糸を引く
「……どうぞ」
「ありがとう、諫早くん」
椅子に座った彼女は俺を見上げ、ニコリと微笑む。俺はそれに少し口角を緩めて返した。
夏休みが明け、後期が始まった。あれから正式に写真同好会へ入部した俺は、三人とこの場所で相変わらずサークル活動に勤しんでいる。……いや、変わったところが数点。一つはあの遠慮していた写真の選別に、自分も参加した最近のものならと三人に助力してもらいながら携わるようになった。三人は突然の俺の申し出に、嫌な顔一つせず了承し笑ってくれた。他にも文化祭の店番と休憩のシフトに組み入れてもらったり、月に一度学校側に提出する活動日誌の書き方を教えてもらったり。中でも一番変わったのはサークルでの自分の立ち位置で、言わずもがな部外者から正部員に、そして部員の中でも平部員から……。
「うん、とってもいい香り」
「やっぱり諫早が淹れてくれたお茶は美味しいわね」
「本当だね」
三人はアッサムの入ったプラスチックコップを傾け、誰かが持ってきてくれたお菓子を片手にティータイムを楽しむ。その満足げな笑みを眺めながら俺も自席に座り、
「……どういたしまして」
と、「お茶係」として嬉しい賛辞に答えた。
どうして俺がお茶係として就任することとなったのか。それは遡れば夏休みが明ける少し手前、ある日葛城さんが控えめな装飾の施された小綺麗な箱を部室に持ってきたのが始まりだった。
葛城さんの嗜好とはあまり思えないその箱を、彼女と西尾さんは興味津々に中身を訊ねた。葛城さんは何も勿体ぶることなく、その箱を四つ向かい合わせの机の真ん中に置き、封を開けた。中身は外装に相応しい、一点の曇りのないガラス製のティーポットだった。見たところまだ未使用のようで「どうしてこれをここに?」と訊ねると、葛城さん曰く、父親の貰い物らしいが葛城家では誰も使わず、そして今後も使う予定はないそうで、ならばサークルの誰かに寄付するかここで試しに使ってみよう、ということで持ってきたらしい。
確かにこの部室には簡易コンロも流しも備え付けられ、お茶会(お菓子がメイン)もよく開催される。案の定、女性陣二人がそれに食いつかないはずもなく、早速使ってみようということで、その日すぐに茶葉と紙コップ、あとちょっとしたお菓子をみんなで買いに出た。
しかしここから問題で、部室に戻り必要な準備も整ったにも関わらず、率先していた二人も、ポットを持ってきた葛城さんも、誰も茶葉缶を開けてお茶を淹れようとせず、ただポットをじっと眺めた。
「……どうしたの?」
そう訊ねると三人は眉尻を下げて笑い、
「淹れ方が分からない」
と、口を揃えた。
俺は一瞬、目を見開いた。お茶の淹れ方について極めるわけでもなければ適当でいいだろうし、インターネットで調べればいくらでもやり方なんて分かっただろう。けれどその時の俺は、さっきまで意気揚々としていた三人が急に呆気を取られている様につい口元を緩めてしまった。
「……なら自分が淹れてみてもいい、かな」
そう言ってポットに触れてしまったのが運の尽きだった。それからもずっとお茶係の任を任されるようになってしまい、元来三人に押し負けやすい性格と、嬉しいことに三人が俺の淹れたお茶を美味しそうに味わってくれることも、許してしまった要因の一つだろう。
「あ、そうだ。文化祭で使う教室決まったよ」
葛城さんは思い出したようにそう言うと、コトンとコップを置き、机の傍に掛けていた鞄からクリアファイルを取り出す。そこからA4サイズの紙を一枚抜くと、
「今年は七号館の五階、五三二教室ね」
と、葛城さんは俺たちに見えるよう机の真ん中に紙を置いた。
そこには「文化祭中における教室の貸し出し許可書」と書かれ、下に辿って見るとさっき葛城さんの言った教室場所が明記されている。
「今年は五階か……」
「ちょっとお客さんを呼ぶには遠いわね」
「けど去年のちょうど一つ上の教室だから、もしかしたら去年来てくれたお客さんが気づいて来てくれるかも」
「それなら嬉しいね」
俺は三人の話を聞きながら紅茶を一口含む。
俺たち写真同好会が文化祭で行うのは以前聞いた通り「写真の展示」で、その展示には美しい自然や足を運んだイベント、さらには美味しかった食べ物など、今までの活動で収めてきた様々な写真を現像、レイアウトし、そしてその写真を撮った時の感想や周辺のオススメしたいスポットを一言メモ書きして写真に添えるというもの……らしい。
三人の会話から察するにどうやら去年も同様、会場はこの部室ではないようで、まぁこの教室に写真たちを展示するスペースとお客さんが歩けるだけの通路を確保するのは難しく、他の教室を借用するのはある意味必要事項だろう。
そして、その教室の場所次第で来てもらえるお客さんの人数も変わってしまう。五階というのは確かに目的がなければ足を運ぶような階層ではないため、三人が眉を顰めて書類を見つめるのも仕方ない。俺としては願ってもないことだが、それはこの際関係ない。
葛城さんはまた一枚クリアファイルから紙を取り出し、机に置く。そこには現段階において決まっている文化祭の参加団体とそのブース場所が記され、最後まで目を追っていくと、どうやら五号館の五階を使う団体は今のところ「写真同好会」と「道路研究会」という二つしかないようだ。これでは他のブースに頼って五階に人を招くことも難しいだろう。……道路研究会?
