敬愛
あのクリスマスパーティーの数日後、俺たちは早速お揃いのカップを買いに行った。部室には色とりどりのカップが並び、写真も思い出も、一つ一つゆっくりと増えていく。
一月、人生で初めて年賀状を送り、貰った。年賀状には去年一年で撮った写真の中で自分が思うベストショットを印刷し送ることとなり、尚人は六月の旅行の写真、架凛は九月の風鈴が四つ映った写真で、俺も九月の花火大会の写真。彼女は先月のクリスマスパーティーの写真だった。
二月は三人が俺の誕生日会を開いてくれた。覚えていてくれただけで嬉しかったが、色葉は革製の文庫本サイズのブックカバー、架凛は飲みやすくて美味しいという日本酒、尚人からはおしゃれなスニーカーをもらい、涙が出そうになるほど嬉しかった。
その十二日後には、バレンタインチョコを見に行こうと架凛の提案でみんなでデパートへ行った。初めて見るその多種多様なチョコの並んだ売り場は多くの女性客が和気藹々と集まり、期待、興奮、緊張と、それぞれの思いが滲んで見えた。
帰り際にはいつのまに買っていたのか、架凛と色葉が尚人と俺にチョコをプレゼントしてくれた。家に帰ってから紙袋を覗くと、そこには二つ箱が入っていた。一つは形の綺麗なトリュフチョコで、もう一つはナッツやドライフルーツが散りばめられたブラウニーだった。どちらもとても美味しくて、次の日二人にお礼を言った。彼女は嬉しそうに「どういたしまして」と笑った。
三月、ホワイトデーのお返しとして、尚人と一緒に買い物へ出かけた。初めて二人で出かけ、いつもとは違うワクワク感があった。
駅ビルの中、多くの店を回り二人でお返しを考えた結果、やはり美味しいものを送るのが一番喜ばれるだろうと紅茶に合うお茶菓子を送ることにした。その後、二人へのお返しのはずがみんなでティーパーティーとなった。
三月三十一日、今度は彼女の誕生日会が開催された。
彼女には今まで色々なものをもらってきた。それはもう、感謝も謝罪も、言葉では全て言い表せないほどに。だからこそ、プレゼントという形で少しでも彼女に何か返したかった。
俺からの感謝が伝わるもの、それでいて彼女に喜んでもらえるものはなんだろう?
誕生日の数日前からずっと、ずっと……、何度も、何度も考えた結果、俺は彼女にガラスペンを送ることにした。全体的にうっすらとピンク色に染められ、ペン先には桜の模様が描かれたそれは、春を描くような美しいデザインで、彼女にとても似合うと思った。
そして誕生日会当日。緊張と憂慮でいっぱいになりながらも送ったプレゼントは、色葉を鮮やかに染めてくれた。その笑顔に、俺はなんだか心臓の奥が温かくなった。
あぁ、今年も春がやってきた。
「……ねぇ真白くん。今週の日曜日、一緒にお出かけしない?」
「え?」
俺はキョトンと口元まで運んだ卵焼きを止める。一方で俺に停止の魔法をかけた彼女は、自身のお弁当箱から卵焼きを箸で掴み取り、パクッと食べた。
新学期が始まり数日が経った。新しい学年となったことでカリキュラムのほとんどが専門科目となり、学部の違う彼女とは一緒に受講することはなくなった。けれど俺たちは去年同様、他に誰もいないこの裏庭でお昼ごはんを食べながら他愛もない話をする。いつものように彼女が突飛で突然な提案をしてきたのは、その時だった。
「えっと……ねぇ真白くん。今週の日曜日、一緒にお出かけしない?」
彼女は卵焼きを食べ終えると、さっきの言葉をもう一度繰り返す。
「いや、ちゃんと聞こえてはいたよ。そうじゃなくて……」
「ん? ……あぁ、えっとね、これ」
そう言って彼女が取り出したのは今度はお弁当箱の卵焼きではなく、鞄の中から出した長方形型の二枚の紙だった。
「友達にもらったんだけどね、新しくできたカフェの割引券なんだって。それでここのお店、パイ系が特に美味しいらしいの! だから一緒に食べに行こうよ」
「え?」
「え? ……あ、場所はツバメ駅から二つ隣で、駅のすぐ近くだよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「ん?」
他に訊かれることといえばなんだろう? そんな様子で彼女はこちらを見る。
