優しい願い

 ……まだ降ってる、か。

 四限の終わった教室から窓の外を眺める。朝から降り続く雨は夕方には止むと予報されていたが、どうやら外れてしまったらしい。換気のため少し開いた窓から雨音が聞こえることはない。それは教室内に残る数人の話し声によって、俺の耳に届く前に掻き消されしまう。それほどまでに弱い雨脚は、それでもなおシトシトと降り続く。

 あの旅行以降、本格的に梅雨入りした空には常に薄暗い雲がかかっている。弱い雨が降っては止み降っては止みを繰り返し、屋根のない裏庭ではいつものように本を読むことも、お昼ごはんを食べることも、雨宿りをすることさえかなわない。

 ではこの降り続く雨の中、どこで昼休みを過ごすか。もちろん梅雨の時期以外でも天気の良くない日はある。そんな日はまだ人の少ない食堂へ行ったり、空き教室へ行ったり、人気のないラウンジへ行ったりと、適当な場所を見つけては適当にやり過ごしているが、それと同様に俺はのらりくらりと当てを探し昼休みを過ごしていた。あの裏庭はやはり学校で唯一俺に安息をくれる場所だと再認識する。

 意外にもその日々は長く続かなかった。本当に二日か三日だった気がする。

 例の講義を終えたあと、彼女が俺に訊ねてきた。「雨が続いてるけど裏庭には行ってるの?」「どこか違う場所で過ごしてるの?」どういう意図で彼女が訊ねてきたのかは分からないが、俺は素直に現状を伝えた。「……行ってないよ」「……食堂とか、空き教室とか、できるだけ静かなところを見つけてその日その日過ごしてる」

 彼女は一瞬表情を落としたと思うと、またすぐにいつもの笑みを浮かべた。そして「なら部室を使えばいいよ」と口にした。俺は自分一人の都合で、ましてや『仮』部員の分際で勝手に部室を使わせてもらうなんて烏滸がましいとその誘いを丁重に断った。けれど彼女は何も気にする必要はないと、鞄の中から部室のスペアキーを取り出し俺に差し出した。

 目の前にスペアキーを眺めながら俺の心はぐらぐらと揺らいだ。正直なところ、当てを探す手間がなくなるその申し出は、大変魅力的だった。少し悩んだあと、俺は素直にスペアキーを受け取り彼女のお言葉に甘えることにした。どうして彼女がスペアキーを持っているのかは聞かなかった。

 それから昼休みになると俺は預かったスペアキーを使い、部室へ侵入した。するとなぜか彼女もやって来て再び一緒に昼食をとるようになり、いつの間にかそこに西尾さんと葛城さんも加わって、気づけば賑やかな昼休みとなっていた。不思議と嫌な気はしなかった。


 本日二度目の部室訪問。以前よりは幾分か自然な足取りで俺は薄暗い九号館の廊下を歩く。元々日当たりの良くないこの廊下は、こう天気が悪いと少しおどろおどろしい雰囲気を纏う。

 放課後の部室では再びあのミーティングが開催された。俺たちは七月の活動について話し合う。今回は先月のような突飛な発案がされることもなく、至って穏やかに話は進んでいった。

 七月のイベントといえば何か。海開き? 夏祭り? やはり七夕では?

 そこから各々「七夕 イベント」と検索をかけ、目ぼしいものがないか調べていく。案外、ショッピングモールやアミューズメントパークなどのちょっとした催し以外にも、大々的に七夕をメインとしたお祭りは各地点々と開催されているらしい。

 俺たちは主に移動距離を考慮しながら適当な七夕のお祭りを探す。

「みんな、ここはどう?」

 西尾さんの一声に、俺はスマホを動かす手を止める。他の二人と一緒に視線を上げ西尾さんに注目すると、西尾さんは俺たちに見えるよう、自身のスマホを四つの机の真ん中に置いた。俺たちはそっとスマホを覗き込む。

「……えっと、『竹起き七夕祭』?」

「そう」

 彼女がスマホに表示されている記事のタイトルを読み上げると、西尾さんは画面を下にスクロールする。

「ここに書いてあるんだけど、コゲラ駅の前の通り、『竹起き通り』っていう場所で毎年七夕祭りが開催されているらしいの。記事と写真を見たら結構盛況あるお祭りみたいだし、場所もツバメ駅から上りで八つ先の駅前だから、七日、学校が終わったあとでも行きやすいと思うの。どう?」

 顔を下に向けたまま、俺は視線だけを動かして彼女と葛城さんを窺う。二人とも記事を一通り確認し終えると、スマホから顔を上げニコリと笑みを浮かべた。どうやら来月の活動は決まったようだ。

「うん、楽しそうなお祭りだね。写真もいいのが撮れそうだし、俺は賛成だよ」

「私も」

「よかった。諫早はどう?」

「……うん、俺もいいと思う」

 正直、人が集まる場所は得意ではないが、それはもう諦めたことなので特に言及しない。それに先月の活動に比べたら、だいぶ気は楽である。

「よし、決まりね」

「うん。じゃあ七日は講義を終えたら一度部室に集合して、みんな揃ったらお祭りに行こう」

「了解だよ」

「オッケーよ」

「……はい」

 そうしてミーティングも無事終了し、部室にはいつものようにゆったりとした時間が流れる。不意に窓の外を眺めると、雨はやはりシトシトと降り続いていた。

「ちょっと飲み物買ってくるわね」

「あ、俺も行くー」

「二人ともいってらっしゃい」

 席を立つ二人に彼女は座ったまま小さく手を振る。二人もそれに手を振って応えると、ドアを開け、薄暗い廊下へと姿を溶け込ませていった。

 俺は頬杖をついて再び窓の外を見やる。確か今年の梅雨明けは七月下旬になるとテレビで言っていた。この様子では今日はもう雨は止むことはないだろう。もしかしたら明日も、明後日も、来週の七夕も、一日雨が降り続くかもしれない。それはまぁ梅雨なのだから仕方のないこと。……そう、仕方のないこと、なのだけれど。

「どうしたの、諫早くん?」

「……え」

 突然かけられた声に俺はハッと我に返る。頬杖を解いて前の席に座る彼女を覗くと、彼女は不思議そうに俺を見ていた。

「……あ、いや。…………晴れないかなって思っただけだよ」

 そう答えると彼女は無言のまま俺を見つめ、ふと、窓の外を眺める。そのまま数秒雨空を眺めた彼女はその顔に笑みをひっさげ、再び俺の方を向いた。彼女の表情の変わりようはまるで手品を見ているようだ。

「じゃあさ、今から一緒にてるてる坊主作ろうよ」

「……へ?」

 唐突な彼女の提案に素っ頓狂な声が出る。……いや、確かに晴れないかなとは言ったが、まさかこの数秒で彼女がそんな結論に至ったなど思いもしなかった。彼女は俺の困惑を帯びた声が届かなかったのか、はたまた気にしていないのか、椅子から立ち上がると棚の中からティッシュ箱と輪ゴム、さらに黒の油性ペンを取り出してそれらを机の上に置く。

「……あの、加賀さん?」

「さぁ、一緒に作ろう!」

 答えになっていない応えに、どうやら先ほどの正解は後者だったと気づく。

 彼女は俺を気にしないまま箱からティッシュを二枚引き抜き、それをくしゃくしゃと丸め出す。黙々と手を進めていく彼女に俺はどうしたものかとただただ彼女の手元を眺める。

「ねぇ諫早くん」

 ふと、彼女は手を止め俺に呼びかける。俺は応える代わりに顔を上げる。いつの間にか彼女も顔を上げていたようで、あの大きな瞳と目が合った。

「大丈夫。きっと晴れるよ。今日も、来週も……」

 優しい眼差しが真っ直ぐと俺を射抜く。小春のような笑顔がふわりと咲く。柔らかなピンク色がほんのりと温度を上げた。

 俺はその美しい景色に少し目を奪われたあと、誤魔化すようにそっと目を逸らす。

「……流石に今日は無理じゃない、かな」

 無意識に口から皮肉めいた言葉が零れる。その性根の悪さに内心自分で自分を嘲笑った。

「はは、やっぱりそうかな? けど、明日からてるてる坊主さん、頑張ってくれると思うよ」

 彼女はやはり気にせず、そう言うと再び手を動かす。さっきくしゃくしゃにしたティッシュをもう一枚引き抜いたティッシュで包み、輪ゴムでとめ、形を整える。出来上がったてるてる坊主の頭に、彼女は楽しそうに油性ペンで顔を描いていく。

「…………」

 彼女のその様子に俺もティッシュ箱へ手を伸ばす。彼女の手順を真似て、くしゃくしゃとティッシュを丸める。視界の隅で桜が咲いたような気がした。

「ただいまー……って、え?」

「二人とも何してるの?」

 ペットボトルを片手に戻ってきた西尾さんと葛城さんはドアを開けたままの状態でポカンと立ち尽くし、奇異の目で俺たちを見る。……まぁそれはそうだろう。

「おかえり架凛ちゃん、尚人くん。今ね、諫早くんと一緒にてるてる坊主を作ってるの。ほら、可愛いでしょ?」

 そう言うと、彼女は完成したであろうてるてる坊主を未だ硬直する二人に見せる。すると、

「ちょっ! 色葉それ!」

「ふはっ!」

「え?」

 二人は魔法が解けたかのように一気に体の硬直が解き、急に笑い出す。それを見て今度は彼女の方がポカンとするが、恐らく二人の魔法を解いた原因はあれだろう。俺はそっと視線を左に向け、彼女の手元を覗く。

「…………えっと、加賀さん。それは?」

「え、てるてる坊主だけど……」

 彼女はそう答えると、今度は俺に向かって「てるてる坊主」を見せる。真正面で見たそれは、やはり、その……。

「いやー久しぶりに出ましたね、色葉画伯」

「ねぇ色葉、なんでこのてるてる坊主、目が三つあるの?」

「違うよ、真ん中にあるのは鼻だよ」

「え、鼻なの? じゃあこの両サイドに描いてある『6』は?」

「耳だよ」

「耳なの……?」

「ふはは!」

「じゃ、じゃあこの目の上のギザギザは繋がった眉毛?」

「髪の毛だよ! 繋がった眉毛なんて描かないよ!」

「いや耳の方が描かないわよ!」

 その後も彼女の描いた個性的なてるてる坊主の顔に西尾さんは一つ一つ確認を入れ、彼女の答えを聞いては葛城さんはお腹を抱える。確かに、てるてる坊主にしては少々芸術的過ぎる、かな。

「もう、架凛ちゃんも尚人くんも笑い過ぎだよ!」

「はは、ごめんね色葉。色葉の描く絵、俺たち大好きだからつい」

「そうそう。あ、諫早もできたの?」

「……うん」

「見せて見せて……お、諫早のてるてる坊主、可愛いね」

「ほんと、目とほっぺだけだけど、それがシンプルで可愛い」

「……諫早くん、てるてる坊主を作るプロだったの?」

「……いや、てるてる坊主を作るのにプロも何もないと思うよ」

「ナオ、私たちも作りましょ」

「そうだね。出来上がったら四つどこかに飾ろうか」

「わ、わたし、作り直す!」

「色葉のはそれでいいのよ」

 こうして、残りのサークル時間はてるてる坊主作りとなった。大学生四人が揃って何をしているのだろうとそんなことを思うが、なんだかそれが妙に三人らしくて、俺は自然と口元を緩めた。


 あれから結局雨は降り続いた。次の日も、そのまた次の日も、どんよりとした雲が空を覆う。

 彼女は毎日毎日てるてる坊主たちに手を合わせた。手を合わせる度「大丈夫。きっと明日は晴れるよ」と一切の迷いなく、澄み渡った空のような笑顔で俺に言った。

 そして、雨が降り続くこと約一週間。ついに七夕当日がやってきた。天気は朝から小雨と相変わらずの空模様だったが、予報によると雨は昼過ぎにはやみ、夜七時頃には月が見えるほど綺麗に晴れるとテレビで言っていた。どうやらてるてる坊主たちの効果……というより、彼女の祈りが天に届いたらしい。

 予報通り三限が終わる頃には雨はやみ、雲だけが空に残った。俺たちは予定通り講義を終えたあと、部室へ集合し揃って駅へ向かう。ちょうど下校時間ということで電車にはそれなりに人が乗っていた。俺たちは全員手すりに捕まり、目的の駅まで軽く雑談をしながら電車に揺られる。

「ねぇみんな、竹起き七夕祭のジンクス、知ってる?」

「ジンクス?」

 乗車してから二駅目を過ぎた辺りで西尾さんは俺たちにそう問いかけた。俺たちは首を横に振る。西尾さんはニコリと笑った。

「実はお祭りに行ったことある友達から聞いたんだけどね、七夕って短冊に願いごとを書いてそれを笹に飾るでしょ? なんでも竹起き通りの七夕祭には『その年のお祭り中に満月が見えたら書いた願いが必ず叶う』っていうジンクスがあるらしいわよ」

 西尾さんの話に二人とも「へぇ」と、声を漏らす。

「つまり七月七日の夜が満月で、しかも晴れて見えないとジンクスの効果が出ないんだね」

「そ!」

「満月か……。天の川の方がジンクスの条件に合ってそうなイメージだけどね」

 そう呟いた彼女に、俺も話を聞きながら同じことを思う。

「もしかしたらこの辺りの『明るさ』が原因かもね。ほら、星って都会だとよく見えないっていうし、それに七夕の夜に満月っていうのも中々珍しいから、そういう意味で天の川じゃなくて満月を条件にしてるのかもね」

「……なるほど」

「なるほど、さすが尚人くん!」

 彼の仮説がストンと胸に落ちる。

「はは、もしかしたらだけどね。ただ単に、満月に照らされた笹ってのも乙だし綺麗じゃないって感じだったりして。……それで、今日はどうだったの架凛? 架凛のことだから事前に今日の月の具合を調べた上で俺たちに話したんでしょ?」

「ふふ、もちろんよ」

 西尾さんは意気揚々と答える。

「今年の七夕はね、なんと、十五年ぶりの満月なのよ!」

「ほんと? すごーい! それじゃあ予報通りこのあと晴れたらもう万々歳だね」

「そうね」

「十五年ぶりでしかも久しぶりの晴れか……。これなら相当なお願いでも叶っちゃうかもね」

「今のうちにお願いごと考えておこうか。ほら、諫早くんも」

「……あ、うん」

 それから乗車中ずっと、俺たちは短冊に書く願いごとを考えた。あれがいいかな、これがいいかな。三人はいろいろと案を出し、厳選していく。俺は一つも書きたいことが浮かばなかった。健康祈願や単位の無事取得など、決して願うことがないわけではないが、なんだがどれもパッとしなかった。

 そうこうしているうちに電車はコゲラ駅へと到着した。他の乗客もこの駅で一斉に下りたので、どうやら混雑していた原因は時間帯だけではなかったようだ。

 駅の南口を出ると、そこにはもうすでにたくさんの人がお祭りに足を運んでいた。駅の入り口から街灯、植木に至るまで七夕をイメージする電飾や装飾、通りの両サイドには屋台や移動販売車が並び、一歩足を踏み入れただけでお祭りの規模が窺える。

 近くにあった案内板をみんなで覗く。

 なるほど。竹起き通りとは、広場から北へ向かったこの駅までの通り、東へ向かった住宅地への通り、南へ向かった竹や畑が広がる通り、そして西へ向かったビルなどが立ち並ぶ大通りの、この四方向に伸びた道を指すらしい。

 とりあえず広場へ向かってお祭りを見ていこうと俺たちは歩き出す。

 焼きそば、クレープ、わたあめ、クジに射的やお面……。いろんな屋台が等間隔で通りに構えている。

「あ、クレープ食べたいな」

「いいね、俺も食べよう。二人は?」

「私は大丈夫よ」

「……俺も」

「じゃあちょっと買ってきちゃうね」

 そう言って彼女と葛城さんは近くのクレープ屋さんへ歩いていく。二人を待つ間、俺と西尾さんは通行の邪魔にならないよう、傍へ逸れた。

「……」

「ふふっ」

「……どうしたの?」

 突然、西尾さんは俺を見て小さく笑い出す。

「いや、諫早ってこういうお祭り初めて?」

「……え、あ、うん」

「やっぱりね、ふふ」

 西尾さんは俺の返答に何か納得したようで、再び笑みを零す。一方で、俺はなおのこと西尾さんの返答の意味が分からなかった。その困惑が顔に出ていたのだろう。西尾さんは眉尻を下げ、やはり笑った。

「ごめんごめん。いや、諫早ってお祭りに行くイメージないなって思ってたけど、さっきからずっと周りを物珍しそうにキョロキョロしてたから、本当にないんだなって」

 ……そんなことしていたのか。どおりで西尾さんが笑い出すわけで、そんな滑稽な姿を晒していた自分が恥ずかしい。俺は思わず前髪を押さえつける。できることなら西尾さんには今すぐさっきの俺の痴態を忘れていただきたい。

 もしかしたらこれが今一番の俺の願いかもしれない。よかった、短冊に書くことが決まって。そんな的外れなことを思い始めていると、不意に西尾さんは俺の肩に手を置いた。

「初めてのお祭りなら一層楽しい思い出作らなきゃね。だから諫早も、気になったお店があったら遠慮なく言うのよ? ここのお祭り、南の通りだとマルシェも開かれてるみたいだから本当にいろんなお店があるわよ」

 そう言うと西尾さんはそのままポンポンと俺の肩を叩く。そのオレンジにどこにも嘲るような素振りはなく、ただ誰かを照らすような溌剌さが滲んでいた。

「……ありがとう」

「ふふ、お礼を言うことなんてないわよ」

 西尾さんはそっと俺の肩から手を退けた。

「……ついでに聞いてみるんだけど、諫早って物欲ある?」

「……そりゃありますよ」

「ほんと? なんか諫早って必要最低限の生活というか、あんまり娯楽とかにお金を使ってるイメージがないんだけど」

「……そんなことないよ。俺だって生活に必要なもの以外で買い物するよ。本とかよく買ってるし、今ほしいものだって、えっと……あ、傘、かな」

「傘?」

「……うん。この間長傘が壊れちゃって、今は予備の折りたたみ傘を使ってるんだけど……って、あれ、これも生活必需なのかな?」

「はは!」

 西尾さんは口元に手を当て、楽しそうに笑う。最近思うことなのだが、西尾さんの笑いのツボはどうにも浅いらしい。……いや、浅いといえば葛城さんも負けていない気がするが。

「二人ともお待たせー……って、はは、なんだかご機嫌だね、架凛」

「楽しそうだね架凛ちゃん。何かあったの?」

 クレープを片手に戻ってきた二人は、今も楽しそうに笑う西尾さんを見て笑みを浮かべる。

「ふふ、なんでもないわよ。それで、クレープはどう?」

「それがね、二人とも見てみて」

 そう言うと、彼女は手元のクレープを俺と西尾さんの前に出す。クレープには生クリームとカットされたバナナの他に星の形をしたチョコレートとアラザンが散りばめられ、なんとも七夕らしいデコレーションが施されていた。

「……綺麗だね」

「うん。美味しそうだし、見映えもいいわね」

「だよね。写真撮って文化祭の時紹介しよう!」

 その後も適宜カメラを構えながら、たこ焼きやかき氷など食べ物系を多めに回っていった。もう夕方だったのでみんなお腹が空いていたのかもしれない。

 いつの間にか俺たちは広場まで辿り着いていた。広場には数十本の大きな笹と、その笹には色とりどりの短冊たち。歩みを進めるにつれ薄ら薄ら見えていたそれらは、やはり近くで見ると壮観だった。道中、西尾さんが話していたが、なんでもこの大きな笹がこの町の特産品らしい。広場には他にも落し物センターや案内所など、主にお祭りを運営する人たちのテントが設けられ、どうやらここが立地的にもお祭り的にも中心部になっているようだ。

 三人は目の前の笹たちに目を見開き、笑みを零し、感嘆する。そのまま今日一番の七夕らしいその光景を写真に収めようとシャッターを切る。周りからも同じような音が幾度と聞こえ、彼らがどれくらい写真を撮ったのかは分からない。俺は一枚も撮らなかった。

 短冊は帰り際に書くことにした。短冊を受け付けているテントにあまりにも人が並んでいたためと、満月の下で願えることを期待して。

 そのあと、東通り、西通り、南通りの順で俺たちはお祭りを見回った。東通りではお店以外にもマジックや大道芸が行われ、俺たちはジャグリング棒とけん玉を合わせ扱うピエロ姿の彼から驚きと感興をもらい、拍手とちょっとしたチップをもって彼に返した。西通りの端には近くの幼稚園の子たちが描いたという彦星と織姫の絵が飾られていた。その絵を見て、なぜか彼女のてるてる坊主を思い出したのは秘密だ。

 南通りで開催されているマルシェで、俺たちは一度解散することにした。帰宅していいということではなく、みんな自由に友人や家族や自分用のお土産を買うための一時的な解散だ。買い物を終えたらモニュメントクロックの下に集合とのことで、三人とも思うまま気になるお店へ歩いていく。解散する前、西尾さんはポンポンと俺の肩を叩いた。その顔には見たことのある笑みが浮かんでいた。

 三人の後ろ姿を見送ったあと、俺も近場から順に商品を見て回る。マルシェというのを俺はよく知らないが、この場においては普通に市販で売られているようなものや、店主が手作りしたものなど、多種多様な商品が並ぶ場所だと、俺は理解した。

 手作りのクッキーやスコーン、アクセサリーやちょっとしたインテリア。一通り回ったが、生憎、傘を売っているところはなかった。俺は押し花でできた栞を一つ買って、集合場所へ戻った。三人はまだ誰もいなかった。

「……はぁ」

 俺は近くのベンチに腰を下ろし息を吐く。ここのお祭りは広場を中心に十字と道が伸びているため、通りの端まで行き着いては来た道を折り返して広場へ戻り、そこからまた違う通りを端まで歩いては折り返すという、お祭りの全部を見て回るにはなかなかに距離がある。

 ここまで頑張って俺を運んでくれた足はズキズキと痛みを発する。俺はそれを揉んだり摩ったりして労った。

 足の痛みが少し引いたあと、今度は目の奥の痛みに気がついた。ジワジワと痛むそれは、あの時と同じ痛みだ。

 俺は視線を上げる。前髪の隙間から見ても周りがキラキラしているのが分かる。それは辺りを照らす街灯と電飾の光であり、それはここにいる人たちの期待や興奮で染まった光。視界に映るのは、まるで天の川の中にいるのではと錯覚してしまうほど、そんな鮮やかな世界で、ふと、俺はこの場所に溶け込めているかと不安になる。

 俺は、空を見上げる。空はまだ雲に覆われ、満月や星々を深く深く隠している。今までと同じ、何もない空だ。

 そのまま俺は目を瞑った。あの光を見ないように、この現実から目を背けるように。パスポートを持っていない俺は、いつ誰かに怪しまれないかとビクビクする。

 視界を奪われた体はやけに周りの音を拾った。ずっと流れているお祭りらしいBGMに、時々流れる迷子の案内。無数の笑い声に小さい子のはしゃぎ声、お客さんを呼ぶ声に、誰かのすすり泣くような声……。

 俺は勢いよくベンチから立ち上がり、目を見開く。周りはさっきとなんら変わらない人通りで、泣いてる人影はどこにも見当たらない。あの声も、もう聞こえなくなった。

 聞き間違い、勘違い……だったろうか? まぁこんな楽しげな空間で泣いている人などそういないだろう。俺はもう一度ベンチに座ろうとした……その時だった。

「……いた」

 見つけた。一人だけ、暗く沈んだ色を。

 そこには年端もいかない少年が一人、項垂れながら人の中を歩いていた。

 どうしたのだろう。近くに親がいる様子もない。迷子だろうか?

 俺は咄嗟に少年に手を伸ばそうとする。けれど、俺はそれを意図して制した。俺は、自分が無力人間だと、よく知っている。項垂れる少年に、悲しみを纏った少年に、俺ができることは何もない。中途半端に声をかけ何もできずに終わるなら、他の誰かが少年に手を差し伸べてくれるのを待つ方が少年にとっても、俺にとってもいいだろう。そう思い、俺はベンチに座り直し、目の前を通り過ぎようとする少年を、無視する…………ことができなかった。

「……あ、あの、僕?」

 気づいた時には俺は少年に駆け寄り、声をかけていた。何もできないと分かっていても、それでも、その少年を見つけてしまった俺には、放っておくことができなかった。

「……なんですか」

 少年は振り返り、俺の呼びかけに応えてくれる。その目には、今にも溢れ出そうなほどの涙が溜まっていた。

「……あ」

 少年のその姿に言葉が詰まる。『大丈夫?』『どうしたの?』『お父さんやお母さんは?』頭の中で言うべき言葉たちはぐるぐると回るだけで、どうしてか一言も口から出てこない。……あぁ、こんな時でも口下手な自分が嫌になる。

 俺と少年の間に沈黙が下りる。俺は焦りと呆れからその沈黙に飲まれそうになる。

 そんな中、沈黙を解いたのは、聞き覚えのある声だった。

「……諫早くん?」

「…………加賀、さん」

 声の方へ振り向くと、そこには買い物をしているはずの彼女がいた。彼女は目を丸くしてこちらを見ている。

 どうしてここに? もう買い物は終えたの? 俺は突然の彼女の登場にそんな突拍子もないことを思う。すると彼女は俺と少年の異様な状況を察したのか、そのままこちらへと歩み寄り、少年の目線に合わせて膝を折る。

「こんばんは。どうしたの? お父さんやお母さんとはぐれちゃったのかな?」

 彼女はいつもの笑顔を少年に向け、優しい声色で訊ねた。少年は首を横に振る。

「じゃあどうしたのかな? よかったらお姉ちゃんたちに教えてくれる?」

 再度彼女が訊ねると少年はシャツの裾をぎゅっと掴み、鼻を啜った。

「……お、お母さんが入院してて、ほんとうは一緒にお祭りに行けるはずだったけど、行けなくなって。だからぼく、一人でここに来て、お母さんのお願いごと、届けにきたの。だけど、お母さんの短冊、どこかに落としちゃって、どこを探しても全然見つからなくて……」

 話し終える頃には少年の目に溜まっていた涙は頰を伝い、ポタポタと零れ落ちていた。止まらない涙を必死に止めようと、少年は手で目元を擦る。そんな少年に彼女はそっと手を伸ばし、少年の手に触れた。

「擦ったら腫れちゃうよ。ちょっと待ってね」

 そう言って彼女はカバンの中からポケットティッシュを取り出すと、少年の目元に数枚ティッシュを当てがう。その間も「大丈夫だよ」「お母さんのためにえらいね」と、少年が落ち着くように彼女は声をかけた。そんな彼女の優しさに少年の涙も次第に止まっていく。悲しみを含み暗く沈んでいた緑が、少しだけ彩度を上げた。

 あぁ、彼女が来てくれて本当に良かった。俺だけだったら少年を宥めることも、もしかしたら話を聞くことさえ、かなわなかったかもしれない。やはり、彼女はすごい。

「……大丈夫?」

 俺は彼女に倣って少年の前に膝を折る。少年は少し赤くなってしまった目をこちらへ向けると「うん」と、答えてくれた。涙はもう完全に止まったようで安堵する。

「……よかった。じゃあ行こっか」

「え、どこに?」

 少年の目が少し見開く。そのキョトンとした表情に俺は、

「……もちろん、お母さんの短冊を探しに」

 と、そっと少年の前に右手を差し出した。

 きっと、このあとも少年は一人短冊を探すのだろう。そして、俺は買い物中のみんなをただ待っているだけ。なら一緒に探さない理由はないし、元からそのつもりだ。

 すると、少年は初めて笑った顔を見せてくれる。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 俺の右手に少年の小さな手が乗る。少年の緑は再び彩度を上げ、俺はそこで彼の色が緑ではなく「黄緑」だったことに気づく。きっと、本来ならもっと鮮やかな色をしているのだろう。

 俺は少年の手を取ってゆっくりと立ち上がる。

「諫早くん」

 彼女の声が真っ直ぐと俺の耳に届く。振り向くと、どうやら彼女も一緒に立ち上がっていたようだ。

 彼女はなぜか嬉しそうな顔をしている。そしてその顔を一瞬でニコリと変えると、

「私も一緒に探すよ」

 そう言って、彼女は俺の手を握る少年の反対側の手を優しく取る。

「……いいの?」

「もちろん。さ、行こっか」

「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」

 前に歩み出す彼女に、少年の手を伝って俺も一歩前へ踏み出す。繋がった小さな手は、さっきよりも少しだけ力が入っていた。


 俺たちはとりあえず、広場に設けられている落し物センターへ向かうことにした。

 しかし短冊は広場のあの大きな笹たち以外にも通りやお店の装飾など、お祭りの至るところで飾られている。広場へ向かう道中でも風に飛ばされ落ちたであろう短冊をいくつも見かけ、そんな状況で短冊が誰かの落し物など誰も思うはずもなく、届けられた短冊は一枚もなかった。

 となると、やはり自分たちの手で探すしか他にないだろう。俺たちは少年……もとい「ニチカ」くん(さっき彼女が訊いた)が通った道をしらみ潰しに探すことにした。

 最初に広場から住宅地へ繋がる東通りを俺たちは探す。……そういえば、短冊を探す上で訊かなくてはいけないことがあった。

「……ねぇニチカくん。短冊にこれがお母さんの短冊って僕たちにも分かる特徴、何かあるかな。例えば書いてある内容とか」

 今も見る通り、短冊はこのお祭りの至るところに飾られ、落ちている。基本的に装飾の短冊には何も書かれていないようだが、仮に願いの書かれた短冊が落ちていたとき、それを一つ一つニチカくんに確認してもらい、そのたびに期待と落胆をさせるのは忍びない。そんな場面を極力回避するためにも、やはり特徴を知っておくに越したことはない。

 ニチカくんはお母さんの短冊を思い出すように、ふっと小さな手のひらを見る。

「えっと、なんて書いてあるかは読めない漢字があって分からなかったけど、お星さまのシールが貼ってあるよ。これと同じやつ」

 そう言ってニチカくんはズボンのポケットから何やら水色の紙を取り出し、それを俺たちに見せてくれる。それは少しクシャクシャになった短冊で、ニチカくんが書いたであろう願いごとのその下に、ちょこんと星型のシールが貼られていた。

「わぁ、光に反射してキラキラしてる。じゃあこのお星さまを頼りに短冊を探せばいいね」

「うん!」

 そうして俺たちは星のシールを目印に短冊を探し出す。道の脇や屋台の裏、ベンチの下に植え込みの中まで、目ぼしい場所を三人で見る。しかし十分、二十分と探しても、東通りから今度南通りを探しても、あの星のシールの付いた短冊は見つからない。

 せめて書いてある内容さえ分かれば、代筆して、ニチカくんの短冊と一緒に飾ることができるのだが……と、そんなことを考えてみたが、きっとそんなことをしてもニチカくんが心から喜ぶことはないだろう。今も一生懸命に『お母さんの短冊』を探すニチカくんの姿が目に入る。

「…………」

「諫早くんどうしたの?」

 呆けている俺に彼女が声をかける。

「……ううん、なんでもないよ。……もしかしたら植木に引っかかってるかもしれないから、上も見てみるね」

「うん、じゃあ下は私たちにまかせて」

「まかせて!」

「……うん」

 その後も捜索を続けるが短冊はどこにも見つからず、とうとう南通りの端、街灯の明かりも届きにくい場所まで俺たちは来てしまった。

「やっぱり見つからないかな……」

 ずっと動かし続けてきた手を止め、ニチカくんは俯き、ポツリと呟く。

「なんで、なんで失くしちゃったんだろう……」

 優しい黄緑に再びどこからか暗闇が押し寄せる。動きを止めた小さな手にぎゅっと力が込められる。それはまるで、込み上がる悲痛と後悔を自分の中で必死に抑えているようだ。

「……ニチカくん」

 俯く小さな頭に、ふと俺は手を伸ばす。そっと触れると飴玉のような目が俺に向いた。

「……大丈夫だよ。絶対、絶対に見つかるから、ね」

 俺は柔らかい髪を数回、ゆっくりと撫でる。

 こんなに探して見つからない現状でそんな言葉、きっとでまかせにしかならないかもしれない。けれど俺はいつの間にかどこか自信を持ってそう言った。……だって、こんなにも母親を思う優しい子に悲しみは似合わない。

 ニチカくんは零れてしまいそうなほど大きく目を見開く。そしてその目は、徐々に目尻を下げていった。

「ふふ、お兄ちゃん、なんだかお母さんみたい」

 俺はなんと返したらいいか分からなかった。ただあどけなく笑うその表情に、もう一度だけ髪を撫でた。

「ふふ、いいね諫早くん。ニチカくん、じゃあ私は?」

「お姉ちゃんはお姉ちゃん!」

「ははっ、そっか、お姉ちゃんか」

 いつの間にかニチカくんの表情だけでなく、空も明るく染まる。予報通り、薄暗く空を覆っていた雲はどこかへと消え去り、空高く浮かぶ満月はようやく主役のお出ましだと言わんばかりに輝きを放つ。きっとあの笹たちと一緒に映る光景はより美しいのだろう。俺は葛城さんの言っていたもう一つの仮説を思い出し、そちらの説もありだなと思う。

「……あ」

 少し満月に見入っていると隣で彼女がそう呟く。そのまま「ねぇ諫早くん、あそこ、何か光ってない?」と指差す彼女に、俺は指先を見やる。確かに小さく光る何かが草むらの間から見えた。

 俺たちはその場所へ向かい、草むらを覗いてみる。すると……、

「あった! あったよ!」

 ニチカくんは勢いよく何かを拾い上げ、俺たちに見せる。その手にはキラキラと光るニチカくんとお揃いのシールが貼られた、ずっと探し続けたお母さんの短冊がしっかりと握られていた。

 なるほど。さっき光っていたのは月の光に反射したこのシールだったらしい。

「やった! 見つかってよかったね」

「うん! ありがとうお兄ちゃん、お姉ちゃん!」

 ニチカくんの目に涙が浮かぶ。けれど、その涙にもう悲しみは帯びていない。雨上がり、新緑に残った雨粒が太陽に照らされているような、そんな綺麗な雫だった。

「……どういたしまして」


 二枚の短冊を持って俺たちは広場へ戻る。毎年この辺りの笹に飾っているのだと、俺はニチカくんから短冊を二枚受け取ると、できるだけ高い位置にそれらを飾りつけた。

「お母さんのお願い、叶うかな……」

 小さな背丈からではだいぶ高い位置にある短冊を見上げながら、ニチカくんはポツリとそう呟く。淡い黄緑が一瞬霞んだのが見え、俺はもう一度短冊に目を移す。

 他の短冊に比べ少し歪なお揃いの短冊は、ゆったりと風に揺れている。その一緒に揺れる姿はまるで、二人手を繋いで歩いているよう。

「……きっと叶うよ。お母さんのお願いも、『仁親』くんのお願いも、ね」

 俺は視線を左下に向ける。するとあの満月にも負けないくらい眩しく笑う笑顔と、キラキラ光る黄緑が目に入った。

 それから仁親くんに聞いたお父さんの電話番号に連絡し、事情を説明して、広場まで迎えに来てもらうことにした。電話をかけ、ものの数分で仁親くんのお父さんは現れた。なんでもお祭りに行ってくると言いなかなか帰ってこない息子をもう近くまで迎えに来ていたらしい。

 お父さんは俺たちに何度も頭を下げた。そのあと仁親くんに一言二言言うと、仁親くんは嬉しそうに笑った。その笑顔に釣られ、お父さんも笑った。

 お父さんと手を繋いで帰る仁親くんは、逆の手で俺たちに手を振った。俺たちも二人の後ろ姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

「……ありがとう、加賀さん」

「え?」

 二人の帰路をずっと微笑ましそうに眺めていた彼女は、ふっと俺を見る。

 彼女と一瞬目が合い、今度は俺が二人の帰路に目を向けた。

「……俺だけだったら絶対、笑って帰してあげることなんてできなかったから」

 俺だけだったら絶対、何もできず終わっていた。

 きっと自分の無力さに、半端に声をかけた無責任さに後悔していた。

 あの笑顔を見ることができたのは、間違いなく彼女がいてくれたおかげだ。

「……手伝ってくれて、ありがとう」

 到底言葉だけでは言い表せない感謝を、それでも俺は言葉にして彼女に送る。

 俺は彼女を窺う。彼女は目を細め、口角を緩やかに上げて、俺を見ていた。彼女の笑顔は種類が豊富だ。

「諫早くんは、…………ね」

 ふと、彼女は何か小さく呟く。けれど彼女がなんと言ったのか聞き取ることはできなかった。俺の名前を口にしていた気がするが……。

 視線だけでなく顔も彼女へ振り向く。すると彼女は「なんでもないよ」と笑った。

 相変わらず彼女はよく分からない。スペアキーをくれた時も、てるてる坊主を作ろうと言い出した時も、そして嬉しそうに何かを呟いた今も。

 俺が彼女を理解できる日はくるのだろうか? ……いや、理解するなんて烏滸がましい、かな。仮に時間を共有することで彼女を理解できるとしても、この仮入部期間中で俺はきっと彼女の千分の一も理解することはできないだろう。それくらい彼女には俺にないものがあり過ぎる。

「って、諫早くん! そろそろ私たちも戻らないと!」

「……あ」

 焦る彼女の声に俺は我に返り、そしていつの間にか抜け落ちていた現状を思い出す。

 そうだ、俺たちは四人でお祭りに来ていて、今は各自買い物をするために設けられた時間。慌てて腕時計を見ると、解散してから優に四十分が経過していた。

 俺たちは急いで集合場所であるモニュメントクロックへ向かう。そこには当然に、葛城さんと西尾さんの姿があった。

「架凛ちゃん! 尚人くん! 遅くなってごめんね!」

「……ご、ごめんなさい」

 息を切らしながら彼女と俺は二人に駆け寄る。

「お、二人も来たね」

「おかえり。大丈夫、私たちも今来たところだから」

 葛城さんと西尾さんはあっけらかんと答える。あれから四十分も経つのに今来たところ? 流石に社交辞令が過ぎないかと思うと、俺は西尾さんの両腕に大量の袋がかかっているのが目に入った。

「架凛ちゃん、いっぱい買ったね」

 彼女もその袋の多さに気づき、少し唖然としながら言う。

「あぁこれね。妹と家の分のお土産を買い終わったあと、またちょっとお店を見て回ってたらつい、ね」

「はは、架凛てばお店の人が出してくれる試食、片っ端から食べていってね。気づいた時にはこんなに買ってたんだよ」

「だ、だって全部美味しかったのよ。仕方ないじゃない!」

 ムッと顔を顰める西尾さんに彼女が「まぁまぁ架凛ちゃん」と、宥める。葛城さんはニコニコしていた。

「ごめんごめん。そうだ、俺フィナンシェ買ったからみんなで食べよう」

「ナオがフィナンシェなんて珍しいわね?」

 一瞬で機嫌の戻った西尾さんが葛城さんにそう訊ねる。

「実はこの間、諫早が持ってきてくれたのでハマっちゃってね」

「確かに美味しかったよね。ありがとう尚人くん」

「……ありがとう」

 買い物も終えた俺たちは、帰る前に短冊を受け付けているあのテントへと足を運ぶ。無事満月の下で人集りのなくなったテントに入ると、俺たちはスタッフの人から色違いの短冊を四つもらい、テントの奥に設置された長机の前に立つ。

 さて、何を書こうか……とはならなかった。あの忌まわしい記憶を忘れてもらう、という願いではない。いや、今でも願っていることではあるが、俺はそれとは違う願いを机の上に用意されたペンを使い、すらすらと黄緑色の短冊へ綴っていく。

「……よし」

「お、諫早も書けた?」

「……うん」

「私も書けたわよ」

 そう言って、西尾さんは黄色の短冊を俺たちに見せてくれる。

「『失くしたピアスが見つかりますように』……って、なんかすごく実用的というか、せっかくジンクス効果もあるのにそれでいいの?」

「いいのよ、あれお気に入りだったんだから」

「大丈夫だよ架凛ちゃん。そのお願いは探し物が得意な諫早くんが叶えてくれるから」

「……ちょ、加賀さん? 別にあれは俺が見つけたわけじゃ」

「そうなの? よろしくね諫早!」

「…………」

「ナオはなんて書いたの?」

「俺は『これからも楽しく過ごせますように』って」

「はは、尚人くんらしいね」

「諫早は?」

「……俺は、…………秘密だよ」

「えー秘密って言われると気になるな」

「ほんとね」

 そう言う割に短冊を覗き込んだりしないのが彼らの人の良さだろう。俺はそれに甘え「じゃあ飾ってくるね」と、先にテントを出る。向かうは『あの笹』だ。

 あの時、仁親くんに言ったあの言葉は適当に言ったわけではなく、またどこか自信を持って出た言葉だった。けれど俺はそれを確信にするため、今一番俺が願うことを二つの短冊の下に飾る。

 ……これでよし。


『お母さんが元気になりますように にちか』

『仁親がこの先も健康で、幸せでありますように』


『二人の願いが叶いますように』

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