書類から顔を上げると、不意に彼女と目が合う。彼女はニコリと笑みを浮かべた。
「諫早くん、一緒にポスター描こうか」
「……ポスター?」
「うん。お客さんに『写真同好会のブースはここにあります!』って知ってもらうためのポスター」
どう描けばお客さんの目を惹くかなと、続ける彼女に俺はそうだねと、返す。すると今度は西尾さんと葛城さんの二人と揃って目が合った。……あぁ、なるほど。
「……加賀さんが描くポスターなら見た人みんな目を引いちゃうんじゃない、かな?」
「ふふっ!」
「ははっ!」
吹き出すように笑った二人に彼女は「あっ!」と声を出す。
「諫早いいね」
「やるわね諫早!」
「二人の差し金だね! 諫早くんも乗らなくていいんだよ!」
「……うん、ごめんね」
謝りながらも頰を少し緩ませた俺に彼女は「もう!」と言ったが、怒っている様子はなかった。むしろ、彼女はなぜか嬉しそうに顔を綻ばせた。
その後も文化祭の準備は順調に進んでいった。展示する写真の選定も、それに添えるメモの準備も、ブースの飾り付けも。結局例のポスターは彼女から有罪判決を受けた西尾さんと葛城さんが作成することとなり、二人に加担した俺も同罪かと思いきや、加賀裁判官の寛大な判断によってその罪は免れた。それでも一人免罪を受けるのはほんの少しばかり申し訳ないと思い、以前葛城さんが美味しいと言ってくれたフィナンシェと西尾さんの希望でミルクティーを用意させてもらうことにした。なぜか彼女が一番そのティータイムを楽しんでいたのを鮮明に覚えている。
そして、日を追うごとに肌寒さと金木犀の香りが増していくと、ついに、ついに本日、文化祭一日目がやってきた……。
「…………」
「諫早くん、大丈夫?」
「……あ、うん」
教室の壁際、L字型に置いた長机の端に席着いている俺を、これまたもう一つの机の反対の端に座る彼女が覗き込むように声をかけてくれる。俺は絞り出すような声で、彼女に答えた。
うちの文化祭は土日を利用した計二日間に渡り開催され、そこには学生家族や友人、地域の人や学校見学を兼ねた高校生など、来場者に制限なく多くの人たちが訪れるらしい。……そう、それはまぁ、分かっていたことなのだが。
現在、一般客の来場が始まる午前十時手前。教室内の最終チェックも終え、あとは開場が始まるのを待つだけとなった教室で俺は……ガチガチに緊張していた。
それもそのはず、窓の外、ここから見えるだけでも多くの人がすでに正門の前に集まり、開場を待っていた。
三人と行動し始めだいぶ人が多いところには慣れてきたが、けれどそれはいつも「主催する側」でなく「来場する側」で、今日はただ三人の後ろを付いていくのではなく、足を運んでくれたお客さんをもてなさなければならない。
接客、とまではいかないけれど、お客さんと三人に迷惑をかけないようにしなくては……。そんなことを考えながら窓の外に気圧され、これから始まる二日間に身構えていると、再び彼女は「大丈夫だよ、諫早くん」と、いつも通りの笑顔を俺に向けた。
「そうだよ諫早。それにポスターを貼ったとはいえ、うちは例年そんないっぱいお客さんは来ないから」
隣に座る葛城さんもニコリと微笑む。
「不名誉なことにね」
「まぁでも展示ものってそんな感じよね」
「……そう、だね」
ゆっくりと肩の力が抜けていく。三人のおかげで少し緊張の糸が緩んだ。
実際葛城さんが言った通り、開場を迎えてから窓の外や下の階層からは賑やかな声が聞こえてくるようになったが、写真同好会のブースに入って来てくれたのは西尾さんたちの友達がほんの数名ほどだった。そしてそのまま時刻は十一時を回り、
「それじゃあ第一陣は休憩に入りましょうか」
「そうだね。えーと、今日のこの時間は確か……」
「私と諫早よ。よし、じゃあ行くわよ諫早!」
「……え、あ、うん」
予定していたシフトの休憩時間となり、意気揚々とトートバックを片手に西尾さんは椅子から立ち上がる。その意気に押されながら俺も鞄を手に椅子から立ち、ドアの前に立った。
「じゃあナオ、色葉、よろしくね」
「いってらっしゃーい」
「楽しんできてね」
「……お願いします」
手を振る葛城さんと彼女に俺と西尾さんも手を振り返し、教室を出る。そのまま西尾さんの後ろを付いて歩くと、文化祭のブースマップが貼られた掲示版の前で立ち止まった。
「さて、まずどこに行きましょうか。この時間だし、最初はご飯系に行く? それならいろんな出店が並んでる外に出て見た方がいいわよね」
西尾さんはマップを指差しながら嬉々として話をする。その楽しげな様子に、俺はやはり申し訳ない気持ちになる。
「……西尾さん。やっぱり俺のことは気にしないで好きに回ってもらって大丈夫だよ。俺も少しは見て回って二人のところに戻るから」
そもそも俺と西尾さん……というか、俺と休憩時間が一緒になった人は二人で文化祭を見て回る、ということになったのは文化祭のシフトを決めた時だった。
「さて、じゃあ文化祭のシフトを組みましょうか」
「……シフト?」
「そう。ずっと教室にいたら文化祭を全然見て回れないし、そもそも疲れちゃうでしょ? だから店番する人と休憩する人を時間で分けるの」
「今年は二人ずつで分けられるからいいね」
「そうだね。去年は三人だったから、二時間くらい教室閉めてみんなで回ったんだよね」
「一人だけ教室に残るのも、一人だけ休憩時間っていうのもつまらないしね」