いや、内容を聞きたかったわけじゃないが、内容を聞いてより一層自分の中に疑問が生まれる。
「それ、俺で合ってる?」
「え?」
今度は彼女がキョトンとした顔をする。
「いや、誘う相手……。新しいカフェなら特に俺じゃなくて架凛を誘うべきなんじゃ……」
そう言うと、彼女は「あぁ」と納得したような声を漏らす。ようやく誘う相手を間違えていることに気づいてくれた……と思いきや、
「……ふふ、ふ、あはは!」
どういうことか、彼女は可笑しいとばかりに突然笑い出した。再び俺の方がキョトンとする。
「ふふふ、笑っちゃってごめんね。でも間違ってないよ。私はちゃんと、真白くんと一緒に行きたいと思ってお誘いしたよ。だって真白くん、ミルフィーユ好きでしょ。なら最初に誘うのは真白くんだと思って」
「…………」
そんな話をしたことがあっただろうか。確かにミルフィールは好きだが、生憎そんな話をした記憶がない。無意識に首を傾げた俺に彼女はふっと笑い、一言。
「トランプ」
「……トランプ?」
あのカードゲームのトランプ? それなら三人と関わりをもってから幾度とやってきた。普段の活動や移動の際の電車の中、旅行の夜だって夜更かしをして行った。
「……あ」
俺はここまできてようやく思い出した。確かトランプ大会と称したあの暴露大会の中で、俺は好きな食べ物を訊かれた気がする。けれどあれは十ヶ月以上も前のことで、それでも、彼女はそのことをずっと覚えていた、ということだろうか。あの数ある質問の中で、俺の些細な答えを……。
「……うん、俺も行きたい。ありがとう、色葉」
「ふふ、どうしたしまして。じゃあ、十三時にツバメ駅に待ち合わせようか」
「うん」
「あ、そういえばこの間架凛ちゃんの誕生日にみんなで行ったカフェにね、今私の友達がアルバイトしてて……」
彼女はまた楽しそうに他愛ない話を再開する。俺は話を聞きながらパクッと卵焼きを食べた。
……そういえば、休日にサークル活動以外で彼女と二人出かけるのは初めてだ。
ふと空を見上げる。視界には、柔らかな水色の中に一枚の花びらがひらひらと踊っている姿が見えた。
「…………」
以前尚人と二人で出かけた時は、ワクワクした気持ちで満たされていた。けれど今はその時とはまた少し違う、少し浮き立つようなこの気持ち。
「ね、すごいよね諫早くん!」
「え、あ、うん。……そうだね」
お弁当を食べる彼女の髪に、ひらりと花びらが落ちる。
……この気持ちは、きっと春が運んでくれたものだろう。
それからあっという間に約束の日曜日になった。玄関を開けると目を細めてしまうような暖かな日差しに、俺はこれから会う彼女のことを一瞬思い出し、家を出る。
最寄り駅から乗車予定の電車に無事乗り、電車は時刻通りツバメ駅に到着する。ホームに下りてコンコースへ通じる階段を上ると、近くの椅子に座ってこちらに手を振る彼女の姿が見えた。俺は人にぶつからないよう少し足早に彼女の元へ向かう。
「お待たせ」
「ううん、待ってないよ。じゃあ行こっか」
「うん」
彼女は立ち上がり、目的のホームへ向かって一緒に歩く。
「諫早くん、お昼ご飯食べてきた?」
「軽くね」
「私も。いっぱい食べられるようにおにぎり一つだけにしてきたの」
いつも通りの彼女に、俺も努めていつも通りを装う。それからやはりいつも通りに彼女が話をしてくれていると、いつの間にか電車はホームに着き、俺たちを二駅隣へと運ぶ。
彼女の案内のもと、俺たちは歩いて今日の目的であるカフェへ真っ直ぐ向かう。十分くらい歩いたところで彼女が「あそこだよ」と横断歩道の先を指差すと、そこには綺麗に手入れされた植木に花壇、白をベースにした真新しい木造の建物と、そして多くの人たちがお店に足を運んでいて予想以上の賑わいを見せていた。
「並んでるね」
「そう、だね」
横断歩道を渡りお店の前へ辿り着くとお店の中はもちろん、外のテラス席まで満席で、順番を待つ人が何十人もお店に沿って並んでいるのが見える。恐らく、今から一時間以上は並ぶことになるだろう。
「うーん、時間ずらしたつもりだったんだけど全然入れそうにないね。ごめんね、私のサーチ不足で……」
「そんなことないよ」
