだろう。
「……お茶淹れるけど、葛城さんもどう?」
「うん、ありがたくいただくよ」
俺は棚からポットと葛城さんのコップ、そして紙コップを一つ取り出す。茶葉は葛城さんが美味しいと言っていたダージリンにしよう。
茶葉缶を開け、スプーンでポットに茶葉を入れる。一、二…………、三、四。
「それにしても今日は本当に寒いよね」
「……うん、最高気温、十度だってね」
「はは、それは寒いわけだ」
ピーとヤカンの口からお湯が沸いたことを知らせる音が鳴る。火を止め、ポットにお湯を注いで蓋をし、そのまま茶葉を蒸らしていると、再びこちらへ向かってくる足音が二つ聞こえてきた。
「おはよう、今日は寒いわね!」
「おはよう、あぁ部室あったかい」
ドアが開くと、やはり鼻先を赤く染めた西尾さんと彼女が一緒にやって来た。
「……おはよう」
「二人ともおはよー。もしかしたら雪が降るかもね」
西尾さんと彼女は机に鞄を置く。
「雪はいいけどこの寒さはムリ! 凍っちゃうわ!」
「架凛ちゃん、寒いの苦手だもんね」
俺はヤカンに残ったお湯を少し、葛城さんのカップに注いだ。
「……お茶淹れるけど、二人はどう、かな?」
チラリと顔だけ向け控えめにそう訊ねると、二人はこちらを向きニコリと笑った。
「部室に入った時からいい香りがすると思ったの。もちろん、いただくわ」
「ありがとう諫早くん、コート脱いだら手伝うね」
「……うん」
俺は正面に向き直し、棚から二つのコップを取り出す。
……よかった、多めに準備しておいて。
軽くお菓子と共に一服し体が温まったところで、のんびりと俺たちはクリスマスパーティーの準備を始めた。
最初に部屋の飾り付けからということで、壁際に置いてある段ボールの一つを机の上に置く。段ボールの中には文化祭の時に残った装飾のほか、今日のために買い足した雪だるまやトナカイのウォールスッテカーが入っている。それを壁や天井に飾り付けたり、葛城さんがどこからか持って来た小さなクリスマスツリーを飾り立てたりと、装飾後、思ったよりもクリスマスを感じられる内装に俺たちは感嘆し、三人は写真を撮った。
次に俺たちは買い出しへと向かうことにした。じゃんけんの結果、西尾さんと葛城さんがケーキを、俺と彼女がオードブルを買いに行く。彼女曰く、南の商店街でチキンなどオードブルが安く売られているお店があるということで俺たちはそちらへ、一方で西尾さんと葛城さんは駅ビルにあるケーキ屋さんへ向かうらしく、俺たちは正門で手を振り合い、二手に分かれた。
「本当に尚人くんには驚かされたね……」
「……そうだね」
正門の前の横断歩道を渡り切り、あの日以来、久しぶりにこの道を歩く。あの日とは景色も温度も随分変わったはずなのに、なぜか半年も前のことのようには感じなかった。
「どうしたの、諫早くん?」
「……え、いや、なんでもないよ」
「そっか。それでね、去年のクリスマスは……」
彼女はあの日と変わらず、隣で楽しそうに話を続ける。
……そうか。半年も、ここにいるのか。
商店街へ辿り着き、あの本屋さんを通り過ぎて俺たちはスーパーへ入る。店内に入るとクリスマスに関する装飾とBGMに迎え入れられ、加えて色とりどりの商品と人の賑わいを見ると、こちらの方が部室よりクリスマスパーティー感があるかもしれないと、ふと思ってみる。……いや、装飾も机に並ぶ品数も負けてしまうが、三人の笑顔と笑い声に彩られることであの部室は完璧なクリスマスパーティー会場へと完成するだろう。
お惣菜が置いてあるコーナーに向かうと、そこにはまだ二十三日だというのに大きな容器に詰められたオードブルがたくさん並んでいた。彼女が話していた通り、量と質に対してかなりコストパフォーマンスが良く、俺たちは無事買い物を終えスーパーを出る。帰路につきながら買い出しの完了報告をしようと彼女がポケットからスマホを出すと、ちょうど電話がかかってきた。
「あ、架凛ちゃんだ」
彼女はスマホを耳にあてる。少し歩く速度を落とす彼女に、俺も合わせて隣を歩く。
「もしもし。……うん、無事買えたよ。……うん、うん」
彼女のスマホから西尾さんの声が少し漏れ聞こえる。なんだか鬼気迫っているような声の調子で、あちらで何かトラブルでもあったのだろうか。
「……うん、分かったよ。うん、大丈夫、待ってるね。じゃあまたあとで」
電話を終え、彼女はスマホをポケットにしまう。歩く速度はそのまま。
「架凛ちゃんから電話でね、買いに行ったお店にホールケーキがなくて、他のケーキ屋さんもみてくるから少し遅くなるって」
「……そっか」
「うん。『絶対に見つけてくるから楽しみにしてて!』だって。ふふ、楽しみだね」
「……そう、だね」
どうやら鬼気迫っていた訳ではなく、意気揚々としていたらしい。食事へのこだわりがなんとも西尾さんらしくて、西尾さんの隣で葛城さんがニコニコと笑っているのが目に浮かぶ。
「ふふ、架凛ちゃんたちどんなホールケーキを買ってくるんだろうね?」
「……なんだろうね。無難にショートケーキ、とかかな」
「確かにクリスマスに売られてるケーキってショートケーキが多いよね。生クリームが雪っぽく見えるからかな?」
「……そうかもね」
「諫早くんなら、どんなケーキを買ってくる?」
「…………そうだね」
商店街のゲートを通り過ぎる。心なしか温度が下がったような気がした。
「……俺だったらみんなが好きなケーキを聞いて、それを一ピースずつ買ってくる、かな」
「ははっ、諫早くんらしいね」
隣で彼女がニコリと笑う。……俺らしい、だろうか。
チラリと再び隣を窺うと、彼女は「うん」と小さく頷く。そして、そのまま俺の方を向いた彼女と目が合い、
「ホールケーキは見た目華やかでパーティーぽくていいし、諫早くんの選び方はみんなが一番食べたいケーキが食べられてとってもいいね」
と、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺はそっと視線を戻し、マフラーに口元を埋める。やっぱり、少し暖かくなったかもしれない。
「あ、諫早くん見てみて」
彼女は俺の方を向いたまま、俺の後ろを見てすっと立ち止まる。俺も立ち止まって後ろへ振り向くと、そこはコンビニで、壁には「肉まん増量セール中」と書かれた紙が貼ってあった。
「肉まんだって。いいなぁ……」
やはり彼女が言っていたのはあの張り紙で、彼女は今もそれに釘付けとなっている。この寒さとお昼手前のこの時間、あの広告が魅力的に見えるのは仕方がないだろう。けれど、今ここで食べてしまったら……。
「……西尾さんたちが帰ってきたとき、ごはんが食べられなくなっちゃうんじゃない、かな」
「む、確かに……」
彼女はそう言うと、張り紙への視線を弱める。そしてそのまま肉まんへの熱望を抑え、帰途につく……と思いきや。
「あ、いいこと思いついた」
「……え?」
「諫早くん、ちょっと待っててね」
彼女は足早にコンビニへと入っていき、一分程度で入店前には持っていなかった小さなビニール袋を手に提げ、戻ってきた。
「お待たせしました!」
「……いいえ?」
「じゃあ行こっか」
彼女は特にビニール袋には触れず、今度は去年のクリスマスに三人で知育菓子を買い集めて作った時の話をしながら再び学校へ向け足を進める。俺も特に問訊も言及せず、静かに話を聞きながら彼女の隣を歩いた。……なぜ知育菓子?
十分ほどで学校が見え、正門をくぐる。そのまま真っ直ぐ部室のある九号館へ向かい歩いていると、
「……加賀さん?」
左隣を歩いていた彼女が急に立ち止まり、俺も立ち止まって振り返る。
「諫早くん、裏庭に行かない?」
「……え?」
突然彼女はそう提案する。
どうして? 裏庭に何かあるのだろうか? 俺は率直に彼女の提案に疑問を抱く。けれど彼女は何もおかしなことはないというように、いつも通り優しく微笑み俺の返事を待つ。
「……いいよ」
「やった。ありがとう、諫早くん」
彼女はくるりと身を翻し、裏庭へ向け足を進める。
この寒空の下、強いて言えば今すぐにでも部室で暖を取りたいところだが、彼女が行きたいというのであれば断る理由はない。俺も彼女の後に続いて歩き出す。
寒さが厳しくなったため、徐々に裏庭へ足を運ぶ機会も減った。梅雨の時期同様、お昼休みは部室を借りたり、空きコマは図書館や空き教室などで時間を潰したり。天気のいい日は温かい飲み物を片手に本に浸るときもあったが、それでも二週間近くは足を運んでいない。
久しぶりに訪れた裏庭はまるで時間が止まっているかと思うほど静かで、どこかアンニュイな雰囲気が漂っている。鮮やかに染まっていた草木は色づくことを忘れ、幹に留まっていた数枚の枯葉たちも今は全て地面の山となっている。
そんな空間を、柔らかく彩るが色が一つ。
「諫早くん、座ろう」
「……うん」
彼女に促され、俺たちはいつものようにベンチに座る。彼女はずっと手に持っていたビニール袋からおしぼりを取り出し手を拭くと、今度は袋の中から白い紙で包まれた何かを取り出す。そして、
「はい、諫早くん」
彼女は包まれた紙からほかほかと湯気を放つ肉まんを二つに割り、その片方を俺に差し出す。やはりあの時買っていたのは肉まんだったらしい。……けれどそのことより、
「……いいことって、これ?」
俺は困惑を帯びながら彼女に訊ねる。
「うん、そうだよ」
彼女は迷いなく答えた。
「半分こして一緒に食べよう」
ニコリと笑った彼女は再び「はい」と、紙に包まれた方の肉まんを俺に差し出す。
「……ありがとう。あ、お金」
「ふふ、私が勝手にやったこと大丈夫だよ。……けど諫早くん、これで共犯だね?」
「……あ」
受け取ると同時に彼女は悪い笑みを浮かべ、俺の反応を見るや否や今度は楽しそうに笑った。
「いただきます」
「……いただきます」
一口食べると肉まんはちょうどいい温かさになっていた。
なんだか体の中、胸のあたりがポカポカしていく。
「美味しい、やっぱり外で食べる肉まんは格別だね」
「……そうだね」
「諫早くんは他に好きな中華まんある?」
「……んー、そんなに食べたことはないんだけど、強いて言えばピザまん、かな」
「ピザまんも美味しいよね。今度みんなで中華まんパーティーしよっか。いろんな種類の中華まんを集めて」
「……西尾さんが一番喜びそうだね」
「ははっ、確かに!」
美味しさと温かさで俺たちはぱくぱくと肉まんを食べ進める。そして、あっという間に二人して肉まんを完食した。
「……ごちそうさまでした」
「美味しかったね。紙、袋の中入れちゃって」
「……ありがとう」
彼女のお言葉に甘えて包み紙をビニール袋の中に入れる。……すると、
「……お?」
「……あ」
彼女のポケットの中から軽快なメロディーが流れると同時に、俺のポケットの中でスマホが振動する。俺たちはそれぞれスマホを開くと、
『無事ケーキゲット!』
『あと三十分くらいで帰るね』
と、二人からグループメッセージが届いていた。
「無事ケーキゲットだって。諫早くんも見た?」
「……うん、見たよ」
「ふふ、楽しみだね。『了解だよ!』っと……。架凛ちゃんと尚人くんが帰ってきたら温かいものでも淹れてあげようか」
「……そうだね」
彼女の返信の下に俺も『お疲れ様』と送る。
「あ、そうだ。ねぇ諫早くん、今度みんなでマグカップ買いに行こうよ」
「……マグカップ?」
「うん」
彼女はビニール袋の口を縛ると、不意にそんなことを口にする。
「ずっと気になってたの。諫早くん、お茶を飲むときいつも紙コップを使ってるでしょ? 私と架凛ちゃんと尚人くんは百円ショップで買ったコップがあるけど、でもせっかくならもっといいカップを使って飲んだ方が見た目も味も楽しめると思うの。それで、そのカップをみんなでお揃いにしようよ。自分のものだって分かるように、ちょっと変えてね」
彼女はそう言うと、首を傾げニコリと笑う。
確かに紙コップだと中にお茶を注いだ直後は熱くて持ちにくいし、マグカップで飲んだ方がプラスチックコップでの飲むよりも楽しめるかもしれない。……それに、ここに西尾さんと葛城さんがいたら二人も賛成していただろう。
「……うん、いいね。どう区別をつけようか」
彼女は嬉しそうに、一瞬目を見開く。
「そうだね。分かりやすいのはやっぱり名前だよね。イニシャルがデザインされてるものとか?」
「……すると、加賀さんだったら『K』?」
「うーん、それだと尚人くんも『K』だから、イニシャルにするなら下の名前の方がいいよね。他には何かあるかな?」
「……そうだね」
うーんと唸りながらも彼女は「カップに似顔絵を描く」や「トランプのスートみたいにそれぞれマークで分ける」など、いろいろ案を提してくれる。けれどなかなかこれといったアイデアは浮かばないようで、今もうーんと頭を捻る。俺も思考を巡らせてみるが、彼女以上の案など浮かぶはずもなかった。
「……あとはそうだね、マグカップの形とか柄は同じにして色を変えるとか。それぞれのイメージカラーにするとかどうかな?」
「……っ」
彼女の言葉に自然と息が詰まる。そして、息も思考も止まった俺の耳に、
『気持ち悪い』
『空っぽ』
「……!」
どこからかそんなことを囁く声が聞こえた……ような気がした。けれど近くにいるのは彼女だけで……いや、あれは彼女の声ではなかったし、彼女はそんなこと言わない。言うはずが、ない……。
「……諫早くん?」
「……あ」
あの声が幻聴だと、自分の勘違いだと理解しているのに、彼女の目を見ることができない。言葉が詰まり、何も返すことができない。
辺りはいつの間に、こんなに冷え込んだのだろう。空気は冷たさを増し、冷気が俺を固く包んでいく。それはまるで、このままずっと俺を包み込み溶けることはないと告げるような、そんな凍てつくような寒さだった。
「…………私は、架凛ちゃんは暖色系だと思うな」
「……え」
突然の彼女の言葉に俺は恐る恐る彼女を覗く。すると、彼女は何も着飾っていない桜を見つめていた。
「架凛ちゃんはキラキラした明るい色で、尚人くんは……寒色系で、爽やかな色かな」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。まるで、二人を思い出しながら、実際にその色を目にしたことがあるような、そんな躊躇いのない真っ直ぐな言葉を。
「……って、抽象的過ぎるよね」
あはは、と照れ笑う彼女と目が合う。彼女と目が合った途端、今まで俺を包んでいた冷気がふわりと消える。温かな日差しに、寒さが和らいでいく。そして、
「諫早くんは、何色が見える?」
彼女は俺の目を見つめたまま、そう問いかける。その瞳は優しさと温かさで満たされた、俺のよく知っている色だった。
「…………西尾さんはオレンジ色で、葛城さんは緑色」
誘われるように、自然と口から言葉が零れる。俺は一瞬、言葉にしてしまったことへの焦りと戸惑いでハッと我に返ったが、彼女は静かに、俺に耳を傾ける。それはまるで、物語の続きを待つように。
その姿に俺は視線を空へ向け、深く、深く、息を吸う。
「……西尾さんのオレンジはエネルギッシュで社交的、太陽というより夕日に近い色。後ろから俺たちを押してくれるような、遠くにいても届く、明るくてキラキラしたオレンジ」
俺は一度息を飲む。彼女は何も言わない。好奇も、一驚も、嫌悪も。
「……葛城さんの緑は深くて艶やか色。ツルを伸ばすように俺たちに手を伸ばして、困っていたらすぐに手を差し伸べてくれる。そんな爽やかで朗らかな、森林のような緑」
彼女は、まだ何も言わない。ただただ優しく微笑みながら、続きを待つ。
「……それで」
俺は今年の四月、初めてここで彼女と会った時のことを思い出す。
「加賀さんは、ピンク色……というより、桜色、かな。桜の花みたいに淡くて人を惹きつける、そんな柔らかい、春の陽気のような、温かくて優しい色……」
俺は大きく白い息を吐く。話し終えるとなんだか肩の荷が下りたような、不思議とそんな軽やかな心地だった。
俺は彼女を覗いてみる。すると、彼女はなぜかまだ続きを待つような、そんな目で俺を見つめていた。
「……加賀さん?」
「諫早くんは?」
「え?」
呼びかけたのとほぼ同時に、彼女は俺の目を見つめたまま、問いかける。けれど、俺は彼女の待つ答えがなんなのか分からなかった。
彼女は答えを待ち、俺は答えを探す。俺たちの間に落ちた沈黙が、裏庭だけでなく学校全体にまで広がっているのではと錯覚するほどに静けさが増した頃、彼女はゆっくりと、もう一度俺に問いかけた。
「まだ諫早くんのことを教えてもらってないよ。諫早くんは、何色?」
……あぁ、なるほど。
俺はようやく質問の意味を理解し、分厚く空を覆う雲を見上げる。
「……俺は白だよ。白紙。だから、何も色づいてない」
少し自嘲気味に答える。昔から当たり前になかったため、無意識に答える必要性すら感じていなかった。
「……さて、脱線しちゃったね。とりあえず、帰ってきたら西尾さんと葛城さんにも聞いて」
「違うよ、諫早くん」
「え」
彼女は食い入るように言葉を被せる。
俺は彼女を見る。彼女は真剣は顔つきで、俺を見ていた。
「白だって、ちゃんと色の一つだよ」
そう言うと、彼女は少し間を置いてから「うんうん」と何か納得したような声を出す。そして、いつも通りの柔らかい表情へと戻る。
「私も諫早くんは白色だと思う。深雪みたいな綺麗な色で、優しい諫早くんにぴったりだと思う」
彼女は自信満々に言う。けれど、俺はそれに異を唱えた。
「……白は色に入らないよ。紙だって、キャンバスだって、何も色づいてない時は真白なままでしょ」
白は白紙に色づけることはできない。誰がなんと言おうとこの事実は変わらないし、俺は変われない。ずっと、このまま……。
「そんなことないよ」
彼女は首を横に振る。
「確かに白紙に白を塗っても目立たないかもしれない。けど、絶対に分からないわけじゃない。白は反射して私たちに居場所を伝えてくれるし、黒板とかならチョークの白がどこに描かれてるか分かるよ。だから白だって綺麗な色の一つだし、それに、白は三原色を集めた色でしょう?」
「……違うよ。三原色の集合は黒だよ」
太ももに置く拳に力が入る。彼女から目を背ける。
……もういいんだよ。加賀さんがどんなに奇跡的で、逆転的な考えをしてくれても事実は変わらない。俺はずっと変われない、変わらない、真白なまま……。
「……確かに『色』の三原色を集めた色はだけど、『光』の三原色を集めた色は白だよ」
「……え」
俺は目を見開く。そのまま、彼女を見る。
「さっき言った雪も、光の反射で白に見えるんだよね。だったら、諫早くんの白は光のように綺麗な色だね! ……って、そういえば、諫早くんの下の名前って『真白』くんだったね。私が考えるまでもなかったや。
……真白くんか。素敵な名前だね」
「……!」
俺は息を呑む。拳に再び力が入る。
ゆっくりと、彼女の言葉がずっと霧がかった俺の中に一筋の光を射す。
ゆっくりと、彼女の言葉に乗った温度が、俺の中の何かを溶かしていく。
それはまるで、雪解けの光のような、温かい『春』の光だった。
……そっか、俺にもちゃんとあったんだ。空っぽなんかじゃなかった。自分でも気がつかなかったものを、彼女は見つけてくれた。俺が嫌いだったものを、彼女は素敵なものだと言ってくれた。
ひゅうっと風が吹き上がる。目元を隠していた前髪がふわりと上がり、視界が広がる。その世界は、今までにないくらいキラキラと輝いていた。
「……あ、見て諫早くん! 雪だよ!」
彼女はベンチから立ち上がり、落ちてくる雪に手を伸ばす。
「今日はこれからみんなでホワイトクリスマスパーティーだね! ……あれ、でも今日はクリスマス当日じゃないから、ホワイトクリスマスパーティーにはならないのかな? 諫早くんはどうおも……って諫早くん! どうしたの!」
振り返った彼女が急いで俺に駆け寄る。
「な、なんで泣いてるの? どうかした? どこか痛い? 私、何か傷つけるようなこと言っちゃった?」
どうしたものかと彼女は慌てふためく。そんな彼女に、
「…………ふふ」
「え?」
「ふふふっ」
「諫早くん?」
堪えきれず俺は笑みを零す。彼女は突然笑い出した俺に、今度はどうしたものかと固まってしまった。
「ごめんごめん。大丈夫、どこも痛くないし、心配いらないよ。……ただ」
俺は左頬を流れる雫を、そっと右手の親指で拭う。
「ただ、目元に雪が落ちて溶けただけだよ」
そう言って俺もベンチから立ち上がった。
「さぁ、もうそろそろ二人も帰ってくるだろうし、部室に戻ろうか……『色葉』」
「……!」
彼女は大きな瞳を、これでもかと見開いて俺を見る。そして、一つ大きく息を吸うと、
「うん、真白くん!」
雪はより寒さを運び、吐く息はより一層白くなる。
けれど、キラキラと輝く白銀に、不思議と寒さは感じなかった。
さぁ、早くみんなでクリスマスパーティーを始めよう……
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