「さて、じゃあまず何時間休憩にしましょうか?」
「去年と同じ二時間だと長いのかな、二組に分けると計四時間はバラバラになるわけだし」
「そうね、じゃあ一時間半とかそれくらいかしら?」
「そうだね。そうすると十時から文化祭がスタートするわけだから、最初はみんなでお客さんが来るのも待つとして……」
「だいたい一班は十一時からがちょうどいいわよね。それで二班は十二時半から十五時までで、閉場の十六時まではまたみんなでいましょ」
「うん、いいと思う」
順調に方針が決まり、次に組み分けをしようという空気が漂う。
俺は小さく手を挙げた。
「……あ、俺は別に休憩時間なくて大丈夫だよ」
「え?」
「……え?」
三人が一斉にこちらを見る。その表情は揃って驚愕と困惑を彩ったものだった。俺もその反応に戸惑い、ただ三人を眺める。
しばしの静寂。最初に幕を上げたのは葛城さんだった。
「諫早、文化祭見て回らないの?」
「……まぁ俺は特に見たいところとかないから。それなら楽しみにしてる三人が回る時間を増やせた方がいいかな、て。あ、でも俺一人で残るのもサークルの評判に関わるだろうし、申し訳ないけど二人休憩はそのままで、休憩時間自体は俺を抜いた三人で好きに組んでもらって大丈夫だから……」
「何言ってるの諫早!」
西尾さんは突然声を張り上げる。眉根を寄せ、目を瞑り、眉根を戻し、頭を上に傾け、息を大きく吸い、頭を戻し、そして、ゆっくりと目を開けた。
「よーし、分かった。じゃあ諫早の休憩時間は同じ休憩時間の誰かが付いて行く!」
「……え?」
「はは、それいいね。元々同じペアになったらそうするつもりだったけど、これもう確定だねー」
「え、いや、俺はいいから、ちゃんとみんな好きなところ回って……」
「大丈夫よ諫早。自分が行きたいところも回るし、諫早も楽しめそうなところも回るから」
「え、や……」
「はーいもう決まったからダメでーす。だって諫早くんを一人にしたら、絶対あそこで本読んでるでしょ?」
「…………」
おかしい。なぜこうなってしまったのか。俺は三人でシフトを回してと発言しただけなのだが……。
そんなこんなで話は進み、厳正なるクジの結果、一日目のはずれを引いてしまったのが西尾さんというわけだった。……本当に申し訳ない。
すると西尾は勢いよく俺の方を見て、マップを差していた指を俺に向ける。その眉はやはり真ん中に寄っていた。
「何言ってるの諫早。言ったでしょ、楽しい思い出を作るの! それに自分の学校の文化祭をエンジョイしなくてどうするのよ! それとも、諫早くんは私と一緒に回りたくないのかしらー?」
そう言うと、西尾さんは悪い笑みを浮かべる。もちろん、最後のは西尾さんの冗談だと分かっているが、そう言われてしまっては俺が返す言葉は一つ。
「……そんなことないです。ぜひ一緒に回りたいです」
「ふふ、よろしい。じゃあ早速行きましょ。諫早、お腹空いてる?」
「……うん」
「それなら、やっぱり外に出てお店を回りましょ」
西尾さんはそう言うと、再び掲示板から歩き出す。俺はそれにまた付いて行こうとすると、西尾は一度立ち止まり、俺の横に付いて歩いた。
「…………」
「どうしたの諫早?」
「……いや、なんでもないよ」
校舎を出ると、五階の静けさが嘘だったかのようにやはり賑わいを見せていた。至るところから楽しげな喋り声や客引きの声。そして、
「あ、架凛ー!」
「あら、ハル! どうしたの!」
本日何度目かの西尾さんの友人からの呼び声。西尾さんは以前葛城さんと一緒にスポーツ大会の役員も担っていたし交友関係が広いことは知っていたが、まさかここまで行く先々でずっと声をかけられる姿を見ると、学校で西尾さんを知らない人はいないんじゃないかと思ってしまう。きっと西尾さんの面倒見や人の良さが人を惹きつける理由の一つだろう。
「うちのサークル、うどんを売ってるんだけど架凛おいでよ。これ、サービス券。架凛はいっぱい食べるからもう一枚おまけね」
「わぁ、嬉しい! ありがとう、絶対行くわ」
「うん! あ、そっちは友達?」
「そうよ。同じ写真同好会のメンバー」
西尾さんの紹介に合わせて俺はどうも、と西尾さんの友人に会釈する。
「ならあなたもどうぞ。うちのうどん、美味しいからぜひ食べに来て」
「あ、ありがとうございます……」
差し出された紙を見ると、そこには「うどん一杯無料券」と書かれていた。……うどん一杯無料ということは、西尾さんは二杯分食べるということだろうか?
「じゃあ行くね。またね架凛」
「またね」
手を振りながら去る友人さんに西尾さんも手を振り返す。西尾さんに向けて振っているのだから必要ないと思うが、俺もサービス券を分けてくれた優しい友人さんにお礼を兼ねて会釈を返した。
「やったわね諫早。じゃあ早速、このチケット使いに行きましょ」
「……うん」
そうして西尾さんと一緒に、主に食べ歩きをしながら文化祭を見て回る。うどんに唐揚げ、たこ焼きにスコーン。途中、西尾さんの友人がライブをしているとのことで、俺たちは広場に設置されたステージ前で演奏を聴き、再び足を進める。
どうやらうちの文化祭はだいぶ気合が入っているようで、学生による出店以外にも外部から業者さんが来てお店を出したり、ライブも芸能人の人が呼ばれたりと、西尾さん曰く他の学校に比べても来場者数はかなり多いらしい。
「諫早、こっち向いて」
「え?」
パシャッ!
突然シャッター音が聞こえた思うと、その音の先では西尾さんが俺にスマホを構え、写真を撮った。
「……急にどうしたの?」
「いや、我ながら文化祭を楽しみすぎて全然写真撮ってなかったなーって。それに、ちゃんと諫早も楽しんでるところ、二人にも見せようと思って」
そう言うと西尾さんはくるりと身を翻し、再びスマホを構える。ちらりと見えたその画面はカメラが内側の設定になっているようで、ピース姿の西尾さんと間の抜けた顔の自分が写っていた。
「ほら、諫早も」
「……あ、うん」
パシャッ、と再び軽快な音が鳴る。俺は西尾さんを真似て作ったピースを崩した。
「うん、いい写真。二人に送ろっと」
そう言うと、西尾さんは笑み浮かべながらスマホを操作する。俺もさっき見せてもらったが確かに「いい写真」で、きっと写真を見た二人はおかしげに笑うだろう。
西尾さんが写真を送っている間、俺はぼんやりと辺りを眺める。周りには相変わらず人が多く、笑みの絶えない空間が広がっている。……そういえば、今日はあの痛みが来ていない。太陽の光の他に、周りのほどんどの人が放つ光、眩しいはずの世界に俺はまだ目を眩ませ、逸らしていない。……どうしてだろう? 三人のおかげで慣れたということだろうか?
そんなことを考えていると、近くでまたシャッター音が響いた。けれど、その音はさっきの西尾さんや周りでよく聞こえた音とは違い、軽快というよりカシャンと機械音が混じった少し重たさを感じるような音だった。
俺はシャッター音が聞こえた方を見る。そこには立派なカメラを首に下げた学生と、来場者であろう学生服を着た女の子が二人いた。
「うん、綺麗に撮れたよ。よかったら六号館にあるうちのブースで撮った写真の現像もしてるから来てね」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに口を揃える女の子たちがカメラの学生を後にすると、学生は「すみません」と近くの人に声をかけ、今度はその人にカメラを構える。
「……あぁ、写真部の部員ね」
いつの間に写真を送り終えたのだろう西尾さんが俺と同じ視線の先を見て、そう呟く。
「……写真部?」
「そう。あっちはいつも写真の展示と、ああやって文化祭に来た人たちの写真を撮ってるの」
俺は西尾さんに向けた視線を、また違う人に声をかけカメラを構える学生へ戻す。
以前どこかの会話で三人が話していたが、どうやらあちらは写真同好会と違い、その名に相応しい活動をしているらしく、写真をコンクールに応募したり学校の広報誌に載せる写真を撮ったりしてるのだとか。確かに、学生の手元にあるカメラは見るからに本格的で高そうなもので、そのカメラを扱う手つきも慣れたものだった。
「……うちはしないの?」
不意にそんなことを訊ねてみると、西尾さんは目を見開く。けれど次第に目を細め、最後に頰を緩ませた。
「そうね。前に一度だけやったことがあるって先輩が言ってたけど、それ以降は今もやってないわ。……どうしてだと思う?」
「……機材とか技術があっちの方が上だから、かな?」
俺はパッと思いついた答えを口にする。
「ふふ、そうね。それもあるけど、ちょっと違うわ」
西尾さんはゆっくりと歩き出す。俺はその後ろを付いて歩いた。
「たぶんね、今私たちが同じことをやっても来年にはもうやらなくなるわ」
「……そう、なの?」
「たぶんね。うちは今も昔も『身内で楽しい思い出を作ろう!』ってスタンスだから、周りを撮るのもいいけど、やっぱり私たち自身が楽しんでいる写真を撮る方が性に合ってるってことなのよ。きっと色葉もナオも、同じことを言うと思うわ」
西尾さんは振り返り、ニコリと笑みを溢す。その笑顔と彩りが彼女と葛城さんとも重なり、容易に西尾さんと同じことを言う二人を想像つく。……俺もきっと、同じように答えるだろう。
「……そっか」
「そうよ。だから!」
パシャっ!
再び西尾さんはスマホを俺に向け、シャッターを切る。
「諫早ももっと笑いなさい? ちゃんと『サークル活動』しないと、ね?」
そう言うと西尾さんは笑みを浮かべたまま、なおもスマホを向け続ける。
「……善処します」
俺は今できる最大限で応え、一歩大きく踏み出し西尾さんの隣に立った。
オレンジ色が大きく弾け、輝く。
「GOOD!」
パシャッ!
文化祭二日目。相変わらず写真同好会のブースは客足が多いとはいえない盛況だが、それでも昨日に比べれば十分に一組とお客さんの来訪も増え、お客さんも三人と写真や写真以外のことについても楽しそうに話しては笑顔で教室を去って行く。その光景は展示ブースというより和やかな休憩スペースという雰囲気、かな。
「お姉ちゃん!」
再び四人だけとなった教室に元気な声が響く。一斉に声がした方、開けっ放しにしているドアへ目をやると、そこには小さなポシェットと水筒を斜めがけにした小学校低学年くらいの女の子が立っていた。少女は教室の中……というよりも、俺から見て右側、ある一方を見つめている。
「カナ!」
西尾さんは驚いたというように声を上げ勢いよく立ち上がると、L字に置いた机と机の間を抜けて少女に歩み寄る。少女も西尾さんに歩み寄せ、なるほど、少女がずっと視線を向けていたのはどうやら西尾さんだったらしい。
よく見ると少女の水筒には「西尾架奈」と書かれたシールが貼ってある。ということはさっき西尾さんをお姉ちゃんと呼んでいたところからも察するに、少女は西尾さんの……と考えたところで、
「あ、カナちゃん」
「こんにちはカナちゃん、久しぶりだね」
彼女と葛城さんが西尾さんと手を繋いでいる少女に声をかける。少女は手を繋いだままひょいっと西尾さん越しに顔を出すと、
「いろはちゃん、ナオくん、こんにちは」
と、笑顔で二人に応えた。どうやら俺以外みんな面識があるらしい。
二人に向けていた視線を少女はそのまま俺へと移す。その真っ直ぐな瞳に俺は少し臆していると、少女の視線に気づいた西尾さんは視線の先にいる俺をチラリと見たあと、
「あ、カナ。あのお兄ちゃんは新しくお姉ちゃんと同じサークルに入った……」
と、少女に俺の紹介をしてくれる。けれど少女はその途中に西尾さんの手を離し、俺の方へ歩み寄った。
少女はスッと俺の前に立つと、机越しに再び俺を射抜く。そして初対面である俺に少しも臆することなく、
「初めまして、西尾架奈です!」
と、さっき彼女と葛城さんに向けた笑顔を俺にも見せてくれた。そこには夏空のような澄んだ青。西尾さんとはまた違う、綺麗な空模様を写した色がキラキラと輝いていた。
「……初めまして、新しく架奈ちゃんのお姉ちゃんと同じサークルに入った諫早です。僕にも挨拶してくれてありがとう」
俺は少し前屈みに架奈ちゃんに応える。すると架奈ちゃんは「えへへ」と、嬉しそうに笑みを溢した。……笑った顔が西尾さんとそっくりだ。
「って、そうだ架奈、お母さんと一緒に来たんでしょ? お母さんはどうしたの?」
西尾さんがふっと安心した表情を解き訊ねると、架奈ちゃんはくるりと振り返る。
「お母さん、美味しそうな匂いにつられちゃって全然お姉ちゃんのところにたどり着かないから、おいてきちゃった」
「ははっ、さすが架凛と架奈ちゃんのお母さん」
「釣られてる姿、簡単に想像ついちゃうなー」
笑みを浮かべる二人に対し、西尾さんは「はぁ……」と片手で頭を抱える。
会ったことはないが、なんとなく俺も想像がついてしまう……というより、普段の西尾さんの姿が思い出された。
「まったくお母さんたら……。じゃあちょうど十一時になるし、休憩がてら一緒にお母さんのところ行きましょ。いい、色葉?」
「もちろん」
西尾さんと彼女は机の傍に掛けているトートバックを取り、そのままドアの前へ移動する。架奈ちゃんも二人に合わせて駆け寄り、再び西尾さんの手を取った。
「じゃあ行ってくるわね」
「尚人くん、諫早くん、店番よろしくね」
「二人ともいってらっしゃい。架奈ちゃん、またね」
「うん、またね!」
声をかけた葛城さんだけでなく、架奈ちゃんは俺にまで手を振ってくれる。その小さな手に、
「……楽しんでね」
と、俺は小さく手を振り返した。
三人が去ったあと、教室には再び静かな時間が流れる。静かといっても窓の外はさっきよりも賑わっているようで、お昼時のためかどうやら昨日西尾さんと回った出店の通りに人が集まっているのが見える。ここから俯瞰すると改めて人の多さを実感し、そしてあの大勢の中に自分が昨日いたと思うと少し信じ難いというか、なんだか感慨深い……。
「……ははっ」
突然、隣で葛城さんが笑い出す。
「……どうしたの?」
振り向き訊ねると、葛城さんは笑みを溢した。
「いや、諫早も文化祭を楽しんでくれてるみたいでよかったな、って」
そう言いながら葛城さんはさらに笑みを深める。その笑顔が七夕祭の時の西尾さんと重なり、またあの時のように滑稽な姿を晒してしまったかと、俺は無意識に視線を逸らす。
「……どう、だろうね」
別に、と返すのもあれだけ楽しませてくれた西尾さんに失礼だと思い、なんだか曖昧な返事となってしまった。視界の端で「ククっ」と堪えるように笑った葛城さんが見えたのは、きっと気のせいだろう。俺は軽く前髪を押さえる。
「あ、そうだ。ねぇ諫早」
何かを思い出したような声と共に、葛城さんは俺を呼ぶ。
「……なに?」
俺は少しだけ疑うように葛城さんの方を向いた。
「諫早って、古書店とか行く?」
「……え、あ、まぁ、立ち寄ることもある、かな」
脈絡も予想もしていなかった問いに、俺は少し戸惑いながら答える。けれど、葛城さんは何気ない会話をするように「そっか」と、そのまま話を続ける。
「実はこの間、中学時代の同級生と偶然会って話してね。それでその友達のおじいさんがここから二駅隣の場所で古書店をやってるらしいんだけど、友達曰く、かなり古い本とかタイトルも全く聞いたことないようなマイナーな本ばかり扱ってて、ほとんどお客さんの来ない、おじいさんの趣味全開のお店なんだって。その話を聞いた時に諫早なら興味あるかなって、一応その古書店の住所を聞いておいたんだけど、どう?」
葛城さんはニコリと笑う。俺は少し目を見開き、息を呑む。けれどそれは一瞬のことで、
「…………うん、面白そうだね。機会があれば行ってみたい、かな」
と、葛城さんに答える。
「よかった。じゃあ今住所送るね」
葛城さんは嬉しそうにポケットからスマホを取り出し、操作する。
……正直、俺が普段買って読んでいる本はどこの本屋さんにでも置いてあるようなメジャーなものばかりで、古書店は本当に見かけたら立ち寄ることもある程度と、わざわざ自分から足を運ぶことはない。けれどそんなこと関係ないと思えるくらい、葛城さんの優しさと自分のことのように喜んでくれる姿が嬉しかった。
「はい、送っといたよ」
ポケットの中でピコンとスマホが振動する。
「……ありがとう」
俺は口元が緩んでしまうのを抑えながら、ポケットの上からスマホを撫でた。
「よ、尚人!」
再び開けっ放しのドアから声が飛んで来る。活気ある声はさっきと同じだが今度は葛城さんを呼ぶ男性の声で、俺と葛城さんは揃って声の方を向く。
「トワ!」
葛城さんの呼び声に、青年は手を挙げニカっと笑う。
青年は俺たちと同い年くらいで、その隣にはさっき遊びに来てくれた架奈ちゃんと同い年くらいの少年が本を大事そうに抱えている。
「相変わらず暇そうだな」
青年は教室内を見回し、揶揄うような口調で葛城さんに向かい歩き出す。少年もそろそろとその後ろに続いた。
「相変わらずはトワだよ。それに、これでも去年よりはお客さん来てるんだよ。こんにちは、シュンくん」
葛城さんに「シュンくん」と呼ばれた少年は青年の後ろからチラリと葛城さんを窺うと、すぐに視線を逸らし隠れてしまう。
「ほら、シュン」
青年はさっきまでと打って変わる優しい口調で後ろに隠れた少年に促す。少年は恐る恐るといった様子で再び顔を出し、けれど視線はそのまま「……こんにちは」と小さく返した。
「悪いな、尚人」
「大丈夫だよ。久しぶりに会うから緊張しちゃうよね。あ、諫早。これ、俺の高校の同級生。で、こちらがその弟のシュンくん」
「おい、なんでシュンの紹介は丁寧なのに俺のは雑なんだよ」
さっきの揶揄いの仕返しとばかりに葛城さんは親指で青年、もといトワさんを指す。
二人とも互いのこのやりとりに慣れているのだろう、特に窘める様子もなく、逆に楽しんでいるようだ。あまりこういった葛城さんを見たことがないため、少し新鮮に感じる。
「よ、君、去年はいなかったよね? 新入り?」
トワさんは俺にも気兼ねなく声をかける。
「……あ、はい。少し前に入部した諫早、です」
「ふーん。なんか君変わってるね? 時期もそうだし、この突飛なサークルに入るなんて」
「…………そう、ですかね」
「トワ、あんまり諫早をいじめないでね」
俺がたじたじになっているのに気づいてか、葛城さんが間に入ってくれる。
こういったタイプの人には今までにも何度か話しかけられたことがあるが、やはり慣れない……。
俺は遠慮がちにトワさんを覗く。すると、トワさんはずっと俺と目が合うのを待っていたかのように、じっと俺を見ていた。
「いや、ごめんごめん。別にバカにしてるとかじゃないよ。俺、去年もここの文化祭に来たから他の二人のことも知ってるけど、いい雰囲気のサークルだなって思ってるし、何より俺、尚人と同じサッカー部だったから、こいつといるのが楽しいことめちゃくちゃ知ってるし! 君、えっと諫早くん、この変わり者たちのサークルに入るなんて見る目あるね」
そう言うと、トワさんは口角を思いっきり上げ、豪快に笑った。
……あぁきっと、この人は裏表のない、いい人なんだろう。悪意のない輝くその色は、メラメラと真っ赤に燃える炎のようだ。
「……そう、ですね」
少し控えめに答えると、トワさんと、なぜか隣で葛城さんも微笑んだ。
「……って、思い出した。俺、尚人を呼びに来たんだった。尚人、今からフットボールしようぜ。元チームメイトと!」
「え?」
急な話に葛城さんはキョトンとした顔を見せる。一方でトワさんはその反応が予想通りだったのか、はたまた気にしていないのか、
「実はさ、ここに来る途中で『フットボール大会開催! 飛び入り参加大歓迎!』ってチラシ見たんだよ。せっかくだし今から集まれるメンツでチーム組もうと思って。どう? 楽しそうじゃね!」
と、話を続けた。
「えぇ……」
トワさんの話に葛城さんは今度うーん、と悩ましそうな表情を浮かべる。
「確かに楽しそうだけど、俺、まだシフトあるし……」
「受付は全員揃ってからで十二時までなんだよ。他のやつにももうオッケーもらってるし、やろうよ、尚人!」
「いや、でも……」
そう言うと葛城さんはチラリと俺を見る。
きっとその視線は、俺だけにこの場を任せることが申し訳ないと思ってのものだろう。……葛城さんはそういう人だ。
「……大丈夫だよ。この調子なら俺だけでも店番できるし、せっかくだから行ってきなよ」
「諫早! お前いいやつだな!」
「え、ちょっ」
トワさんは突然机越しにガシッと俺の肩に腕を回す。初めてされるコミュニケーション法にどう返せばいいのか分からず、俺はそれにただおどおどする。
「……いいの、諫早?」
眉尻を下げる俺に、眉根を寄せた葛城さんがそう訊ねる。
「……もちろん」
俺はトワさんに腕を回されたまま、オッケーサインを作る。それを見て、胸を撫で下ろすように葛城さんは笑った。緑色が期待に染まる。
「ありがとう、諫早。絶対勝って来るから、休憩時間の時に話聞いてね」
「……うん、楽しみにしてるよ」
「よし、じゃあ行こうぜ! って、そうだ。シュンはどうする?」
ようやく腕を解いてくれたトワさんはこれまでずっと静かにしていたシュンくんに、思い出したように訊ねる。
「……いかない」
シュンくんは首を横に振り、答える。……と、なると。
「行かないか。シュンは賑やかなところ苦手だもんな。……悪い、諫早。俺たちが帰って来るまで、ここでシュンを待たせてもらっていい? 見ての通り、シュンは大人しくていい子だから何も迷惑はかけないから」
トワさんはシュンくんの頭にポンと手を乗せ、俺を見る。シュンくんも一度俺を見るが、すぐに目を逸らされてしまった。
「……俺は大丈夫だよ」
「マジ? ほんとありがとな、諫早! てことでシュン、ここでいい子で待っててな」
「……うん」
「じゃあよろしくね、諫早」
「……いってらっしゃい」
二人は教室を少し急ぎ気味に出ていく。一瞬見えた葛城さんの表情は俺たちといる時とはやはり少し違う、少年のような無邪気さをまとっていた。
俺は再度静かになった教室で、ゆっくりとシュンくんに声をかける。
「……疲れちゃうから椅子に座ってお兄ちゃん達が帰って来るのを待とうか」
シュンくんは小さくコクコクと頷く。
俺は葛城さんが座っていた椅子を引き「ここにどうぞ」と、座面を軽く叩く。シュンくんは大人しく椅子に座り、大事に抱えていた本を膝の上で開いた。
開いたページはパトカーが描かれた図鑑のようなもので、何度も読み返したのだろう、小口部分が少し汚れていた。
『パトカーにはナビミラーがついています。これはパトカーの助手席側から後ろの様子を見るためについています』
『パトカーの上にある赤色灯は高く上がるものもあります』
へぇ、そうなんだ……。無意識に俺はページを覗き見る。
「…………」
「…………あっ」
ずっと横から覗いていた俺が気になったのか、シュンくんは本に向けていた視線をいつの間にか俺に向けていた。
「……邪魔しちゃってごめんね」
「……別に」
そう言うと、再びシュンくんは視線を本へ落とす。
ペラペラと捲った他のページには警察官の制服や仕事の内容が書かれ、シュンくんは変わらず熱心に読み進める。……パトカー、というより警察官に興味があるの、かな。
「…………実はお兄さん、警察官を目指してる人と今同じ勉強をしてるんだ」
俺は何の気なしにそう呟いてみる。きっと本に夢中で俺の声など届いていないか、気にしないで本を読み続けるだろう。そう思っていると、
「……!」
シュンくんは勢いよくこちらへ振り向き、さっきまでの様子から想像つかないほどキラキラとした目で俺を見た。
「そ、そうなの? ど、どんなこと勉強してるの?」
興奮を帯びた瞳と声に俺は少し驚きつつ、けれどせっかく見せてくれたその灯火が隠れてしまわぬよう、体ごとシュンくんの方へ向き、答える。
「……そうだね、主に法律っていうのを勉強してるよ。法律って、シュンくんは知ってる、かな?」
「こういうことしちゃダメだよっていう決まりごと!」
「……うん、正解。他にも決まりごとを破っちゃった時にやらなきゃいけないこととか、いろんなことが決められているんだよ」
「いろんなこと?」
「……そう。法律は大きく六つに分けることができてね、憲法、商法、民法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟に分けられるんだよ」
聞き馴染みのない言葉にそろそろ興味が薄れてしまうかと思ったが、シュンくんは逆にどんどん興味を持って話を訊いてくる。
「じゃあ、お兄さんはその六つを勉強してるの?」
「……そうだね」
「ケイサツカンになる人も?」
「……そう、だね。民法とかはお仕事上必要になることは少ないだろうけど、とりあえず僕と同じ学部に入った人はみんな一通り勉強するよ」
「勉強難しい?」
「……難しいね」
「そっかぁ」
シュンくんは膝の上の本を手のひらで撫でる。その視線の先には警察官のイラストが描かれ、やはりその瞳には憧れが帯びていた。
「……シュンくんは将来、警察官になりたいのかな?」
不意に訊ねるとシュンくんの手がぴたりと止まる。
そのままキラキラした眼差しを少し落とし、小さく「うん」と頷いた。
「……だけど、ぼくヒッコミジアンだし、勉強も、お兄ちゃんみたいに運動もとくいじゃないから、ぼくじゃなれないかも」
語気が徐々に弱くなる。まるで、描く夢を絵空事だと思っているような、覚えのある表情をシュンくんはしていた。
「……そんなことないよ」
俺はシュンくんの頭にそっと手を乗せる。そして、
「……シュンくんは、どうして警察官になりたいって思ったのかな?」
俯くシュンくんの髪を一撫でし、訊ねた。
「……前に、お兄ちゃんとお出かけした時、ぼく、迷子になっちゃって。知らない場所で人もいっぱいいて、ぼく、どうしたらいいか分からなくて、道のすみっこで泣いてたの。そしたら、おまわりさんがぼくを見つけてくれて。お名前呼ばれて、お兄ちゃんが探してるよって、そのままお兄ちゃんが来るまで一緒にお話しながら待っててくれて。そのおまわりさん、ぼくが迷子になってるって聞いてずっと探してくれたってお兄ちゃんがいってたの。一人はさみしいから、見つかって本当によかったって言ってくれたの。……その時に、ぼくも誰かを助けられるような優しくてかっこいい、あのおまわりさんみたいになりたいなって」
震える声で、けれど当時を思い出し嬉しさを織り交ぜた声で、シュンくんは答えてくれる。きっとそのおまわりさんは、少年に憧れと、変わりたいという勇気と与えてくれたのだろう。
「……優しさに気づける人はね、その人自身も優しくて素敵な人なんだよ。だから、シュンくんならなれるよ。誰かを助けられる、優しくて、かっこいいおまわりさんに。そんな素敵な理由があるなら、なおさらね。それに勉強だってちょっとずつ頑張っていけば大丈夫。……そうだ、じゃあ今から少しお勉強しようか」
「え?」
真っ直ぐと俺を見つめるショウくんの頭をもう一撫でし、そっと手を離す。
「……例えばそうだね、警察官といえば悪い人を見つけて逮捕するよね。その逮捕には三つ種類があるんだよ」
「三つ? 見つけたらタイホできるわけじゃないの?」
「……そう。基本的には逮捕していいですよっていう許可をもらわないと逮捕はできないの。その許可をもらって逮捕することを『通常逮捕』っていうんだよ。二つ目に『現行犯逮捕』っていうのがあるんだけど、これは聞いたことあるかな?」
「ある! テレビで言ってた!」
シュンくんは自信満々に大きく頷く。
「そうそう。これがね、目の前で悪いことしちゃった人をすぐに捕まえる逮捕だよ」
「キョカはいらないの?」
「そう、いらないの。許可をもらいに行ってる間に逃げちゃったりするかもしれないからね。けど許可がいらないってことは、この人が間違いなく悪いことをしたっていうときじゃなきゃダメなんだよ。何もしてないのにいきなり逮捕されちゃったらみんな嫌だからね」
「うん、いや」