彼女は眉を八の字に作りながらも笑顔を作ってみせる。この笑顔の時の彼女が外面に反して内面はすごく困惑していることを、俺は知っている。
「……色葉、まだお腹の減りは大丈夫?」
「え? うん、大丈夫だけど……」
眉の形はそのままに、彼女は俺を見つめる。
「実はこの近くに古本屋さんがあるらしくて、ずっと気になってたんだけど、なかなか行く機会がなくてね。色葉がよかったら、今からその古本屋さんに付き合ってくれない、かな?」
俺は不安そうな瞳にそう問いかける。急な俺のわがままに、彼女はさらに戸惑ってしまうだろうか。そんなことを考えていると、それは杞憂だったとはっきり分かる。
彼女はさっきまでの表情を一瞬で消し去り、代わりにいつもの彼女らしい笑みを浮かべた。
「もちろんだよ! うん、早速行こう!」
「ありがとう。確か送ってもらった住所がメッセージに……、あった。こっちだね」
俺はマップを見ながら足を進める。隣を歩く彼女を一瞥すると、今も嬉しそうに笑っていた。
……よかった。彼女が古本好きだったようで。
「……ここ、かな?」
カフェから歩き始めて約十五分。俺たちはようやくマップの示す住所前まで辿り着いた。
そこは駅前の大通りから外れたアンティーク調の小さなお店で、扉の前には「My Clock」と書かれた看板が立っていた。
「なんだか趣のあるお店だね。入ってみようか」
「うん」
彼女は一歩前に出てドアハンドルに手を掛ける。見た目に反し軽やかに開いたドアは、カランカランと内側に付いていたドアベルを軽快に鳴らす。
「ごめんくださーい……うわぁ」
「……ぁ」
中に入ると俺と彼女は同時に息を漏らす。そこには大きな書架がこれでもかと列をなし、奥にはこれまた大きな置き時計が静かに振り子を振る。書架の間は人がギリギリ二人通れるかくらいの狭さだが不思議と圧迫感はない。外装にマッチしたランプやインテリアにもこだわりを感じ、ここはまるで店主の好きなものを詰め込んだ、秘密基地のようだ。そのワクワク感が俺たちにまでゆったりと伝わってくる。
「……おやおや、新顔さんだね」
キィ、と奥のドアが開くと同時に、少し掠れながらも穏やかな声が俺たちを声の元へ振り向かせる。視線の先には白髪に白髭、そして朗らかさが浮かぶ優しい瞳をしたおじいさんがそこに立っていた。恐らく、この人がこのお店の店主だろう。
「あ、お邪魔してます」
「すみません勝手に入って……」
「いえいえ、大丈夫ですよ。こちらこそすみませんね、最近腰が痛むものでなかなか動けなくてね」
おじいさんは変わらず穏やかな声で応え、ゆっくりとこちらへ足を進める。
「それにしても珍しいこともあるものだね。ここはほとんど顔なじみのじいさんしか来ないから、新しいお客さん……ましてや、あなた方のような若い子が足を運んでくれるなんて……。あーいえいえ、こんな言い方をしては誤解させてしまうね。んん、ようこそ、いらっしゃいませ。ここにある本は傷や経年劣化で色褪せてしまったものが多いけれど、どれもページを捲れば心踊る物語を秘めた、素敵な蔵書たちです。気になったものがあれば是非手に取ってあげてください」
そう言うとおじいさんは軽く会釈し、俺たちもつられて会釈を返す。すると、おじいさんはニコリと笑みを浮かべ、踵を返し扉の向こうへと戻っていった。
「……ねぇねぇ真白くん」
パタリと扉が閉まり、彼女は真面目な顔で俺に声をかける。
「どうしたの?」
「……このお店、さっきのおじいさんも含めて私たち、なんだか物語の中に入ったみたいな感じしない?」
その真面目な表情から思いもよらない発言に、俺はふと彼女の瞳をよく見ると、その中にウキウキとした興奮と高揚の色が見えた。どうやら困惑の色はもうすっかり消えたようだ。
「……そうだね。俺もこのお店に入ってからずっとワクワクしてるよ」
「私も!」
俺たちは入口近くの書架から順番に本を見ていく。本のジャンルは小説に限らず、実用書、ビジネス書、専門書、そして洋書などの様々な国の本が汗牛充棟に並んでいた。店主の言っていた通り、その本の多くには傷や劣化が見られたが、中には百年以上前に出版されたものもあり、むしろこの程度でよく保存が行き届いていると思う。
「……これ、大正時代に作られた六法全書だ」
「こっちには源氏物語が五十四巻全部揃ってる。他にもうちの図書館にもないような本がいっぱい……」
「ここって国立国会図書館、かな……」
「ははっ。確かに、それくらい珍しい本がたくさんあるね」
その後も俺と彼女は気になった本を手に取っては軽く流し見、また違う本に手を伸ばす。本の内容だけでなくカバーの質感や文字のフォント、あらゆるものが今まで触れてきたものと少しずつ違い、それらの差異も楽しみながら俺たちは手と足を進めた。
「……あ、これ」
俺は書架の端に仕舞われた一つの本に目が止まる。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
そう言いながら手を伸ばした本は、ハードカバーの表紙にタイトルが隠れるほどの大きなシミ、そして長年の日焼けで小口や天はだいぶ黄ばんでいた。だいぶ劣化が進んでいるが、それでも見間違うことは決してない。
「この本、小さい頃よく読んでたんだ……」
昔、入院中の母が読み聞かせてくれた本。学校帰り、家で一人読んでいた本……。
「へぇ……、どんなお話なのかな?」
「えっと、確か春を運ぶ妖精が色々な世界を飛び回って、春を告げる花を咲かせる話……」
うろ覚えの記憶で俺はそっと表紙を撫でる。その少しザラザラとした質感に、あの頃小さな手で何度も何度も一生懸命物語を追った記憶がおもむろに思い出される。
「……この子には花を咲かせる力しかないんだけど、道中でケンカしていたお友達を仲直りさせたり、娘さんを失って塞ぎ込んでたお父さんをもう一度前に向かせたり、出会ったみんなを笑顔にしていくんだ。そうして、妖精は最後の役目の場所に辿り着き、そこで全ての力を使い、消えてしまう……」
「え、消えちゃうの?」
彼女は予想していなかっただろう結末に声を漏らす。
「うん。……そこはもう何年も冬が続いてて、作物もほとんど育たない、雪で覆われた村だったんだ。これ以上ここでは生活できない、って村人たちは泣く泣く村を離れようとするんだけど、なかなか故郷を離れることはできなくて……。そんな時に妖精が訪れるんだ。妖精はみんなの気持ちを汲んですぐに自分の力を使うんだけど、どうしてか花は全く咲かない。それでその原因を探るために数日、村のあちこちを村人たちと見て回ると、森の奥深くにある村の神樹が倒れているのに気づき、これが春が訪れない原因だと知る。
村人は落胆した。神樹が倒れていたことに気づけなかった遣る瀬無さと、もうこの場所から離れるしかないという現実に。妖精もどうにかできないかと考えるんだけど、村人はそんな優しい妖精に『もういいんだよ』と感謝を告げ、旅立つ準備をする。その寂しげな姿に、妖精は一か八かとあることを決心するんだ。
妖精は一人神樹の元へ飛び、微かに残っていた神樹のエネルギーと自分の力を使うと、次第に村を厚く覆っていた雲が消え、温かな日差しが降り注ぐ。空を見た村人は驚き歓声を上げたあと、妖精を探すんだ。きっとあの子のおかげだと、感謝を伝えるために。そして、再び神樹の元へ行くと妖精の姿はなく、代わりに倒れた神樹の株から一輪の花が咲いているのに気づく。その途端、村人たちは悟るんだ。あの子が全ての力を使い、この花を咲かせたことを。自分たちのために、この村に春を運んでくれたことを。
その後、この村は『春を運ぶ村』と言われるほどずっと多種多様な花が咲き乱れる美しい場所になるんだ。たった一輪だったあの花も、村人たちの手によって花畑になるほど美しく増えて、春を運ぶ妖精は自ら春を告げる花となり、物語は終わる…………って、ごめん。長々と勝手に最後まで話しちゃって……」
話し終えた俺はハッと我に返り、彼女を見る。聞いていないことまで長々と話されさぞ迷惑そうな顔をしていると思ったが、彼女はとても穏やかに、柔らかな笑みを俺に向けていた。
「……色葉?」
「あ、ごめんね。ふふ、素敵なお話だなと思って聴き入っちゃった。真白くん、この本が大好きなんだね」
そう言うと、彼女はいつもの笑顔を見せる。
「私も読んでみたいな」
彼女のその言葉に俺は目を見開く。無意識に手は前髪を押し撫でていた。
「…………なら、うちにあるのでよければ貸すよ」
「え、いいの? やったぁ!」
彼女の嬉しそうな顔を見て、俺は緩んだ口角を見せないようそっと書架に本を戻す。
彼女に好きな本を気に入って貰えた高揚感を感じながら、いつも見ているはずの彼女の笑顔に、ふと俺はぼんやりとあることを思った。
そのあといつの間にかレジの横にある椅子に座っていたおじいさんにお礼を言い、俺たちはお店を出る。おじいさんは「またいつでもいらっしゃい」と笑い、ドアの前に立って俺たちを見送ってくれた。俺たちはまた行こうと、内緒話をするようにお店を離れた。
再び例のカフェへ向かうとピークが過ぎたのか、外に並んでいた列はなくなっていた。お店の中へ入ると、空いているとまでは言えないがそれでもポツリポツリと空席が数カ所あり、俺たちに気づいた店員さんがすっと席に案内してくれる。
席に着いた俺たちはメニューをテーブルの上に広げ、あれにしようこれにしようやっぱりこっちにしようとメニューの端から端まで目を惹かれながらようやく注文を終え、提供を待つ。俺はミルフィーユとダージリンのセット、彼女はアップルパイとカフェモカのセットに、小腹も空いたということで一緒にサンドイッチのバスケットも注文した。
軽食のため待つ時間はあまりかからなかった。頼んだものが全て配膳され、早速俺は評判だというミルフィーユにフォークを入れて一口食べる。サクサクとしたバターの香ばしいパイに滑らかなカスタードと酸味のある苺が合い、思わず舌鼓を打つ。なるほど、確かにこれは評判が広がるほど美味しい。
「どう、真白くん?」
目の前のアップルパイに目もくれず、なぜか恐る恐るそう訊ねてきた彼女に、俺はバレないようにクスリと笑う。
「うん、すごく美味しいよ」
「! よかった! 私のアップルパイも美味しいそうだから食べて食べて」
「え、でもまだ色葉も食べてな……」
安心したように笑った彼女は俺の話そっちのけに、まだ自身も食べていないアップルパイを半分に切り分け、取り皿に分けてくれる。
「はい!」
「……ありがとう。口つけちゃったけど、よかったら色葉もどうぞ」
「ありがとう真白くん」
それから俺たちは一口一口味わいながら、また他愛もない話をする。
考えてみれば、今日一日「学校の裏庭」で過ごしている時とそう変わらないのかもしれない。本を読んだり、ご飯を食べながらいろんな話をしたり……。
「ふっ……」
場所が変わっても変わらない俺たちに、思わず笑みが零れた。
「……ん! 真白くん、このサンドイッチもすごく美味しいよ」
彼女はキラキラした目をしながら、本当に美味しいそうにサンドイッチを食べる。
そういえば、こうやって彼女と正面で過ごすのは初めてかもしれない。いつもベンチに座るときは隣同士だし、サークルの時に向かい合って座ることはあっても二人だけでいる時の彼女の表情をちゃんと見たことはあまりなかった気がする。
「……そっか。じゃあ俺も」
「どうどう?」
「うん、卵ふわふわだね。すごく美味しい」
「だよね」
……そっか。俺といる時、彼女はこんな笑顔をしているのか。
変わらない日常。けれどいつもより少し特別な感じがした。
今日はずっと彼女が隣にいてくれた。ずっと楽しそうに笑ってくれた。それが俺には、すごく嬉しかった。
この気持ちは、なんというのだろう……。今まで読んできた本の中に、こういった気持ちを表現する言葉がきっとあったかもしれない。けれど、今まで言葉そのままに読み流していた俺には、この気持ちに対する適切な言葉を見つけることが難しい。
俺はこの気持ちにとりあえず、『大切な友人への敬愛』と、表現することにした。
今はまだ焦らなくていい。きっと、この先もまた同じような気持ちを思う日が来るかもしれない。その時にも俺がまだ答えを見つけ出せなかったとしても、彼女はまた、俺にこの温かな気持ちを、抱かせてくれるだろう。
そして、いつかこの気持ちの名を知った時、一番最初に、君に伝えよう。
あっという間に時間は過ぎ、時刻はもうすぐ十八時を回る。俺たちは会計を済ませカフェを出ると、太陽はもう地平線に隠れかけていた。
駅へ向かう道中、彼女が電車の時刻を調べてくれると、ちょうど電車の発車時刻が今から急いで間に合うか間に合わないかの瀬戸際ということで、一分間の相談の末、俺たちは走り出した。
はぁはぁと二人して息を切らしながらなんとか乗車すると、お互い顔を見合わせて堪えるように笑う。
「真白くん、前髪どっかいっちゃってるよ」
「色葉だって綺麗なセンター分けだよ」
「うそ!」
「ははっ!」
慌てて前髪を抑える彼女に今度は笑いを抑えられなかった。
そのあと、前髪の飛んだ姿を写真に撮られ俺は見事にやり返される。もちろん、写真同好会のメッセージグループに送りつけてやるという脅し付きで。
精一杯の謝罪の末、どうにかメッセージグループへの流出は免れたが彼女のスマホの中で半永久的に俺の痴態は残されるらしい。
「大丈夫。可愛く撮れたから」
「……フォローになってないし、嬉しくないよ」
そんなことをしているとたった二駅分の乗車はあっという間に終わり、ツバメ駅に着いた。一緒に階段を登り改札へ向かうと、途中彼女は立ち止まる。
「……色葉?」
「真白くん、ここで大丈夫だよ」
そう言って彼女が立ち止まったのは、俺が乗り換えるホームの階段目前だった。そして階段上にある電光掲示板は、あと五分で電車が到着することをアナウンスする。
「真白くん、今日は一緒に来てくれてありがとう。すごく楽しかった」
大きな瞳と鮮やかな桜色は、言葉では表しきれない気持ちまで俺に真っ直ぐ語ってくれる。
「……俺もだよ。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
「ふふ、それじゃあまたね」
「また……」
手を振りながら踵を返す彼女に、俺も手を振り返す。
……本当に楽しかった。今日一日、時間が過ぎるのを忘れてしまうほど。遠くなっていく彼女の後ろ姿に、名残惜しさを感じるほど。
彼女も同じことを思ってくれただろうか……。
「…………色葉!」
気づいた時には俺は彼女の名前を呼んでいた。俺の声に気づいた彼女は足を止め、こちらを振り返る。
「また……、また一緒に行こうね」
「! ……うん!」
少し驚いた表情を見せたあと、彼女は嬉しそうに笑った。
俺たちは再び手を振り合って、俺は今度こそ階段を下りる。下りている最中、もしかしたら彼女も自分の同じ気持ちだったかもしれないと、証拠のない想像をしてみた。
自宅に着いてから俺はすぐにあの本を探した。確か自室の本棚の奥の奥。記憶を頼りに探してみると、本は確かにそこにあった。
もう何年もしまっていたため、少し埃っぽいカバーと天地を軽くティッシュで拭う。
「うん。これで大丈夫、かな」
これで明日彼女に渡そう。彼女はどんな感想を抱くだろう。改めて気に入ってくれるだろうか?
ワクワクする気持ちに、次第にウトウトと眠気が織り交ざる。
俺はそのまま招かれるように夢の中へと意識を沈めた……。
「プルルルル……プルルルル……」
「……ん」
ふと、スマホの着信音で目が覚める。まだぼんやりする頭のまま、俺は体を起こし机の上のスマホを手に取る。目を擦りながら画面を見ると、それは架凛からの着信だった。時刻は二十二時過ぎ、こんな時間にどうしたのだろう……。
「はい、もしもし……」
『あ、真白。ごめんなさい、こんな時間に』
「……いや、大丈夫……だよ」
電話に出ると架凛の様子がいつもと違うように感じ、少し困惑する。
「……どうしたの、かな?」
俺は違和感を覚えながら架凛に促す。すると、
『……今日、真白は色葉と出かけてたのよね?』
「え? あ、うん。そうだけど……」
『何時頃別れた?』
「……確か十八時過ぎの電車に乗ったから、その少し前、かな」
『……そう』
架凛らしくない、話の的を射ない言葉。なんだか胸の中が騒つく。
「……あの、架凛。どうかしたの、かな?」
無意識に口籠もりつつ、改めて訊ねる。電話越しに架凛が大きく息を吸ったのが聞こえた。それは何かを覚悟したような、そんな様子だった。
『…………真白、落ち着いて聞いて』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます