夢と現

 小さい頃から人の色を見ることができた。

 お花にお水をあげているあのお姉ちゃんは『黄色』。

 大きなわんちゃんとお散歩してるあのおじいちゃんは『オレンジ色』。

 いつも乗るバスの運転手さんは『緑色』。

 幼い俺はその「色」を目にするたび、ポツリポツリと見たままに口から零す。それを聞いた周りの人たちは、小さな俺を「うそつき」や「頭のおかしい子」と言った。

 幼いながらも自分が周りの人たちから気味悪がられていることは、自然と気づくことができた。周りの人には見えないらしい不思議な色が見える自分の方がおかしいことは、嫌でも理解できた。

 俺に向けられる無数の冷ややかな眼差し。それはきっと、自分が周りの人たちを怖がらせているから。自分の目がおかしいせいで周りの人たちを不快にさせているから。そう思った小さな俺は、自分にだけ見えるこの不思議な色を誰にも話さなくなった。もともと内気だった性格は、より自分の中に引き込むようになった。これ以上自分の存在を否定されるのが怖かった。

 口を噤むようになった俺に、それでも母は「あの人からは何色が見える?」と一緒に窓の外を眺めては訊ねてきた。昔から母だけは俺の言葉を信じ、俺の頭を撫でては「素敵な瞳ね」と、優しく微笑んでくれた。俺もそんな母にだけは素直に見たまま零した。母はそれをいつも、なぜか嬉しそうに聞いた。この世界でたった一人、自分の存在を肯定してくれる人だった。

 昔から体が弱かったらしい母は、俺を産んでからはずっと入院生活をしていた。俺はいつも幼稚園から帰ると、真っ直ぐ母のいる病室を訪れた。

「おかえりなさい」「今日はどうだった?」「楽しかった?」

 いつだって俺が来ると温かいお茶を淹れ、優しく迎え入れてくれる母の口癖だった。

「ただいま」「今日も一人だった」「楽しくはなかった、かな」

 俺は母の口癖にいつだってそう答えた。

 すると母は決まって「そっか」と頭を撫でる。そして、

「いつか絶対一人じゃなくなる日が来る。大切に思う人ができて、大切に思ってくれる人ができて、その人たちと楽しくお話ができる日が来るよ」

 と、笑うのだった。月明かりのような柔らかい白銀を今でも覚えている。

 そんな母が亡くなってからも俺は相変わらず一人のままで、一人ぼっちだった。父は仕事のため以前から家を空けていたし、小学校に上がっても友達と呼べる相手はおらず、いつも一人本を読んでいた。

 別に一人でいることが好きなわけじゃない。それなりに寂しさを感じていたし、時々その寂しさに泣いていたし、校庭で楽しそうに遊ぶ同級生たちを羨ましいと思った。

 そんな一人ぼっちの日々の中、いつしか俺は大それた願いを抱くようになった。

 こんな毎日を変えたいと、誰かと関わりたいと、友達と一緒に遊びたいと、そんな夢のまた夢を……。

 夢のまた夢のため、小さな俺が始めたことは周りの人たちからすれば至極簡単な、クラスメイトたちに「話しかけること」だった。

 最初は朝の挨拶やプリントを配ったり回収したりする時の事務的な会話。それから「おはよう、今日は暖かいね」「今日の体育はキックベースだって」「明日のマラソン大会、頑張ろうね」など、日常的な話も交えるように。辿々しい話し方ではあるが、みんな「そうだね」と返してくれた。

 俺は確かにそれに以前とは違う何かを感じた。一歩前に進めたことが嬉しかった。一歩前に進めた自分を見て母も喜んでくれていると思うと嬉しかった。それでも、校庭で遊ぶあの楽しそうな輪の中に入ることはできなかった。「僕もいれて」のその一言はいつも音もなく消え、ただただ教室から笑う色たちを眺めた。

 それからいつの日か、みんなが遊んでいる様子を俺は描くようになった。真白なノートに拙い絵、そしてそこには自分だけに見える「色」を塗って。いつか遠くない未来、この中に自分も描ける日を夢にみて……。

 そんな絵空事などやって来やしないと気づいたのは、案外すぐだった。

 ある日の放課後。トイレから教室に戻ると、誰か四人が俺の机の周りに集まっていた。見覚えのある彼らはただのクラスメイトではなく、よく俺が窓越しに見ている四人で、何をしているのだろうと少し開いたドア越しに様子を伺う。すると彼らは机の上にあるノートの中を、あの絵を見ていた。

 俺は一瞬、息が止まる。

 どうしよう。どうしよう。なんでノートが開いてるの? 風で開いちゃったのかな? どうしよう。しかもよりによって彼らに見られちゃうなんて。この時間はいつも外で遊んでるのに今日はどうしたんだろう? どうしよう。あぁ、机の上に置いたままにしなきゃよかった。どうしよう。どうしよう……。

 雑然とする思考に、心臓はバクバクと全身に鼓動を鳴らす。頭が、体がうるさい。もしかしたら彼らにこの音が聞こえてしまっているかもしれない。自分がここにいるとバレてしまうかもしれない。そんなこと考えていると、ふと、教室から話し声が聞こえてきた。

「あいつジロジロ見てくると思ったらこんなの描いてたのか」

「うわ、これ何枚描いてあるの? めっちゃあるじゃん」

「これ、私たちってことよね? なんで『変な色』が付いてるの?」

 その一言で、さっきまでグルグルと迷想していた思考がぴたりと止まる。

「うわ、ほんと。赤とか青とか囲うみたいに塗られてる」

「この三つ編みお前じゃね? ほら、こっちにもあっちにも全部の紫で囲まれてるやつ」

「え、絶対違う! やだよ気持ち悪い!」

「そういや諫早って昔、誰かを見たら赤とか黄色とか、変なこと言ってたらしいよ」

「何それ、意味わかんない! じゃあ私のこと紫人間に見えてるってこと?」

「それ病気じゃん」

「しらねーよ。どうせみんなに構ってほしくて適当に言ってただけだろ」

「うわ引くわー。あいつ、いてもいなくても変わんないやつって思ってたけど、なんか気持ち悪く見えてきたわ」

「てか、なんか最近話しかけてくるようになったよね。何考えてるんだろ」

「わかんないねーよそんなの」

「話しかけられても『そうだね』としか言えないんだよねー」

「全部どうでもいい話だからな」

「何も考えてないんじゃない? あいつ中身空っぽそうだし」

「ちょっと、そんなこと言ったらカワイソーじゃない」

「あはは、ひどーい!」

「…………」

 四人の笑い声が聞こえてくる。けれどその笑顔は、いつの間にか溜まっていた涙によってぼやけて見えない。

 俺はゆっくりと立ち上がり、今も笑い声が聞こえる教室から一歩一歩離れる。次第に歩く速度が増していき、気づけば全力で廊下を走っていた。ランドセルや他の荷物を置いてきてしまったが、幸い家の鍵はポケットに入っていた。俺は上履きも履き替えず、そのまま学校を飛び出し、自宅へと駆けた。

 息を切らしながら震える手で鍵を回す。ドアを開け玄関に入ると、俺は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。荒い息をするたび、足元にポタポタと涙が落ちる。止まることのないその涙に、俺はふと思った。

 ……あれ、どうして僕、泣いてるんだろう。クラスメイトに心ないことを言われたから? 自分の頑張りがただ空回りしてるだけだったから?

 誰もいない家の中、答えは一向に見当たらず、その間もずっと涙は零れ続けた。

 ようやく落ち着いてきた頃には日は落ち、家の中は真っ暗になっていた。俺は涙で濡れた顔を洗うため、洗面所へ向かう。やけに重たい体は立ち上がるのも、上履きを脱ぐのも一苦労だった。

 明日学校に行ったらどんな顔をすればいいだろう。普段通りにできる、かな。……いや、普段から何もできてなかったんだから、何も気にすることはないか。荷物を置きっぱなしにして来ちゃたのは先生になんて言おう。明日までに言い訳を考えておかなきゃ……。

 そんなことを考えながらうつらうつらと暗い廊下を進み、洗面所まで辿り着く。壁伝いにスイッチを押し電気を点け、明るくなった部屋に目を細めながら蛇口に手を伸ばす。……すると、そこで初めて気がついた。

 蛇口に手を伸ばす視界の上、鏡に反射する自分の姿が目に映る。

 別に鏡を見るのが初めてだった訳じゃない。鏡以外にも、水面やガラスの反射で自分の姿を見たことはある。……なのに、なぜ今まで気がつかなかったのか。

 鏡の中の自分には、萌えるような緑も、涼しげな青、煌めく黄色も、鮮やかに輝く色たちは、何も、どこにも、映ってなかった。ただそこにあったのは、色付くことをまるで知らない、『白』。

 俺には、色がなかった。

「…………え」

 その瞬間、自分の他には誰もいないはずの部屋の中から無数の冷たい声が聞こえてくる。

『何も色付いてないなんて、気味が悪い』

『誰にでもあるものが、君にはない』

『中身のない、白紙のようだわ』

『真白なんて、まるで……』

 俺は耳を塞ぎ、目を瞑ってしゃがみ込む。

「やめて、やめて」

 やめて……。

 けれど、そんなことをしてもあの声が消えることはなかった。枯れたはずの涙は再び零れ落ちていく。

 その時、俺は理解した。俺の目に映るあの色たちは、その人の人格を、個性を、その人自身を、表しているのだと。だから何もない俺には色がないのだと……。

 結局、俺が再び登校したのはあれから週を明けてのことだった。掠れてしまった声で「体調が悪いため数日休みます」と連絡はしていたが、荷物が机の上に置きっぱなしだったためか、学校では多少問題視されていたらしい。

 登校して初日は担任の先生は疎か、カウンセリングの先生にまで話を聞かれる始末だった。俺はその全てに体調が悪かっただけです、と答えた。ずっとそう言い続けた俺に先生たちも諦め、それ以上は聞かなかった。

 教室に行くことを許されたのは昼休みの終わりだった。不思議となんの躊躇いもなく、俺は教室の前のドアを開ける。教室内はもうすぐ授業は始まるためほとんどのクラスメイトが席に着き、近くの友達と談笑していた。けれど、みんなは俺を見た瞬間、俺が教室に足を踏み入れた瞬間、話をやめた。

 教室内の温度が一気に下がったような感じがした。自席へ向かう俺を、クラスメイトたちが白い目で見ているような気がした。それは数日も学校を休んだ者への軽蔑の目だったのか、はたまた彼らによって俺の噂が広まり気味悪がられている目だったのか。

 なんにせよ、俺が教室に入ったことで、俺のせいで、さっきのようなキラキラした色は一色もなくなった。みんなどこか暗く、淀んだ色をしている。

 その光景から、俺の目に映るこの色はその人の今の気持ちも反映される、と気づいた。

 あぁ、僕のせいだ。僕のせいで教室の雰囲気が冷たくなってしまった。みんなの色を汚してしまった。……僕にはない、綺麗な色なのに。


 それから俺はあの絵空事を描くことはなくなった。人と関わることに距離を置くようになった。また俺のせいで誰かの色を汚してしまうのが嫌だった。自分の中に他人の色を妬む劣情のような気持ちがあることに気づき、そんな浅ましい自分にもっと嫌気がさした。

 ……そうだ。俺は自分の何もない世界で生きていくと決めた。

 そう決めたはずだったのに。



「……ん」

 徐に意識が覚めていく。ゆっくりと目を開くと、太陽はすでに昇っているようでカーテンの隙間から光が漏れていた。

 俺はベッドから上半身を起き上がらせ、こめかみに手を当てる。なんだか寝覚めが悪く、よく覚えていないが夢見も悪かった気がする。

 ……まぁそれはそうか。あんなことをしたんだから、いい夢が見られるはずもない。

 あの日から、十日が経った。風邪もすっかり治り、体は至って健康。けれど、俺はあれから一度も写真同好会の部室を訪れていない。

 仮入部期間で考えれば、花火大会が終わり俺がサークルにいる理由もなくなったのだから、これ以上部室に行く必要はない。それに、三人がもう俺なんかに会いたくないかもしれない。このまま風化して互いの関係を忘れた方が幸せかもしれない。……そう、かもしれない、のだけど。

「……あんな終わり方でいいの、かな」

 今でも鮮明に三人の悲しそうな表情が、色が、脳裏に焼き付いている。それを思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。この気持ちもいつかは風化していくのだとしても、それはきっと遥か先のことだろう。

 あの時、自分がもっと上手く立ち回れていれば、風邪を引かなければ、そもそも彼女の誘いを断れていれば、三人は何事もなく笑って花火を観ることができたのに……。

「……ほんと、最低だな」

 毎日毎日、あの日を、あの日々を、一人悔いる。

 それがどんなに無意味なことだと分かっていても……。


「……プルルル、……プルルル」

「……でんわ?」

 コール音が聞こえてくる。微かに聞こえるその音は、どうやら一階にある固定電話から鳴っているようだ。

 わざわざ家の電話にかけてくるなんて、一体誰だろう。

 俺はベッドから起き上がり、階段を下りて固定電話の置いてあるリビングのドアを開け入る。ドアも壁も距離も、コール音を遮るものはもう俺たちの間からなくなり、そのけたたましく響く音に俺は眉を潜め、とりあえず受話器をとった。ようやくあの音が消える。

「……はい、諫早です」

『俺だ』

「あ、うん……」

 電話口から聞こえたその声に、慌てて電話機に表示された番号を確かめる。見覚えのあるその番号で俺は確信を持った。あぁ、やはり間違いない。電話の相手は父だった。

『珍しいな、お前が相手も確認せず受話器をとるなんて』

「……うん」

 相変わらず温度を感じさせない声色に、淡々とした口調。父と話すのはこれが何百回目でも慣れない。

『……まぁいい。後期の授業料、いつもの口座から入金しとけ』

「うん、分かった」

『あと、スマホくらい電源入れとけ。全く連絡がつかないから家の方に電話した』

 父のその言葉でハッと気づく。そういえば、あの日からずっとスマホを鞄の中に入れたままだ。使っていないとはいえ、流石に十日も放置したことで充電が切れてしまったのだろう。なんにせよ、仕事の合間に何度も連絡させてしまったのは申し訳ない。

「うん、ごめん……」

『……用件は以上だ。…………ちゃんと食事は摂れよ』

「え、あ……」

 返事をする間もなく父は一方的に電話を切る。プープーと耳元で音が鳴り、俺はそっと受話器を戻した。

 ……最後のあれは俺を気にかけてくれたの、かな。

 基本的に仕事人間で素っ気なく見える父を、母は昔「真面目過ぎるが故に不器用で、それでも心根は優しい人」と、俺に話した。もしかしたら、電話口での俺の様子や連絡がとれなかったことから零れ出た、父なりの優しさだったのかもしれない。

「…………はぁ」

 俺はもう現時刻しか映されていない電話機を眺めながら、ふと息を吐く。なんだか重く沈んでいた気持ちが、少しだけ軽くなったような気がした。


 父との通話後、俺はリビングに置いてあるソファに座り、考える。それはもちろん三人のことで、そして三人に対して自分がどうしたいか、どうするべきか、ということ。

 結論は意外にもあっさり出た。この十日間の堂々巡りが嘘だったように自分の中にストンと答えが落ちる。たぶん、十分もかからなかったと思う。

 やっぱりあんな終わり方はしたくない。三人に謝って、感謝して、そして三人の前でちゃんとサークルを去りたい……。

 これが、俺が自責と後悔と切望の十日間を濃縮して出した結論だった。

 そうと決めたら俺はこの結論を早々に実行するためソファから立ち上がり、リビングを出る。扉を閉める直前、ふと固定電話を見た。……今度は自分から電話してみよう、かな。

 階段を上って自室に入り、カーテンを開け、あの日からずっと床に放り置かれている鞄を拾い、中からスマホを取り出す。案の定、スマホは電源が落ちていた。

 鞄はポールハンガーに掛け、ヘッドボードにある充電器にスマホを繋ぎ、俺はそのままベッドに腰掛ける。あの結論を実行する上で、俺はまず三人にメッセージを送り、会ってもらう日程を伺う必要があると考えた。もちろん、最初に謝罪の言葉を忘れず。

 突然部室に赴いて怒鳴られたり、罵倒されたり、悲しまれたりするのは覚悟のうち……というより、それを受け止めるのが自分の責任だと思っている。けれど入れ違いになったり、会ってもらえなかったりするのは避けたかった。それに、俺にも三人にも心の準備が必要だろう。

 俺は手元のスマホを覗く。まだスマホに電源はつかず真っ暗な画面のままだ。……まぁ十日もエネルギーをチャージできていないのだから仕方ない。人間だって十日も食事をとっていなければ、すぐに動けない。……というか、生きていないだろう。

 真っ暗な画面を静かに眺める。……ふと、不安が頭を過ぎった

 今さらメッセージを送って、三人はそれ見てくれるだろうか。返信をくれ、直接会う機会を作ってくれるだろうか。

 考えても仕方ないのに考えずにはいられない。結論を出したといえど、そこに不安がない訳じゃなかった。

 ……もし、もし許されるのなら、また三人の笑った顔が見たい。サークルのメンバーじゃなくなったあとも、たまに彼らの話を聞かせてほしい。学校のどこかですれ違ったら手を振り合えるような、そんな関係のままでいてほしい。

「……はは。流石に無理、かな」

 ぽつぽつと浮かんだあまりにも身勝手な願いに、自分で考えておいて嗤ってしまう。

 パッと手元が光る。見ると、スマホの画面が光り放っていた。ようやく充電がある程度溜まったようでそのまま数秒待つと、光が収まりロック画面が表示される。

「55dapmous」

 パスコードを打ち込みまた数秒待つと、今度はホーム画面が表示された。

 今から急に大仕事を任せられるメッセージアプリは、これ以降勝手に長い休日にさせられる。それに少し申し訳なさを覚えながら俺はあのメッセージアプリを目指し、画面をスクロールする。

「……え、え?」

 俺は指を止め、画面を見て驚く。いや、驚くというより困惑する。前回のであれだけ驚いたというのに、今回それが倍以上となれば、最早困惑しても仕方ないだろう。

 メッセージアプリのアイコンはあの時と同様に頭に飾りをつけていた。もし仮に前回が花かんむりだとしたら、今回は王冠かもしれない。

 俺はもう一度アイコンを確かめる。それはやはりあのメッセージアプリのアイコンで、そこには、やはり「61」という未読の通知件数が表示されていた。

 俺は次第に冷静さを取り戻す。そして一度スマホを膝の上に置き、目を閉じる。

 ……一体、どんな言葉が送られてきているだろう。

『よくも台無しにしてくれた』と自分を恨む罵倒?

『なんのためにサークルに在籍したのか』と憤りからの非難?

『無理してまできてほしくなかった』と呆れる苦言?

 俺は目を開け、ゆっくりとアイコンをタップする。アプリを開くと写真同好会のグループからだけでなく、三人個人からもメッセージが来ていた。

 グループからだけでなく個人からもメッセージが来ているということは、それだけ言えずにはいられなかった、ということだろうか。……いや、考えても仕方がないんだ。何も言われても俺が三人にすることは、すべきことはもう決まっている。

 俺は意を決し、最初に「写真同好会」のメッセージグループを開く。……すると、

「…………え、なん、で?」

 そこには、俺の予想したものとはまるで違う光景が映し出されていた。

『体調はどう?』『この間は無理させてごめん、来てくれてありがとう』『元気になったらまた部室においで!』『待ってるわよ!』『またみんなで計画を立てよう』『次はどこに行きたい?』

 個人のメッセージも途中まで確認したが、俺に対する不満は何一つ書かれていない。それどころか、どれもこれもその全てが俺を見舞う優しい言葉たちだった。

「…………っ」

 無意識に眉根が寄る。どうやら俺は三人の優しさを侮っていたらしい。あんな仕打ちをされてもなお、三人はまだ俺のことを「サークルのメンバー」だと思ってくれているの、かな。

 嬉しさからか遣る瀬なさからか、胸の奥がギュッと締め付けられる。

 あぁ、俺は一体彼らに何を返せるだろう。きっと、俺にできる全てを費やしても足りないんだろうな。それでも、今の俺にできることは三人に謝ること。ちゃんと謝って、遺恨を残さずに終わらせること……。

 グループからのメッセージを見終え、個人の方も改めて順に最後まで見直す。

『あの時、諫早の意思を尊重できなくてごめん』

 いいんだよ、葛城さん。俺の方こそ我儘を言ってごめんね。

『体調はどう? 元気になった? ちゃんとご飯を食べて、しっかり治すのよ』

 もう良くなったよ、西尾さん。この間はのど飴、ありがとね。

 最後に彼女のメッセージを読み進めていく。一番上に表示されていた彼女を後回しにしたのは、きっとなんとなくだろう。途中まで見たが、やはり送られた言葉は温かいもので、その一つ一つを俺は噛み締めていく。

 やがてスクロールが止まり、メッセージの一番下まで辿り着く……と、

「……え?」

 俺は再び声を漏らす。その原因は一番下、一番最後のメッセージで、昨日の十四時に送られたものだった。

『明日、十三時にあの桜の前で待つ』

 これだけ他とは異質で、文調も彼女らしくない。他にも気になるところはいくつかあるが、その中でも俺は日時が引っかかった。昨日送られたメッセージで明日ということは、つまり……。

「……今日?」

 そして指定された時間は十三時。現在、スマホの画面に表示されている時刻は十一時十分。

「……え!」

 俺は急いでベッドから立ち上がり、自室を飛び出した。



 やっぱり、少し遅れても何か手土産を用意した方が良かった、かな……。いや、それよりもまず、みんなに返信を返さなきゃだったよな……。

 ツバメ駅から学校まで残り数メートル。歩きながら俺は今さらそんなことを思い悩んでみる。

 あのあと、急いで身支度をし電車に乗り込んだおかげか、今は少し余裕を持って学校へ向かうことができている。しかしそのせいで徐々に冷静になっていく頭が、何も考えずにただ飛び出してしまったこの現状にアラームを鳴らし出した。

 やはりこういった場面では何かお詫びの品を包んで持ってくるのが定石だったか。菓子折り、とまでは用意できなくとも、コンビニのスイーツやちょっとした日用品なんか……。いや、直接三人から欲しいもの聞いて渡した方が間違いないだろうか。こんなことならマナー講座を履修しておくべきだった。そもそも謝罪の言葉も、三人に会う心の準備もいきなり過ぎて何もできていない。準備をするためにメッセージを覗いたはずだったのだが……。

 こんな状態で久しぶりに会って、俺は大丈夫だろうか……。

 そうこうしているうちに正門の前まで辿り着いてしまった。ここまで来ては本当に今さらなので、俺は考えるのをやめ、素直に目的地へ向かう。確か指定された場所は、あの裏庭にある桜の前。送られてきた文章に誰が待つとは書かれていなかったが、勝手に三人揃ってだと思っている。それならなぜ指定する場所は部室じゃないのだろう。もしやこの招集は、彼女個人からのものなのだろうか?

 何はともあれ、俺はグラウンドから届く運動部の掛け声を聞きながら大通りを歩く。そのまま広場を抜け、校舎裏を過ぎ、鬱蒼とする木々の中へと入る。ここまで来ると掛け声も聞こえなくなり、裏庭に着く頃には風で緑が擦れる音だけが静かに響いた。

 久しぶりの裏庭は思っていたよりも荒れておらず、誰かが整備してくれたのか、以前のこじんまりとした、けれど趣のある景色のままだった。流石に学校の最果てといえど敷地内ではあるので、業者さんあたりが整備してくれたのだろう。まだ日差しが強く汗ばむ気温だが、夏休みを明けたくらいには再び過ごしやすい環境にもなっているはず。

 ……またお世話になります。俺は心の中でそう呟いた。

 腕時計を見やり時刻を確かめる。時刻は現在、ちょうど十三時を回ったところ。改めて辺りを見回すが、予想してした三人の姿は疎か、メッセージの送り主である彼女一人の姿も見えない。

 一応裏庭に着いたと連絡をした方がいいだろうか。俺はポケットからスマホを取り出す。……すると、それと同時にカサカサと草木が擦れ合う、何かが近づいてくるような音がした。

 カサカサカサカサ……。音が、止まる。誰かが来た。

「……よく来てくれた」

 妙に低い声が後ろから聞こえてくる。俺はスマホを手にしたまま声のした方へ振り返る。

「…………えっと」

 目の前の光景に俺は一瞬思考が停止し、ようやく発した声には困惑が滲む。いや、それもそのはず、そこには顔の半分も隠すほど黒いマントを深く被った何者かが毅然とこちらを見据え、立っていた。……いや、何者というか、

「……加賀さん、だよね?」

 わざと声を低く作っているようだが、何度も聞いた彼女の声に間違いない……はず。すると、マントの彼女は少し間を置いてから小さく咳払いをした。

「……よく来てくれた」

 どうやら俺の質問はなかったことにされたらしい。まぁ、答えたくないのなら無理に訊かないが……。

「さぁ時間だ。こちらへ付いてきてくれ」

 マントの彼女はそのまま話を進め、くるりと踵を返し裏庭を離れていく。俺は戸惑いながらも、とりあえずその後ろ姿に付いていくことにした。

 その間、俺も俺の先を歩く彼女も何も話さなかった。ただただ後を追って辿り着いたその先は、なぜ呼び出すのにこの場所じゃなかったのかと疑問に思った、俺が見慣れてしまったあの場所だった。けれど不思議なことにいつもの張り紙は外され、代わりに「法廷」と書かれた紙が貼られている。

 どういうことだろう。戸惑いに戸惑いが重なる。そんな俺の心情など露知らずか、マントの彼女はドアの前から一歩下がると、

「さぁ、入るのだ」

 と、部屋に入るよう促す。

「……失礼しま、!」

 俺は言われるがままドアの前に立ち扉を開けると、異様なまでの部屋の暗さに驚く。

 部屋の中は電気は疎か、壁や窓にも何か黒い布のようなものが覆われているようで、外からの光を一切遮断している。このドアを閉めてしまえば、唯一の光源は部屋の真ん中に置かれた机の上にポツリと佇んでいる一本のロウソクの炎だけとなってしまう。

 この時すでに思考はピークを迎えていたが、後ろからの圧か、それともここまで来ては乗りかかった船ということか、俺は恐る恐る真っ暗な部屋の中へ足を踏み入れる。俺が部屋に入ったことを確認すると、後ろに控えていたマントの彼女も部屋に入り、パタリとドアが閉められる。部屋の中は一層暗さが増し、ロウソクの炎だけでは辺りがどういう状況か全く見えない。こんな真っ暗な中、一体何が行われるのだろうと身構えていると、コツコツとロウソクの立つ机越しにこれまた黒いマントを目深に被った二人が暗闇から現れた。

「ようこそ。待っていたわ」

「……あの」

「さぁ、机の前へ」

「…………はい」

 相変わらず俺の発言はなかったことにされる。俺は一番背の高いマントの彼(恐らく葛城さん)に手招かれるまま机の前に立つ。だいぶ暗闇に目も慣れてきて気づいたが、どうやら部屋の真ん中に置いてあるこの机以外の荷物は、全て壁際に寄せてあるようだ。なんだか普段使っていた時よりも広く感じる。

 三人は俺が机の前に立ったことを確認すると、それぞれ俺から机を挟んだ前に一人、机の右側に一人、左後ろに一人と、まるで決められた持ち場につくように配置立つ。そして場が整ったのか、目の前の黒マントの一人が残りの二人に目配せのようなことをすると、マントの中から何か紙を取り出し、手元で広げる。……何かが、始まる。

「んん、ではこれより、『サイバン』を始める」

「…………え」

 え? 咳払いと共に言い放たれた言葉に俺は耳を疑い、思わず声が漏れる。

 今、目の前の人物はなんと言った? サイバン? 裁判? ……いや、確かに「法廷」と書かれた謎の張り紙はされていたけれど。

 流石にこれ以上は脳の処理が追いつかないと、俺はただこの状況に呆然とする。するとそんな俺を想定済みだと言わんばかりに、

「まず最初に、被告人、名前を」

 と、恐らく裁判長役であろう目の前の人物はサクサクと裁判を進めていく。俺は他二人を見やるが、二人ともすんとただこちらを向いているだけで何も言わない。

 三人は一体何を考えているのだろう。それに被告人て、俺はいつ起訴されたのか。なおも状況が読み込めない俺はそんなことを考えていると、

「被告人! 名前よ、名前!」

 と、いつまでも答えあぐねている俺に痺れを切らした裁判長が再度追及する。

「あ……い、諫早、です」

「うむ。では次に、学部と学年は?」

「……法学部、二年生です」

 どうしようもないまま、流れるがままに俺はその後も質問に答えていく。本来なら生年月日、住所、罪状の確認とされていくはずだが、まぁそこは裁判の体らしい。他にも「誕生日は?」「血液型は?」と質問は続き、次第に「身長は?」「視力は?」「好きな作家は?」「明日の天気は?」と、内容はどんどんよく分からないものになっていく。

 答えるごとに一周回ってこの状況に冷静になる。ロウソクの炎に気を付けながら裁判長は光をうまく紙に当て、次の質問を確認する。その切れ目、俺はふと考える。

 裁判……とはつまり、この場においては被告人である俺に判決を言い渡し、ひいてはこのまま断罪すること。罪状も判決もまだはっきりと言われていないが、どんなものかは想像つく。こんな回りくどいことをしなくても、早く俺を切り捨ててしまえばいいのに……。そんなことを考えていると、裁判長は次の質問を口にする。

「では次、今年に入って嬉しかったことは?」

「……嬉しかった、こと」

 質問のテイストがまた一気に変わった。

「そうよ。時間をあげるから、考えてみて」

 裁判長はそう言うと、手元の紙と一緒にマントの中へ腕を引っ込める。どうやら本当に俺の回答を待つ気でいるらしく、率直に「特にないです」と答えようとした俺は口ごもる。

 ……嬉しかったこと。そんなことあっただろうか。仕方なく少し考えてみようと、ここ九ヶ月の記憶を遡ってみる。

 今年の一月は何もなかった。それまでと何も変わらない日常を送ったと思う。二月、三月も同じく。では二年生となった四月は……そうだ、ここから俺の日常は変わった。彼女と出会って、一緒に裏庭で過ごすようになって、いつからか写真同好会へ毎日勧誘されるようになって、葛城さんと西尾さんと出会って、そして、流されるように仮入部をすることになって、みんなと一緒にいろいろな場所へ出かけて……。

 今までの自分の人生では考えられないような日々を送ってきた。それは全て彼女たちが原因で、彼女たちのせいで俺の日常は突飛で波乱なものへと変えられてしまった。そんな脅かされた日々で嬉しかったこと。嬉しかったことなんて……。

「…………俺なんかとも仲良くしてくれる、優しい人たちと出会えたこと」

 言葉はポロっと、自分の意思とは関係なく口から零れ落ちた。俺は自分で自分の言葉に驚き、咄嗟に口元に手を伸ばす。

 あれ、なんで、どうして、勝手に……。自分でも訳が分からずまごついてしまう。そんな姿を見てか、裁判長は「ふふふっ」と小さく笑った。

「じゃあこれで最後の質問ね」

 裁判長の声色が変わる。さっきまでとは少し違う、いつもの調子で西尾さんは言う。

「あなたの所属するサークルは?」

「…………え」

「あら、聞こえなかった? あなたの所属するサークルは? どこ?」

 親切にも裁判長はもう一度同じ質問を繰り返してくれる。その手にあの紙はない。

 俺は口をハクハクとさせる。なぜ、そんなことを訊くのか。なぜ、最後の質問がそれなのか。

 俺はあの花火大会の日、仮入部を終えた。だから、所属しているサークルなんて。もうどこにも、俺のセキなんて……。

 俺はふと、今は何ない、普段四つの机が並んでいる場所、俺が座っている席を見る。……そうだ、目的を忘れるところだった。俺は元々三人に謝るために、こんな俺と関わってくれたことに感謝するために、今まで面倒をかけてきて申し訳ないと別れを言うために、ここへ来たんだ。

「ありません」そう言って、早く三人に頭を下げよう。俺は深く息を吸い、そのまま答えと共に吐き出そうした。……その時、

「どうしたの?」

 後ろから声が飛んでくる。俺は一瞬目を見開き、ゆっくりと振り向く。

「そんなに難しい質問じゃないよ」

「そうだよ」

 もう一つ、今度は右前から。振り返る。

「ヒントはこの教室に、このメンバーだよ!」

「さぁ、分かったかな?」

 意気揚々と話す二人を交互に見る。暗くて見えないはずなのに、なんだか二人とも笑っているような気がした。それはまるで「答えは一つでしょ?」と、得意げに笑っているように。

「ちょっと二人とも! 静粛に!」

「あ、すみませーん」

「ごめんなさーい」

 そう言いながらクスクスと笑う二人に西尾さんは「全くもう」と、笑みを含んだ息を吐く。その光景に、俺はギュッと胸が締め付けられる。それがあまりにもいつもの光景のようで、四人で過ごしたあの日々のようで……。

 俺は小さく口を開くが言葉は音とならずに消える。

 ……答えていいのだろうか。俺はそれを答えとしていいのだろうか。まだ俺に、それを言う資格はあるだろうか。

 グルグルと逡巡が巡る。決まらない意に眉根を寄せる。目を伏せる。息を凝らす。

「…………」

「……諫早くん」

「……っ!」

 後ろから再び声が届く。それはこの数ヶ月、何度も聞いた俺を呼ぶ彼女の声。

 柔らかく、優しさに溢れる音色が俺の中に響く。そしてその音色は、不思議と俺の中の渦をすうっと消し去った。

 俺は彼女の方を見る。けれど彼女はもう何も言わず、ただ静かに、和やかに、俺を見つめ返した。……あぁ、本当に彼女にはかなわないな。

 俺は意を決し、拳に力が入る。体を向き直し、息を深く吸う。……大丈夫。

「……俺の、俺の所属するサークルは…………、『写真同好会』です」

 言い淀んでいた言葉は震えながらも空気に乗る。静まり返った部屋の中に、俺の声だけが広がった。

「……それでは判決を言い渡す」

 西尾さんはそう言うと、マントの中から再び何かを取り出す。そして、ずっと机の側にいた葛城さんがふっとロウソクの火を消した。

 部屋の中は一切の光源を失い真っ暗になる。けれどそんな暗闇の中、西尾さんは高らかに声を上げた。

「被告人は……………………『無罪』!」

 パチッという音と共に辺りが一気に光に包まれる。どうやら後ろにいた彼女が電気のスイッチを押したようだ。

 俺は急なその明るさに咄嗟に目を瞑り、少しして目を開ける。するとそこには無罪と書かれた紙を高々と掲げる西尾さんと、マントのフードを外し、ニコニコとこちらを見る葛城さんと彼女の姿があった。

「やったね諫早くん! 無罪だって!」

「おめでとう、諫早」

 彼女と葛城さんが俺に拍手を送る。

「全く。最後の質問、答えるのに時間かかり過ぎよ?」

 西尾さんもバサッとフードを外す。俺はまだ困惑している。

「何を気にしてたか知らないけど、諫早はこの写真同好会のメンバーなんだから、難しいこと考えず、サッと答えればいいのよ」

 そう言って清々しく笑う西尾さんに、他二人も「うんうん」と頷いた。

『諫早は写真同好会のメンバーなんだから』

 俺はさっきの西尾さんの言葉を頭の中で反芻する。どうやら本当に、三人はまだ俺のことをそう思ってくれていたらしい。

 あぁやっぱり、三人の笑顔を見ていると落ち着いてしまう。もう一度三人の笑顔を見ることができて、胸の奥が温かくなる。

「……あの、みんな」

「だけど!」

 俺の小さな呼びかけに、彼女の声が覆い被さる。彼女はなぜかムッとした顔で俺を見やり、俺はそれに自然と身構えた。

「一つだけ文句を言いたいのは、諫早くんが自分のことを『俺なんか』って言ったこと! 俺なんかじゃないよ! 諫早くんだから仲良くしたいと思うの! 前にも言ったよね!」

「……え、あ」

 俺は身構えていた言葉とは違う、斜め上の彼女の論に言葉が出なかった。葛城さんも「そうそう」と、彼女に加勢する。

「俺たちだって諫早と仲良くなれて嬉しいんだよ。つまり、もっともっと、みんなで思い出を作りたいってこと」

「……と、言う訳で! 明日は写真同好会、久しぶりに活動をしたいと思います!」

「……え?」

「あ、全員強制参加だから」

 西尾さんは間髪入れず、満面の笑みで言う。

「それじゃあ明日、ツバメ駅の西口に十時集合ね!」

「はーい」

「オッケーよ」

「ほら、諫早くんも返事!」

「え、あ、はい……」

「大丈夫だよ諫早。プランは考えてあるし、日帰りだからなんの準備もいらないよ」

 葛城さんはそう言うと、俺の肩をポンっと軽く叩く。……いや、そういうことじゃないよ、葛城さん。

 流石に明日は急過ぎじゃ……と考えたが、そういえば、ここはいつもこんな感じだったか、と思い出した。



「ドアが開きます。ご注意ください」

 アナウンスと共に目の前のドアがプシューと開く。電車を下りて改札を過ぎ、西口へ出ると、時計台は九時四十五分を指していた。

 そのまま俺は時計台の下まで移動し辺りを見回す。どうやらまだ誰も到着していないようで、俺は安堵の息をついた。

 昨日はあのあと、すぐに解散となった。流れるようにみんなで部室を出て家路につき、そして家に着いた時、結局三人に謝罪も感謝も退部の言葉も、何も言えていないことを思い出して、俺は一人項垂れた。俺は本当に昨日、何をしに行ったのだろう。……裁判を受けたことは覚えている。

 昨日の様子からしてきっと三人は怒っていない、はず。けれど、ここはちゃんと口にしてみんなに謝るのが筋だと思う。とりあえず、今日はみんなが集まった開口一番に謝罪をしよう。それでどこかに寄った際、お詫びの品じゃないけれど何か買って送ろう。そして今までありがとうと、お世話になりました、ちゃんとここから身を引くのだ。

「お、やっぱり諫早が一番だ」

「……葛城、さん」

 声がした方を見ると、自転車を押しながらこちらへ向かい手を振る葛城さんの姿があった。そのまま葛城さんはゆっくりと俺の隣に止まる。……珍しい。

「おはよう、諫早」

「……おはよう。…………珍しいね、自転車」

 俺は思ったことを率直に口にする。葛城さんは自転車に目を向けると「あぁ」と答えた。

「ちょっと用事があってここに来る前に学校に寄ったんだ。歩きだと遅れるかもって自転車で来たんだけど、意外と余裕あったね」

「……そっか」

 俺も彼の自転車へ視線を下げる。今までの話を聞くに葛城さんは実行委員やサークルの部長など、多岐に渡っていろいろな役職を担っている。彼自身、苦ではないというような楽しげな表情を浮かべているが、実際、俺には想像もつかないほど忙しない毎日を送っているのだろう。彼の積極性と、誰とでも何にでも楽しめてしまう人間性は本当に感心してしまう。

 そんなことを考えていると葛城さんからの視線に気づき、俺も葛城さんを見やる。葛城さんはじっと俺を見つめたままだ。

「……どうしたの?」

 そう訊ねると、葛城さんは少し目を細める。

「いや、諫早ならもう来てるとは思ってたけど、昨日の今日だったからさ。もしかしたら来ないんじゃないかってちょっと思ったけど、……はは、俺の杞憂だったね」

 そのままさらに目を細めニコッと笑う葛城さんに、俺はなんだかこそばゆい気持ちになる。

「……断り切れなかったから、ね」

 俺は彼から目を逸らし、前髪を押さえる。すると葛城さんは「あははっ」と、今度は楽しげに笑い出した。俺はジトッと前髪越しに見返す。

「……なに?」

「いや? はは、本当に杞憂だったなーって思っただけ。じゃあ俺、自転車置いてくるね」

 未だに謎の笑みを浮かべたまま、葛城さんは西口近くに設けられた駐輪場へ走っていく。そうこうしているうちに彼女と西尾さんも到着し、自転車を置いて戻ってきた葛城さんとも無事合流して、俺たちは最初の目的地へ向かうため、五分後に出発するという電車へ駆け乗った。


 最初の目的地はオシャレなカフェだった。食事ということでやはりここは西尾さんの提案らしく、車中ではこのカフェの情報や口コミを西尾さんが話してくれた。なんでも評価星四つの美味しいお店らしい。

 俺たちは席に案内されたあと、各々メニューを注文し、鼻腔をくすぐる店内で食事が届くの待つ。大体十分くらいで提供された料理はさっき見た写真にも引けを取らない、美味しそうで綺麗な見映えだった。

 四つ全ての料理が揃い俺たちは「いただきます」と、少し早めの昼食をとる。俺が注文した本日のランチには、サラダにバターロール、そしてメインにビーフシチューがワンプレートに乗せられていた。

 まず始めに、俺はビーフシチューを口にする。ホクホク、ホロホロとしたその美味しさ……というよりも、じんわりと口から胃に伝わるその温かさに、ホッと息をつく。

「そういえば、温かいごはんを食べるの、久しぶりだな……」

 父からの言葉もあったので昨日の夜はちゃんと食べようと思ったのだが、結局食パン一枚となってしまった。

 今日は帰りにスーパーに寄ろう。そんなことを思いながら俺は二口目を食べようとすると、三人からの視線に気づく。どうやら温かいごはん云々の話が口に出てしまっていたようで、三人とも自分が注文した料理を少しずつ小皿に装い、俺に渡してくれる。悪いことをしてしまったと、俺は三人に「大丈夫だよ」と遠慮するが、三人は全く折れる気がないらしく、俺はありがたく三人の優しさを受け取ることにした。どれも美味しかった。

 昼食を済ませ、俺たちは次なる目的地へ向かうため再び電車に乗る。今度は葛城さんの提案でガラス工房へ行き、風鈴作り体験をするらしい。

「ほら、うちの部室って扇風機はあるけどクーラーはないじゃん? だから風鈴があれば、多少暑い日でも涼しく感じられると思って」

 確かに風鈴の音は涼しさを感じられるし、風情もあっていいと思う。けれど、

「四つも一つの部屋に飾るの?」

 音もそうだが、未だ並んでいる四つのてるてる坊主たちも相まって、だいぶ賑やか内装となりそうだ。

 すると、三人ともニコニコと俺の顔を見だす。何か可笑しなことを言ったかな、と首を傾げると、

「いいんじゃない? 演奏会みたいで」

「カルテットだね!」

 と、西尾さんと彼女は嬉しそうに答え、そのまま話は脱線した。

 電車を下り駅から出ているバスに乗り換え、そこから五つ目のバス停で降車すると、最後は歩いて工房へ向かう。次第に風に乗って風鈴のチリンチリンという音が聞こえだし、その綺麗な音色に誘われるよう俺たちは工房まで辿り着くと、その前には「ガラス工房チェレステ」と描かれた立て看板があった。看板の下の方にはさらに「工房隣りの事務所で受付しています」と書かれ、俺たちはその指示の通り、工房に隣接している事務所へ向かった。

「ごめんくださーい」と、葛城さんを先頭に俺たちは横開きのドアを開け、事務所の中へ入る。しかし返事は帰ってこず、事務所内を見回すと「わぁ」と、合わせたように全員から感嘆の声が漏れた。

 中は事務所というよりも簡易的な教室のような造りとなっていた。開けたドアのすぐ右側には受付をするためだろう書類とペン立てが乗ったカウンターに、部屋の中心にはテーブルと椅子が数脚、縦に二列ずつ綺麗に並んでいる。そして、何より俺たち全員を魅了し、今も一身にその視線を奪っているもの、それは、天井から下げられた色とりどりの風鈴たちだった。

「すごくきれいだね!」

「そうね!」

 蛍光灯に反射した風鈴はキラキラと光を放つ。チリンチリンと音を奏でると同時に短冊がゆったりと踊り、優雅さが増す。どうやら音が鳴っているのはほんの数個で、あとは外身のガラスだけのようだが、これはこれで夏以外も娯しむことができて良さそうだ。

 そのまま俺たちは風鈴たちに見入っていると、ガラガラと奥の扉が開く。

「おや、楽しそうな声がすると思ったら。出迎えをせずに申し訳ない」

 穏やかな男性の声に俺たちは全員上に向けていた視線を奥のドアへと向ける。ドアの前にはさっきの声の主であろう男性ともう一人、エプロン姿の女性が立っていた。

「いらっしゃい。ようこそ、ガラス工房チェレステへ」

 人当たりの良さそうな笑顔を見せる女性に俺たちも挨拶を返す。

「えっと、風鈴作り体験で予約した葛城です」

 葛城さんが二人に伝えると、男性は微笑んだ。

「はい、葛城さん四名様ですね、お待ちしてました。本日、皆さんの風鈴作りをお手伝いさせていただく、アカギと申します。こちらは妻の……」

「ニノです。今日は風鈴作り楽しんでいってくださいね」

「はい!」

「よろしくお願いします!」

 旦那さんも奥さんも夏の空のような澄み切った青を纏い、笑顔で俺たちを歓迎してくれる。どうやらこの工房はアカギさんご夫婦二人で経営されているらしい。

「では皆さんこちらへ、工房の方へどうぞ」

 俺たちはアカギさんの後に続き、さっき二人が入ってきたドアから隣の工房へ向かう。

 工房の中に入ると、長い棒が何本も立てかけてあったり、風鈴の形に作られたガラスがいくつも置いてあったり、思ったよりも口の小さい窯の中から赤い光が見えたりと、普段目にしない光景に俺たちはキョロキョロと辺りを見回す。

「それじゃあ荷物はそちらの机に置いてもらって、まず、風鈴作り体験の流れを説明させてもらいますね」

 アカギさんはこれからの工程を簡単に教えてくれる。どうやら初めに行うのは、溶けたガラスを風鈴の形に膨らませる「ガラス吹き」という作業らしい。

 アカギさんは口頭で説明したあと、実際にガラス吹きのお手本を見せてくれる。俺はもちろん、三人も風鈴作りを体験するのは初めてのようで、アカギさんの手さばきを興奮の色を混ぜながらマジマジと観察する。

 溶けたガラスを吹き矢上の棒の先端に小さく丸めて付け、その棒を回しながら風鈴の形になるよう息を吹きかけ膨らませる。職人さんの手慣れた手つきで一見簡単そうに見えてしまうが、ここまでできるようになるまでに十年はかかるらしい。そんな作業を俺たちは熟すことができるのだろうか……と、ここは流石職人さん。初心者でも完成できるようマンツーマンでサポートをしてくれる。

 先陣を切ったのは写真同好会でダントツに器用な西尾さんだった。

 最初の一回目、二回目は息を吹き過ぎてしまい、ガラスが零れ失敗してしまう。しかし三回目にはもうコツを掴んだようで、そのあと、たった二回で綺麗にガラスを膨らませ、難なくクリアしてしまった。これには隣で吹き棒を回してくれていたアカギさんも驚き、手放しで西尾さんを褒めていた。

 次に西尾さんの隣にいた俺が窯の前に立つ。やはり西尾さん同様、最初は息の加減が分からずガラスを地面に零してしまうが、適宜アドバイスとサポートをしてくれたアカギさんのおかげで、十回目でようやくクリアすることができた。

 できあがったガラスを見てなんだか少し歪な気もしたが、これはこれでいいだろう。

 そのあとに彼女と葛城さんの番だが、二人ともガラスを膨らませることにかなり苦戦し、随時交代しながら挑戦を続けた。俺と西尾さんも頑張る二人を見て応援していたが(たまに西尾さんが二人のことを撮っていた)、まだまだ時間がかかりそうな二人の様子に「よかったら先に進めてください」とアカギさんに勧められ、その提案に二人からも後押しされる形で、俺と西尾さんは一足先に次の工程へ取りかかることにした。

 自分たちで膨らませたガラスと荷物を持って、俺と西尾さんは再び事務所へ戻る。事務所の中は冷房が効いてるようで、ドアを開けると心地より冷気が肌を撫で、「ふぅ」と思わず息を吐いた。流石に窯の前は暑かったので、彼女と葛城さんは体調に気をつけて頑張ってほしい。

 部屋の中ではニノさんが風鈴を磨きながら俺たちを待ってくれていた。ニノさんは俺たちに気づくと「お好きな席にどうぞ」と、声をかけてくれる。俺たちはその指示通り適当な席に座った。西尾さんが窓側の一番前の席、俺はその一つ斜め後ろの席に着くと、ニノさんは机の上に筆とパレット、水の入った小さなバケツ、そして十色ほどがまとまった絵の具の束を準備してくれる。

 確か次の工程は「絵付け」作業ということで、ガラスの内側に絵や文字を描いたり、色を付けていく作業。ここでは特にお手本もなく自由に装飾していいらしく、とりあえず俺は天井から下がっている風鈴たちを見上げ、デザインの参考にさせてもらうことにした。

 朝顔や花火などの夏らしいものや、水玉模様などシンプルなもの。さらに、ガラスの若干な楕円を利用し全体でみかんを表現する個性的なものなど、多種多様なデザインに富んでいたが、結局俺はいい案が浮かばず、真似をする技量もないので、簡単に目についた色をガラスの内側に一周するように描いていくことにした。

 絵の具を束ねるゴムを取り、机の上に広げる。最初に緑を選び、次にオレンジ、その下にピンクと頭から順に色を染めていった。

 ……あと一色入れた方がバランスがいい、かな。

 細めに線を取ったせいか、下の方が妙に余ってしまった。けれど何色を入れよう。ここまで結構色彩豊かな三色を選んだため、変に色を足してもアンバランスになってしまう。用意されている色はあと、赤、青、紫、黒、黄色、水色、白。……白か。色付けという点では意味を成すか微妙なところだが、他の三色との調和、と考えれば合っていなくもない。……いや、でも。

 結局、俺はその三色のまま、筆を置くことにした。

 絵付けを終え、最後に「舌」と呼ばれるおもりを中に通すことで、風鈴作りは完了らしい。

 俺は絵の具が乾き切るのを待っていると、不意に斜め前の西尾さんが目に入る。西尾さんは俺と違い緻密な絵付けをしているようで、肩に力を入れながら筆をとっている。西尾さんはもう少しで完成するとして、まだガラス吹きに格闘している二人は時間がかかるだろう。まぁ、急かすこともないので気長に待とう。

 俺は机に肘をつきながらぼんやりと窓の外を眺める。最近では蝉の声も大人しくなり、空は悠々と泳ぐトンボたちを映すようになった。そしてここにも、風鈴の音色に誘われた赤とんぼが一匹。上昇したり、降下したり、ゆらゆらとダンスするその姿を俺は無意識に目で追った。

 やがて赤とんぼは俺の前を通り過ぎると、工房の外に置かれているベンチにひそりと着地した。ベンチの隣には自動販売機があり、恐らく休憩所の役割になっているのだろう。……ちょうどいい。

 俺は席を立ち、ニノさんに一声かけ、外へ出る。

 外は西日が射し、少し汗ばむような暑さだった。俺はトンボくんに教えてもらったベンチまで向かうと、彼はまだ羽を休めているようでベンチの隅に座っていた。

 俺は自動販売機の前に立ち、パスケースを出して麦茶を購入する。ガタンと落ちたペットボトルを屈んで取り出し、再びベンチに体を向けると、トンボくんはもういなかった。羽休めは十分に終わったのか、はたまたペットボトルの落ちた音にビックリしてこの場を離れたのか。真意は分からないが、なんだか少し申し訳ない気持ちになる。

「……お邪魔します」

 誰もいないベンチに腰を下ろす。ふぅと一息つくとそのまま体の力が抜け、やけに力が入っていたことに気づく。

 緊張でもしていたのだろうか? ……いや、それはそうか。行き先は事前に伝えられず、ましてやあの事件のあと、最初のサークル活動。三人とも普段通りの様子だったが、自分でも気づかないうちに気を張っていても不思議ではない。

 ……そうだ、そういえばまだ謝罪も何もできていない。なんだかんだで伝えるタイミングを逃してしまった。

 今言うのは……流石にない、かな。一生懸命作業しているみんなの邪魔はしたくない。ならみんなが作り終わったあと……も、なんだか水を差すような感じがして気が引ける。

 そもそもなんと謝ればいいだろう。

 この間は俺のせいで花火が観られなくなってごめんなさい。

 みんなずっと楽しみにしていたのに、台無しにしてしまってごめんなさい。

 あの日のために仮入部させてもらったのに、せっかくみんなが俺なんかにも観せてくれようとしたのに、期待を裏切ってしまってごめんなさい。

 みんなの優しさを踏み躙って、本当にごめんなさい……。

 謝罪の言葉は思った以上にスラスラと出てくる。けれど、どれもこれもみんなに伝えなくてはいけないものばかりで簡潔にまとまらない。

「……はぁ」

 いつの間にか手元のペットボトルには結露で水滴が付着し、それがポタポタと地面に落ちていく。

 あぁ、せっかく買ったのだから冷たいうちに飲まなくちゃ。それに暑さのせいだろうか、いやに喉が乾く。そんなことを考えながらも抜けた力は一向に戻ってくる気配はなく、頭の中は霞んでしまったかのようにぼんやりし、俺はただじっと落ちていく水滴を眺めた。

「……それ、飲まないの?」

 突然かけられた声に俺は確かに驚いたが、体は一切そんな素振りを見せず、俺はゆっくりと顔だけ上げ、声の元へ視線を向ける。

「……西尾さん」

 そこには絵付けを終えたのだろう西尾さんが、俺のたった数歩先に立っていた。

 こんなに近くにいたのに声をかけられるまで気づかなかったなんて……。内心自嘲しながら、俺は無理やり体に力を入れ、体勢を整える。

「……お疲れ様。絵付けは無事終わったの、かな?」

「えぇ、渾身の出来よ。私も今、絵の具が乾くのを待ってるんだけど、戻ったら見せてあげるわ」

 西尾さんはそう言うと、隣の自動販売機を一瞥する。そして、

「私も休憩しましょ」

 と一言、自動販売機の前に立ち、ポケットから小銭入れを取り出してボタンを押す。再びガタンと音が鳴り商品を取り出すと、それは俺が選んだものと同じ麦茶だった。

「隣、失礼するわね」

 西尾さんは俺の隣に腰を下ろすと、そのままゴクゴク麦茶を飲む。俺もその姿に促されるよう、蓋を回し麦茶に口をつけた。

 ゴク、ゴク、ゴク。

「……それで、今度は何に悩んでたの?」

 ゴホッ!

「…………え?」

 脈絡もなく突然、けれどあっけらかんと西尾さんはそう訊ねた。

 良かった、あまり麦茶を口に入れてなくて。……じゃなくて。

 俺は口元をハンカチで拭う。「なんのこと?」そう聞き返そうとした口は西尾さんを覗いた途端、止まってしまった。

 西尾さんは今も何事もないように平然としていた。それはまるで普段となんら変わらない会話をしているように、悠然に、俺が答えるのを麦茶を飲みながら待っていた。

「…………やっぱり、バレてたんだね」

 なぜだろう。西尾さんのその姿を見て、誤魔化そうとした気持ちは静かに消えていった。

「そりゃそうでしょ。この半年、ずっとサークルの仲間として一緒にいたのよ。気づいて当然、でしょ?」

 西尾さんはこちらを向いてニコッと笑う。その屈託のない笑顔に俺は、顔も、張っていた気も、自然と綻んでしまった。

 俺はポツリポツリと答える。

「……実は、みんなになんて謝ろうか考えてたんだ」

「……謝る?」

 西尾さんは怪訝な顔を見せる。

「……そう。この間の花火大会、みんなすごく楽しみにしてたのに俺のせいで観られなくなったから。……がっかりしたよね、本当にごめんね」

 とりあえず、西尾さんにだけでも気持ちを伝えた。まだまだ言葉も誠意も足りないけれど、率直に、言葉を紡ぐ。

 すると、西尾さんは「ふふっ」と小さく笑った。優しく、温かな表情で。

「ほんと、諫早ってバカね。何も謝る必要なんてないわよ。……それに昨日、無罪って言ったでしょ?」

「……でも」

 西尾さんは持っていたペットボトルを脇へ置いた。そして、そっとオレンジ色に染まり始めた空を見上げる。

「確かに楽しみにしてたわ。私たちにとって、あの花火大会は特別なもの。……そんな私達の『特別』を、諫早はあの時、綺麗だねって言ってくれた。すごく嬉しかったわ。だから私たちは楽しみしてたの。諫早にも私達の特別を共有できることが、大切な思い出の中に諫早も加わってくれることが……。だけど、もうそんなこと気にしてないわ。だって、そんなこと気にならなくなるまで私たちは作ったでしょ? みんなで、『最高』の思い出を」

「……『最高』の、思い出」

「そうよ。諫早にはそう感じられなかった?」

 明るいオレンジが俺を覗く。頭の中でみんなと過ごした日々の記憶が巡っていく。その記憶はどれも色鮮やかで目を瞑りたくなるほど眩しいもの。……けれど、それは不思議とずっと観ていたくなるような、自分の中の凍りついた何かを溶かしてくれるような、そんな温かな記憶……。

「ふふ。あ、それと、誰もがっかりなんてしてないからね!」

 そう言うと、西尾さんは俺を指差す。

「えっ、と……」

「がっかりじゃなくて『心配』! 当たり前でしょ、友人があんな具合悪そうにしてたんだから! 誰が花火大会なんて気にするの!」

 まったくもう、と西尾さんは息を吐く。俺は西尾さんの言葉を頭の中で反芻した。

 心配、心配。……心配、か。そんなこと考えもしなかった。

 あの時のみんなの淀んだ色を俺は知っている。あれは悲しい時や落胆している時のような、気分が落ち込んでいる時に見える色。だからあの時も、「あの日」のように、みんなが俺を白い目で見ているのだと、そう思っていた。

 けれど、西尾さんの言葉がそれを否定する。あれは俺を気にかけてくれる、「心配」してくれている、そんな思いやりの色だったと。

「……そっか」

 柔らかい風が、ふわりと事務所から漏れる涼しい風を運んできてくれる。それはとても心地良く、俺と西尾さんの間を通り抜けていった。

「……ほんと、色葉の言ってた通りね」

「……え?」

 どういうことだろう。思わず西尾さんのいる左側を振り向く。西尾さんは何か懐かしんでいるような、そんな表情をしていた。

「『とっても優しくて素敵な人がいる』。諫早がサークルに来る前からずっと、色葉が私とナオに言ってたことよ。色葉は人の長所を見つけるのが上手だから、普段から誰かを褒める言葉はよく聞いてたけど、諫早の話はその比にならないくらいしてたわ。それに『どうしたら仲良くなれるかな?』ってね。それでそのうち、色葉が私とナオに訊いてきたの。『諫早くんをサークルに誘ってもいいかな?』って。あの時は二人して驚いたわ。ふふ、だって色葉ったら、あまりにも深刻そうな顔をしながら『架凛ちゃん、尚人くん、ちょっといい?』って話し始めるんだもの。サークルをやめますとか、そんな話だったらどうしようって変に身構えちゃったじゃない。……けど、そこが色葉の素敵なところだからね。自分の気持ちを優先するんじゃない、私たちの気持ちも尊重した上で行動しようとするところ……。

 色葉だって十分、優しくて素敵な人柄よ。だからこそ、私たちも色葉が言う諫早に会いたくなって『いいよ』って答えたの。ふふ、もちろん、私たちが色葉のしたいことを止めるなんてないありえないけどね? それでそのあと実際会って一緒に過ごすようになったら、本当に色葉の言ってた通り。まぁちょっと周りを気にし過ぎるきらいがあるみたいだけど、ね?」

「うっ……。申し訳ない、です」

「はははっ! 冗談よ」

 西尾さんの話を聴いて、俺は初めて部室にお邪魔した時のことを思い出す。

 あの時の西尾さんと葛城さんは確かに俺のことを知っているような口振りだった。やっぱり彼女から俺の話を聞かされていたらしい。……だいぶ語弊のある伝わり方をしたみたいだけれど。

 そういえば、俺も彼女からそんなことを言われた覚えがある。

 どうして彼女は俺をそこまで買っているのだろう?

 今年の春に出会って、彼女が俺の忘れ物を届けてくれて。俺も彼女の忘れ物を届けたことがあるが、その時にはすでに西尾さんも葛城さんも俺のことを聞いていたみたいだし、あの件以外で俺が彼女にしてあげられたことなんて、何かあっただろうか?

「……いちねん、ねがったかいがあったわね」

「……え?」

 俺が迷想している間、西尾さんは風に掻き消されてしまいそうな声で何か呟いた。

 一年? 願った? なんのことだろうと俺は西尾さんに聞き返そうとする。しかし、

「にしおさ……」

「おーい! 架凛ちゃん! 諫早くん!」

 彼女の大きな声がそれを阻んだ。声がした方を見ると、彼女と葛城さんが事務所の前で俺たちに手を振っていた。

「お待たせー。俺たちも絵付けが終わって、あとはみんな舌を通すだけだってー」

「一緒に完成した写真撮ろう!」

「お、ついにできたみたいね」

 隣でそう言った西尾さんはベンチから腰を上げ、ペットボトルを握った腕を掲げる。

「お疲れ! 今行くわー! ……ほら、行くわよ諫早」

「あ、うん……」

 俺もペットボトルを取り、ベンチから立ち上がる。……まぁ独り言のようだったし、わざわざ聞き返すこともない、かな。

 西尾さんの後に続いて、俺も二人の待つ事務所へ向かう。すると、

「あ、そうだ」

 ひるりと振り返った西尾さんは、俺を見る。

「諫早、ごめんね。あと、ありがとう。今日出かけようって提案したの、あれ、色葉なの。少しでも楽しんでくれたなら色葉にそう伝えてあげて。絶対嬉しさで飛び上がると思うから」

 そう言うと、西尾さんは再び事務所へ向け歩き出す。

「…………」

 俺は離れていく後ろ姿を眺めながら、ふと、あることを思う。けれどその考えを搔き消すように頭を振り、俺は西尾さんの後を追った。


 事務所に戻ると三人とも席について俺が来るのを待っていた。俺は自分のガラスを置いたままのあの席に座る。なんとなく見覚えがあると思ったら、俺たちの席順は部室での席と同じだった。

 しっかりと絵の具も乾き切り、俺たちはニノさんから短冊と一緒になった舌を受け取る。短冊は空色をベースに「ガラス工房celeste 赤城」と白でうっすらと描かれ、その文字がまるで空に浮かぶ雲のように見える。このデザインはニノさんが考えたものらしく、赤城さんご夫婦を表したような綺麗な短冊だった。

 ニノさんのお手本を見ながら、俺たちは舌を通していく。ガラスを傷つけないよう丁寧に通すと、チリンチリンと軽やかな音色と共に無事風鈴が完成した。他の三人も完成したようで見せてもらうと、葛城さんは朝顔が二つ、西尾さんは金魚と揺蕩う波、彼女は小花と水玉だった。

「やっぱりこういう絵は上手だよね、色葉」

「こういうは余計だよ! 尚人くん!」

「はは、ごめんごめん」

「どうよ諫早!」

「……うん、とっても綺麗だね。売り物みたい」

「ふふ、ありがとう。諫早のはシンプルでいいわね」

「……味気ないの間違いじゃない、かな」

「そんなことないよ」

「うん、諫早くんの風鈴も綺麗だよ」

「……ありがとう」

 互いの作品を鑑賞し写真を撮ったあと、いただいた箱の中に風鈴をしまい、俺たちはお世話になった赤城さんご夫妻にお礼と代金を支払って工房を後にする。

 箱に梱包し袋に入れてもらった風鈴を大事に抱え、来た道を歩き、ちょうど停車したバスに乗って駅へ戻る。そのまま上りの電車に乗り三人が談話していると、葛城さんが買いたいものがあると話し出した。「なら駅ビルに寄ろう」と西尾さんが提案し、彼女も葛城さんもそれに賛同を見せ、俺も断る理由がないので一つ頷く。というわけで、俺たちは現在向かっているツバメ駅に到着後、そのまま駅ビルへ寄ることなった。


 駅に着く頃には太陽は完全に地平線に沈み、空には月が昇っていた。俺たちは駅から通じているエスカレーターに乗り、駅ビルへ入る。行きたいお店や買いたいものなど特に訊いていなかったが、どこへ向かうのだろう。そんなことを思いつつ後を付いていくと、三人の足は二階にある広場で止まった。

「じゃあみんなも好きに買いものして来て。二十分後くらいにまたここに集合にしよう」

「そうね」

「了解だよ」

「…………うん」

 俺は少し遅れて答える。

 三人はそれぞれどこかへ向かって歩いていった。俺はその姿を眺めながら一人この場に留まる。

 ……なんだか、少し意外だった。いつもの彼なら「付き合ってくれてありがとう」と言いながら、一緒に買い物をすると思った。そして二人も「いいよ」と言って、一緒にお店を見て回るものだと。そのためあのような提案をした彼にも、その提案になんの躊躇いも疑問も見せず受け入れた二人にも、少々面食らってしまった。

 …………まぁ、そんな時だってあるだろう。七夕祭りの時だって最後、お土産を買うときは一度解散した訳だし。それより、みんなを待つこの二十分間、どうやって過ごそう。ぶらぶらとただお店を見て回ってもいいし、広場に設けられている椅子に座ってこの間読み終わった電子書籍をもう一度読み返してもいい。……いや、せっかくなら本屋さんにでも行って面白そうな新刊が出ていないか見てこようか。

 方針も決まり、俺はようやく広場から足を進めた。


「ただいま、諫早くん」

「待たせちゃったかしら?」

 聞き慣れた二つの声に視線を上げると、そこには二人一緒に広場へ戻ってくる彼女と西尾さんの姿があった。

「……いや、俺も少し前に戻ったきたところだから待ってないよ」

 さっき買った文庫本を閉じ、鞄にしまう。あれから二十分以上経ったが、まだ葛城さんの姿は見えない。

「あら、紳士的な返ね」

「諫早くんはもしかしなくても本屋さんに行ってたのかな?」

「……うん。あ、加賀さんが待ってた新刊、本屋さんに置いてあったよ」

「本当? やったぁ! 今度買いに行ってこよう」

 楽しみだと言わんばかりにニコニコと笑う彼女に「今度と言わず今からでも買いに行ってくれば?」と口にしようとしたが、それはどこからか鳴り出した軽快なメロディによって阻まれた。

 音の鳴りどころはどうやら西尾さんの鞄からのようで、西尾さんは斜めがけの鞄からスマホを取り出すと、それを耳元へ当てる。

「もしもし。……うん、分かったわ、私たちも今から行くわね。はーい」

 短い会話の中、西尾さんは何か納得したような表情を浮かべると通話を切った。恐らく、相手は……。

「あ、ナオから、荷物が多くて自転車に載せに行ったから、そのまま時計台の下で待ってるって。私たちも行きましょう」

「そうだね」

「……うん」

 やはり電話の相手は葛城さんだったようで、俺たちは葛城さんの待つ時計台へ向けて歩き出す。……あの通話中にそこまで話せる時間はあっただろうか?


「あ、みんなー」

 西口を出ると俺たちに気づいた葛城さんが片手で自転車を支え、こちらに手を振る。

 ……荷物が多いとは聞いたが、流石に多過ぎじゃないだろうか。葛城さんの支える自転車のカゴからは大きく膨れたビニール袋が溢れんばかりに顔を出している。

 俺たちはそのまま葛城さんの元へ歩み寄る。

「諫早ごめんね、俺が言い出したのに集合場所勝手に変えちゃって」

「……それは大丈夫だけど、いっぱい買った、ね」

 そう言うと、葛城さんはなぜだか嬉しそうに「でしょ?」と、答えた。

「さて、それじゃあ行きましょうか」

「そうだね」

「あ、俺先導するよ」

「ありがとう、ナオ」

「……え?」

 俺は三人の会話に思わず声を漏らす。てっきり今日はこれでお開きかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。葛城さんに至ってはこのあと移動するのに不便なほど荷物を持っているが、一体どこへ向かうのだろう……。

「ほら、諫早行くよ」

「……あ、うん」

 俺は三人に連れられ大人しく足を進める。駅から東に向かって歩いているため行き先が学校でないことは分かるが、この辺りの土地勘のない俺はそれ以上の情報を汲み解くことはできない。「どこに行くの?」と訊ねても、三人とも「内緒」と言って楽しげに笑うだけだ。

 駅から離れるにつれ街灯が点々とし、道が暗くなる。一体どこまで歩くのだろうと考えていると、案外目的地は近かったようで駅から歩いて十分もしないうちに「着いたよ」と、先頭を歩く葛城さんが立ち止まる。後ろを歩く俺たちも一緒に立ち止まり、その先を窺うと、そこはごく普通の公園だった。

 ……公園? こんな時間に、こんな場所。一体なんのために?

 もはや疑問しか浮かばない俺を置いて、三人はするりと公園の中へ入っていく。そのままテーブルのような丸い台が設置されているところまで行くと、自転車を止め、荷物を置き、カゴの中から次々とビニール袋を下ろしていく。

「……なにしてるの?」

 そう訊ねると、

「準備だよ」

 と、葛城さんは平然と答える。

「準備? なんの?」

「何って、それはもちろん……」

 そう言って、葛城さんはビニール袋の中から勢いよくあるもの取り出す。

「……バケツ?」

「バケツ」

 自信満々に葛城さんが答えるが、申し訳ないことになんの準備をしているのか皆目見当がつかない。

「尚人くん、それだけじゃ分からないよ」

「なら諫早、これはどう?」

 そう言って西尾さんが次に取り出したのは……。

「……ロウソクと、チャッカマン?」

「そうよ」

 これまた自信満々に答える西尾さんに俺は首を傾げる。つまり、今から火を使う何かをするってこと、かな? …………展墓? いや、ここは公園だし、今からそんなことをする理由もない。そういえば肝試しがしたいと前に言ってたが、流石にそれも違うだろう。

「……うーん」

 全く答えに辿り着けない俺に、三人はくすくすと笑みを溢す。

「ふふふ、じゃあ諫早くん。これで分かるかな?」

 そう言うと、彼女はビニール袋の中からヒント……というより、答えを見せてくれた。

「……花火?」

「大正解!」

 そう言って彼女が取り出したのは、華やかなデザインの台紙と袋に包装された手持ち花火のセットだった。それを彼女は袋から三つも取り出すと「まだあるよ」と、今度は他のビニール袋から置き型の花火を取り出す。改めて公園の看板を見ると、ここは花火が許可された公園のようだ。

 ……なるほど、それでわざわざこの場所を選んだ訳で、駅ビルでみんなが買っていたのはこれだったらしい。

 俺はテーブルに広げられた大量の花火に目をやる。見慣れないそれらにいつの間にかじっと目を奪われていると、その間に葛城さんはバケツに水を入れ、西尾さんもロウソクに火を付けてくれていた。これで準備万端といった様子で、彼らはやや控えめに声を出す。

「それじゃあ始めようか。写真同好会主催、花火大会ー!」

「いえーい!」

「……い、いえーい」



 手持ち花火や置き型花火にもいろいろな種類があるらしい。ススキ、スパーク、手筒。それに噴出花火やパラシュート。楽しみ方もただ眺めるだけでなく、花火を宙で回し光の残像で文字や絵を描いたり、それを写真に収めたりと、いろいろあるようだ。

 これだけ楽しみ方に多様性があるなら、小さい子どもだけでなく、齢二十歳の彼らが童心に返ってはしゃいでしまうのも仕方ないだろう。俺の視界には花火を片手に楽しそうに笑う三人がキラキラと映る。……いや、彼らの場合、年齢など関係なく何にだって楽しめてしまうのかもしれない、かな。

「ほら諫早、火が消えてるよ。俺の火あげるから早く次の選びな」

「諫早くん、まだまだ花火あるよ! 次はどれにする?」

「あ、そうだ。まだ四人で写真撮ってなかったわね。せっかくだから全員花火持ってるところを撮りましょ。ほら諫早、早く早く!」

 六つの色たちが俺の周りに集まる。それはとてもカラフルで、ずっと目に残ってしまうような、そんなキラキラと光り輝く色たち。

「……そう、だね」

 俺は燃え殻をバケツに入れ、花火が並ぶテーブルの前に立つ。

 彼女の言う通り、花火はまだまだ残っている。その中から、一番手近にあった花火を一つ拾い上げた。

「はい」

「……ありがとう」

 葛城さんから火をもらった花火は勢いよく光を噴射する。視界に映る色は緑にパープル、オレンジに赤、ピンクに青、そしてシルバーと七色に増えた。

「それじゃあ、撮るわよ!」

 西尾さんはスマホ持った手を伸ばし、内カメラで全員が映るように画角をとる。彼女と葛城さんは花火を持つ逆の手でピースを作った。

「よし、みんな笑って!」

 パシャっ! 西尾さんの合図と共にシャッター音が公園内に響く。

 それから三人の花火は図ったように同時に消え、さっき撮った写真を確認するべく、三人とも西尾さんのスマホを覗き込んだ。

「結構よく撮れてるんじゃない?」

「うん、いい写真だね」

「私もそう思う。ほら、諫早くんも見て」

 彼女は西尾さんからスマホを借りると、三人の後ろで手元の花火を眺めていた俺に写真を見せてくれる。

 写真には三人の笑顔がよく写っていて、楽しいという気持ちが画面越えて伝わってくる。それに引き換え、俺ときたら……。まるでぎこちなく口角を上げているだけの笑顔に嘲笑ってしまう。……けれど、

「……うん。いい写真、だね」

 なぜか心からそう思える、いい写真だった。

「……あとでこの写真も含めて今日撮ったもの全部、グループに送るわね」

「ありがとう、架凛」

「架凛ちゃんありがとう。よろしくね」

「……ありがとう」

 そのあとも消えては光り、消えては光り……。燃え尽きては再び次の花火へ火を付け、俺たちは移り変わる光の空間を楽しむ。……すると、

「おにいちゃん! やっぱりハナビだよ!」

「こら、だめだよ」

「ん?」

「なんだろう?」

 公園の入り口の方から突然、何やら幼い声が聞こえてくる。振り向くとそこには、花火ように目をキラキラと輝かせこちらを見つめる小さな少年と、その子を和ませようとする少年の二人がいた。

 恐らく兄弟なのだろう。お兄ちゃんは弟くんの手を取り、家に帰ろうと促す。けれど弟くんは花火を見るのに夢中で全くそれに動じない。そんな微笑ましい光景を眺めているうちに、いつの間にか全員の花火は燃え尽きていた。

「こんばんは。僕たち、この辺りの子?」

 最初に幼い兄弟に声をかけたのは葛城さんだった。葛城さんは燃え殻をバケツに入れたあと、幼い兄弟の前で膝を折る。

「そうだよ! おうちのまどからね、ハナビがみえたの!」

 弟くんは公園の隣の家を指差しながら元気よく答えてくれる。

「ごめんなさい。どうしても見に行くって聞かなくて……」

「だっておにいちゃん、ハナビだよ! ピカピカしてきれいだよ!」

「それでもお兄さんたちのじゃましちゃダメでしょ?」

 小さなお兄ちゃんは弟くんの頭を撫で、窘める。弟くんはそれに「えへへ」と笑うと、お兄ちゃんは「もう」と、困ったように笑った。

 きっと仲のいい兄弟なのだろう。気がつくと自然と頰が緩んでいた。

「優しいお兄ちゃんだね。大丈夫、全然邪魔じゃないよ」

 そう言った葛城さんの表情はここからでは見えないが、きっとニカっと笑っているのだろう。葛城さんの顔を見てお兄ちゃんは今度安心したように笑い、弟くんは彼を真似たようにニカっと笑った。

「そうだ、二人とも花火は好き?」

「うん、だいすき!」

「はい」

 葛城さんの問いかけに二人は素直に答えてくれる。なんとなく、俺はこのあと彼が言うであろう言葉が想像ついた。それはきっと……。

「そっか。じゃあさ、一緒に花火やろうよ。おうちの人が心配するからちょっとだけ、どう?」

「……っ! いいの?」

「もちろん」

『いいよね?』

 葛城さんはこちらを向き、音にはせず口の動きだけで俺たちにそう訊ねる。

『もちろん』

 彼女はオッケーサインを作り、西尾さんはグッドと親指を立て、俺は首を縦に振る。各々返答の仕方は違うが、同じ答えを葛城さんに返した。

「やったー! ね、おにいちゃん!」

「うん、そうだね。ありがとうございます」

「二人ともこっちにおいで!」

「花火いっぱいあるから、好きなの選んでね!」

 今まで後ろから見守っていた西尾さんと彼女は小さな兄弟に声をかける。二人はテーブルの上にあった花火を彼らが取りやすいように地面に置く。その大量に並べられた花火を見た少年たちは興奮の色に染まり、二人の元へ駆け出した。


「ふぅ……」

 温み切った麦茶を一口飲み、一息つく。今日はずっと目紛しい一日だったせいか、俺は少し疲労を感じ、みんなに一声かけ、テーブルの前で休ませてもらうことにした。俺と同じ一日を過ごしているはずの三人はそんな疲れを一切見せず、幼い兄弟たちと一緒にパラーシュートを追って走っている。

 俺は麦茶を一気に飲みきり、公園の隅に設置されたゴミ箱へ向かう。三つ設置されたゴミ箱のうち「ペットボトル」と札がついた箱に空いたボトルを落とすと、コトンっと音が鳴る。その弾んだ音と共に、俺はふと空を見上げた。

 手持ち花火も置き型の花火も、どれもこれも見惚れてしまうくらい煌びやかで美しいものだった。小さな花火でそう思うのだから、きっと夜空に咲く大きな花火はもっと、もっと美しいのだろう。……美しかったのだろう。

 西尾さんはああ言ってくれたが、やっぱり……。

「諫早くん」

「! ……加賀、さん」

 突然かけられた声に俺は驚いて振り向く。そこには彼女が俺の顔を覗くように立っていた。そしてさっきまで聞こえていた楽しげな声がなくなり、少年たちがいなくなっていることに気づく。西尾さんと葛城さんもいないので、もしかして二人を家まで送っているのだろうか。

 そんな俺の心情を察したのだろう、彼女は、

「あの子たちなら、そろそろおうちに帰ろうかって、架凛ちゃんと尚人くんが一緒に送りにいったよ」

 と、教えてくれる。

「……そっか」

「うん。とっても楽しかったって。あと、諫早くんにありがとうって言ってたよ」

「……俺に? 俺は何もしてないよ」

 二人を花火に誘ったのは葛城さんだし、ずっと一緒に遊んであげたのは三人だ。俺は本当に何をしていない。

「そんなことないよ。諫早くん、二人が花火に火をつける時、火傷しないように一緒に花火を持っててあげたでしょ。そういう優しさを二人もちゃんと気づいてたんだと思うよ」

 彼女はそう言うと、嬉しそうに笑みを浮かべた。

 俺は彼女から目を逸らし、前髪を押さえる。彼女は今度クスっと笑みを溢した。

 俺と彼女は一緒にテーブルのところへ戻る。そのまま残り少なくなった花火を一カ所にまとめていると、

「ねぇねぇ諫早くん」

 彼女はこよりのようなものを束から一つ取り出し、俺に言った。

「一緒に線香花火やろう」


「諫早くん! 火をつけるところ逆だよ! こっちのヒラヒラしてる方が持ち手!」

「あ、ごめん……」

 俺は慌てて上下を入れ替える。チャッカマンでロウソクに火を付け、彼女の真似をして先端が細い方に火を当てると、線香花火はパチパチと火を吹き出した。

「おぉ……」

「ふふ、そういえば、諫早くん花火をするの初めてだっけね」

「……うん」

 俺たちは手元の光を見つめる。質量の小さなその光は、他の手持ち花火とはまた違う魅力があるようで、いつまでも見入ってしまいそうだ。

 そのまま俺と彼女の間に静寂が落ちる。互いに線香花火に視線を落とし、そしてふと、その静寂を彼女が解いた。

「諫早、ごめんね」

「え?」

 彼女の突然の謝罪に、俺は視線を上げ彼女を見る。彼女は自分の線香花火を見つめながら眉根を寄せていた。視界の隅に映る花火は最初の頃より落ち着いた光を放つ。

「……花火大会の日、諫早くん、朝からずっと体調悪かったんだよね。それを、私たちのために無理して来てくれたんだよね。なのに私、諫早くんの頑張りを無駄にしちゃうようなことして。それにあんな風に言ったら諫早くんが責任を感じちゃうなんて、よく考えなくても分かったはずなのに……」

 再び「ごめんね」と、彼女は苦く笑う。きっと彼女は彼女で、あの日をずっと負い目に感じていたんだろう。

 あの時の彼女の言葉は間違いなく正しかった。だから彼女が謝ることなんて何一つない。

「……加賀さんは何も悪くないよ。加賀さんは、俺のことを『心配』してくれただけなんだから。それよりも、花火大会の予定を台無しにしちゃった俺の方が悪い」

 西尾さんは花火なんてどうでもいいと言ってくれたが、それでも、みんながあの花火大会を楽しみにしていたのは事実で、その期待を奪ってしまったのは俺なのだ。謝る必要は俺の方にある。

「諫早くんだって何も悪くないよ! だって、諫早くんは……!」

 彼女は大きな瞳で俺を射抜き、そこで言葉を止める。その瞳は有り有りと何かを語ろうとしていたが、「……いや、なんでもないよ」という彼女の言葉と共に伏せられた。

 線香花火の光は再び大きくなる。

「あのね、諫早くん」

「……なに?」

 彼女は線香花火に視線を落としながら話を続ける。

「あの、私が今日、花火をやろうって言い出したの。あの日観られなかった代わり、ってことじゃないよ。もちろん諫早くんを責めたかったわけじゃない。諫早くんは優しいから、花火を見て嫌な気持ちになるんじゃないかって心配して、悩んで……それでも、一緒に花火をして諫早くんに伝えたいことがあったから……」

 そう言うと、彼女は一つ息を吸う。そして再び、彼女は真っ直ぐ俺を見た。

「諫早くん、私はね、別にあの花火を観たかったわけじゃないの。……あ、この言い方だと語弊があるね。うんと、もちろん観たかった気持ちもあるよ。ずっと楽しみにしてたしね。けど、それはあくまで『四人』で観ることが、だったから。きっと、あのまま三人で花火を観たとしても、何も魅力に感じなかったと思う。えっと、だからね? 花火をやろうって私が言い出したのは、大きくて華やかな花火もいいけど、小さくても四人で楽しめる方がずっと大切というか、規模とか大きさとか関係ないっていうか……。それで、あの日のことを諫早くんが自分のせいだなんて考えないでって、私たちはみんなで一緒に思い出を作れることの方がずっと……あの……」

 なぜか最後にまごつきだす彼女は「えっと、えっと……」と、まとまらない結論にアワアワとしだす。俺はそんな彼女を見て、なんとなく彼女らしいと思ってしまった。

「ふふふ」

「い、諫早くん?」

 彼女は戸惑いを滲ませ、俺を窺う。いつのまにか二つの線香花火はパチパチと音がしなくなり、ポトンと火玉が地面に落ちていた。

 ……きっと、今日という日を過ごさなかったら、俺はもう一生花火を見ようとはしなかったし、彼女の言う通り、それどころか花火と聞いただけで鬱屈な気持ちになっていたかもしれない。

 けれど、そんな気持ちにはこの先きっとなることはない。少し思い返すことはあるかもしれないが、それでも俺はいい思い出だったと、花火を見るたびに懐かしい気持ちになると思う。そうさせてくれたのは、紛れもなく……。

「……加賀さん、今日はありがとう。すごく楽しかった。それに、初めての『花火』も、観せてくれてありがとう」

 俺は彼女を見つめ、内から出てくる言葉を覆うことなく彼女に伝える。

 彼女は驚いた様子で目を見開いた。けれど、すぐさまその表情は移ろい、

「……うん!」

 と、花火が咲いたような笑顔を見せてくれた。

「……ただいま!」

「遅くなりましたー」

 少年たちを送りに行った二人が帰ってきたようで、俺たちは立ち上がり、同時に声のした方を向く。

「架凛ちゃん、尚人くん、おかえり……って、どうしたの、それ?」

 言葉にはしないが、俺も彼女と同じ疑問を抱く。どうしてかというと、二人はなぜか小さな花束を持って帰ってきた。それも二つずつ。その疑問に葛城さんが答えてくれる。

「いや、実はね、二人を送って、一応お母さんに事情を話したんだよ。そうしたらありがとうございましたって、お礼にお家で育ててるお花を包んでくれてね」

「それもわざわざ私たち四人の分。しかもこんなに綺麗なお花をよ」

「わぁ! 本当に綺麗なお花だね」

「はい、これは諫早の分ね」

「あ、ありがとう……」

 俺は葛城さんから花束を受け取る。確かに色鮮やかで綺麗な花たちだ。

「それで、二人は何してたの?」

「ふふ、実はね、二人で線香花火勝負をしてたの。どっちが火玉を落とさないでいられるかって。ね、諫早くん!」

 彼女は俺だけに見えるように、ニッと笑う。

「……そうだね」

「へぇ、それで、勝負はどっちが勝ったの?」

「それが勝負をしてる最中二人でお話してたんだけどね、いつの間にかお話の方に夢中になっちゃって、気づいたら二人とも落ちちゃってたの」

「なにそれ!」

「はは、なんだか二人らしいね」

 彼女に釣られ、二人も笑みを浮かべる。

「じゃあさ、二人も帰ってきたし、今度は四人で勝負しようよ」

「お、いいわね。負けないわよ?」

「ならせっかくだし、罰ゲームとかつけた方が面白そうじゃない?」

「いいね。何にしようか」

「じゃあ一番最初に脱落した人が、一番最後まで残った人にジュースを奢るなんてどう?」

「それくらいがちょうどいいかもね。よし、その勝負乗った」

「負けないよ!」

「ほら、諫早もお花置いて! 一緒にやるわよ!」

「……うん」

 全員ブーケをテーブルに置いて線香花火を持つ。さっき彼女に教えてもらった通り、今度は最初からヒラヒラした部分を上に持った。

「じゃあ一斉につけるよ。せーの」

 葛城さんの掛け声と共に四つの線香花火はロウソクの火に当てられ、穂先が赤く染まり始める。

「あ、パチパチしてきたよ」

「ほんとだ」

「小さい火花が綺麗ね」

「やっぱり線香花火はいいね」

「だね」

「この侘しさというか、儚さがいい味なのよね」

 三人が談笑しながら線香花火を観賞する中、俺はふと一瞬、自分の線香花火から視線を上げる。そこにはロウソクを囲うように円を描く四つの線香花火と、彼らの笑顔。そして、その円の中に俺がいる。

 俺は目の前の光景に息を呑む。

 ……本当はもう気づいていた。もう少し、もう少しだけ、彼らと共にこの時間を過ごしていたいと。この刹那の輪の中にいさせてほしいと。

 そして、願わくは……、

「……あのさ、明日も、明後日も、夏休みが終わっても、この場所にいてもいい、かな」

 線香花火の音にも負けてしまいそうなほど小さく、小さな希望がポロリと零れる。もしかしたらこの声は三人まで届かなかったかもしれない。けれど、それでいい。三人の優しさに口を滑らせてしまった、一時の俺の余念。彼らとまだ一緒に過ごしたいのは事実で、これ以上彼らに迷惑をかけたくないのも事実。だから俺はそのまま口を噤む。

 何もなかったように再び線香花火を眺める。すると、線香花火のパチパチと弾ける音がやけに鮮明に聞こえてくることに気づいた。

「……え」

 俺はそっと顔を上げると、三人は揃って静かに俺を見ていた。そして三人と目が合い、彼らは図ったように一斉に言う。

「もちろん!」

「……あ」

 三人の笑顔と声が重なる。それと同時に、勢い余って三人の火玉がポトっと落ちた。四つの輪の中で今も光っているのは俺の線香花火だけ。

「……ふふ、あはは!」

「諫早くん以外落ちちゃったね!」

「まさか三人一気に落ちるなんてね、ははっ」

「この場合どうしようか?」

「よーし、それじゃあ俺たちから一本ずつ、諫早にジュースをプレゼントしよう」

「……え? いや、そんなにいらないよ」

「遠慮しなくていいのよ、諫早!」

「そうだよ諫早くん! 一リットルでも二リットルでも、好きなの選んでいいよ!」

「その量は一本でもいらないよ!」

「はははっ!」

 ポツリと俺の手元からも線香花火の光が落ちる。

 いつのまにか、小さい頃夢見ていた、描いていた夢の中に俺はいた。

 花火は消えてしまったのに、変わらず三人はキラキラと光る。その眩しさを、俺はもう不快に思うことはない。


 ……解れた糸は、再び俺たちを織り重ねていた

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