「……最後に『緊急逮捕』っていうのがあるんだけど、……これは説明するのが難しいね。えっと、大きな特徴なのは逮捕したあとすぐに許可をもらいに行かなくちゃいけないってこと、かな? ごめんね、勉強不足で」
「ううん。お兄ちゃん物知り! もっと教えて!」
「……そうだね、じゃあさっき話した現行犯逮捕はね、警察官じゃなくてもできるんだよ。僕でも、シュンくんでも」
「ぼくでも!」
「うん、でも危ないから絶対にしちゃダメだよ。他には……」
そうして、俺は小さな生徒に俺の持つ知識を一つ一つ話していく。それは拙く、決してまとまっているとは言えないが、それでも少年はワクワクと話を聞いては質問を重ねた。
「お兄ちゃん教えるの上手! もしかして先生?」
「……え、全然先生じゃないよ。シュンくんも勉強したら、僕以上にできるようになるよ」
目指すものに向かって一生懸命な人に比べれば、俺はただ事務的に勉強しているだけ。きっとシュンくんが大学生になった頃には今の俺の数倍、豊かな知識と経験で彩られていることだろう。きっと、その灯火はよりキラキラと輝くものとなっていることだろう……。
「じゃあぼく、大きくなったらこの学校に入学する。それで、その時はまたお兄ちゃんが勉強教えて!」
「……え?」
俺は突然のショウくんの言葉に目を見開く。一方でショウくんは期待と希望、そして真っ直ぐな大志を表したような真っ赤な色をキラキラと輝かせ、俺を見つめた。その色に、偽りはない。
「……そうだね。僕もシュンくんみたいな熱心でいい子ならもっと教えたい、かな」
「本当? 約束ね、お兄ちゃん! ぼく、勉強がんばるから!」
「…………うん」
差し出された小さな小さな小指に、俺は小指を重ねる。
やりたいことが特にあったわけでもなく、なんとなく興味があって入学し始めた勉強だった。けれど、その気持ちが少しだけ変わった気がする。
ほんの一歩、まだどこか分からない目的地に近づいたような、そんな気がした。
「ただいまー!」
「お兄ちゃん!」
「戻ったよ、諫早」
「……おかえり。試合、どうだった?」
「もちろん大勝利してきたよ。それに、久しぶりに懐かしいメンバーと一緒に試合ができて楽しかった。本当にありがとう、諫早」
帰ってきた赤色と緑色は、行く前よりもさらにキラキラと輝いている。
「……よかった」
「俺からもサンキューな! それじゃ、そろそろ行くわ」
「うん、また連絡する」
「またね、お兄ちゃん!」
「……またね」
元気に手を振る二人に、俺と葛城さんも手を振り返す。……やっぱり兄弟だな。
「いつの間にシュンくんと仲良くなったの?」
二人を見送りゆっくりと手を下げると、葛城さんが訊ねてくる。
「……ちょっとね」
「そう。嬉しそうだね、諫早」
「……そう、だね」
こうして二日目も終了し、校内アナウンスと共に文化祭の幕が下りた。
三人は無事に終わったことへの安堵と、今年も満足のいく結果だったことに手を掲げハイタッチをする。俺も安堵の息をつきその様子を静かに眺めていると、葛城さんが俺を見て手のひらを向けてくる。他の二人も俺に手のひらを向け、俺は少し間を置いてから順に三人の手のひらを軽く弾くようにタッチする。三人は嬉しそうに笑みを溢した。
それから借りた教室内の片付けを終え、みんなで荷物を置きに部室へ向かうと、
「諫早、ちょっとここで待ってて」
「……え?」
「あ、荷物はもらうわね」
「え、あ……」
「すぐ戻って来るから」
「…………」
三人は俺を部室の一つ隣の教室前で留まらせ、そのまま荷物を持って部室へ入っていく。
一体どうしたのだろうと考えていると、さっきの言葉通り、彼女が荷物を置いてすぐに戻って来た。
「よし! 行こ、諫早くん」
彼女は意気揚々と俺の手を取る。俺は訳の分からないまま彼女に手を引かれると、彼女は部室のドアの前から一歩隣へ移り、俺にドアの前を譲る。
扉を開けろということだろうか? 俺はあの時と同様にドアノブに手を掛け、扉を開ける。……すると、
「パーン!」
「…………え?」
軽い爆発音と共に視界がカラフルに彩られる。床に落ちたそれらが紙吹雪だと気づくと、部室内にいた葛城さんと西尾さんが再びクラッカーを鳴らした。俺の髪と服が彩られる。
「はは、諫早放心状態だね」
「ふふふ、驚いた諫早?」
「……驚いたね」
目の前のクラッカーはもちろん、よく見ると部室が折り紙でできたガーランドやペーパーファンで飾られ、いつもの四つ合わせた机の上にはお菓子やちょっとした食事が用意され、まるでこれからパーティーでも行われるような状態になっていることに気づき、俺はより驚く。
「……これは?」
「もちろん、諫早が正式に入部してくれたお祝いだよ。文化祭の準備とかでちゃんとできてなかったから」
「でも、いつのまに……」
「いいからいいから! さ、諫早くん入って!」
「……あっ」
後ろから彼女に押され、俺は部室の中へ入る。部屋を見回すとドア側の壁にも装飾が施され、ホワイトボードには「祝! 写真同好会入部!」と描かれ、俺と、俺たちの写真が貼られていた。
……三日前まではいつもの部室だった。本当にいつの間に部屋を飾ったのだろう。それにさっきお祝いと言っていたが、別に俺なんかのためにこんなことしてくれなくていいのに。……いや、きっとみんなに言うべき言葉はこれじゃないな。もっとみんなに似合う言葉は……。
俺は三人を見て、考える。その言葉はきっと……。
「諫早くん?」
「諫早?」
「どうした?」
「……ううん、なんでもない。…………『ありがとう』」
俺は心からの言葉を、三人に送る。
三人は合わせたように満面の笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます