触れたあと

 仮入部をしてから数日。意外にもその毎日は、俺を著しく脅かすものではなかった。

 相変わらず例の裏庭で目の前の新緑を眺めては彼女と一緒に昼食をとったり、他愛もない話を聞いたり。サークルの方も常に賑やかというわけではないらしく、課題を進めたり、会話を楽しんだり、本を読んだりと、各々好きなことをして時間を過ごしている。

 決して苦なわけではないその空間に、けれど俺はまだ慣れることができず、放課後になるといつも裏庭で今日は部室に赴くか否や迷ってしまう。まぁ結局「部室に行こう、諫早くん」と、わざわざ迎えにきてくれる彼女に連れていかれるのが常なのだが。

「諫早くん」

 本日もまた彼女は飽きもせず俺を迎えにやってくる。聞いた話によると、学校側に提出してある写真同好会の本来の活動日は月、水、金の三曜日らしく、今日のような火曜日は活動しなくても、なんなら迎えにきてくれなくてもいいと思うが、活動するのは彼らの自由だし、わざわざ来てくれた彼女を追い返す理由もないので俺は導かれるまま今日も彼女の後ろを付いていく。

 もう腕を掴まれたりすることはなくなった。

 部室に入るとすでに葛城さんと西尾さんが自席に着き、彼女が来るのを待っていた。

「お、来たわね。お疲れ」

「おつかれー。色葉、諫早」

「お疲れさま」

「……お疲れ様、です」

 俺と彼女は鞄を机の傍に掛け、席に着く。いつもならここで本を取り出すところだが、部室に入ってからというもの三人から幾度とウキウキとした色が垣間見え、俺は大人しくこれから始まる何かを待つことにした。どうやら今日はイベント日らしい。

「よし、みんな揃ったわね。それじゃあミーティングを始めましょ」

 西尾さんの号令に彼女と葛城さんが「はーい」と返事をする。一方で俺はキョトンと三人を眺めると、それに気づいた西尾さんは「……とその前に、諫早は初めてだったわね」と、これから始まる『ミーティング』について説明をしてくれる。

「前に話した通り、うちの主なサークル活動は『月に一回、その季節に合った写真を撮りに出かける』っていうことだけど、来月の活動について今日みたいな月末にいつも話し合いをしてるの。だから今から始めるのは六月の活動を決めるミーティングね。ま、今回は例外で、もう私達があらかた内容を決めちゃってるから話し合うことも少ないんだけど、諫早も何か意見があったら遠慮なく言ってね」

 西尾さんの説明に俺は理解の意を込め、一つ頷く。

 正直なところ、例の花火大会と日常的活動さえ参加すれば後のことは免れないかと少しだけ期待をしていたが、どうもそういうわけにはいかないらしい。仮入部期間中全ての活動に俺も参加することを三人が前提としているのなら、まぁそれに従うのが道理だろう。

 前説も滞りなく済み、西尾さんは改めて話を進める。……その瞬間、なぜか西尾さんから……いや、西尾さんからだけでなく、他二人からも垣間見えていた色が表立って姿を現す。

「それじゃあ今回の活動だけど、みんなで『旅行』に行きましょう! 親睦会を兼ねて来週の土日、一泊二日で!」

「……え?」

「いえーい」

「わーい!」

 西尾さんの発表に二人から待ってましたと言わんばかりの喝采が上がる。……なるほど、三人がウキウキしていた要因はこれだったらしい。

 俺は再び一人キョトンとする。……いや、ギョッとするの方が正しい表現かもしれない。

「…………旅行、ですか?」

 俺は聞き間違いを期待して西尾さんに問う。しかし、

「そうよ」

 西尾さんは眩しい笑顔と共に呆気なく俺の期待を打ち壊した。いや、今回ばかりはそんな恐ろしく、悍ましいこと、へいへいと聞き入れてはいけない。俺はここで流されるわけにはいかない。

 意見があれば遠慮なくとさっき西尾さんに言われたことも思い出し、俺は食い下がる。

「……えっと、わざわざ数ヶ月しかいないのに親睦会なんて、そんなことしてもらわなくても大丈夫ですよ。そ、それに、来週に決行は流石に急だと思いますし、旅行だと季節ごとに関係なくなっちゃうんじゃない、かな……」

 すると、そんな俺の反論に前の席の二人が机から身を乗り出す。

「なにそんな寂しいこと言ってるの諫早!」

「そうだよ諫早くん! せっかく入部してくれたんだからみんなで楽しい思い出作らなきゃ!」

 なぜかご立腹な二人の圧に押され、俺は何も言い返せないまま顔が強張る。ちなみに、入部じゃなくて『仮』入部です、加賀さん。

「ははは、まぁまぁ二人とも落ち着いて」

 やはり間に入ってくれたのは葛城さんだった。葛城さんは二人を宥めてくれたあと、ふっと俺の方を見る。

「諫早もそんなこと言わずに、ね? 確かに急な話だけど、そこは俺たちが責任を持ってどうにかするから安心して。それに、活動内容のことなら大丈夫だよ。この時期の観光地やイベントを特集した雑誌をいろいろ持ってきたから、今からみんなで決めて六月の活動に合った楽しい親睦旅行にしよう」

「…………」

 あまりにも穏やかに話を進める彼に、俺はまた二人とは違うプレッシャーを感じ取る。そして、なんとも異論を呈しにくいこの雰囲気……。俺は穏やかさというのも時として武器になり得ることを、今彼から学んだ。

「…………そう、ですね」

 返答に少々ため息が混じってしまったことは、どうか許してほしい。

 やはり押し負けてしまう敗因は自分の方にあるのかもしれないと、そんな疑念が俺の頭を過った。三人は旅行の確定に喜色を浮かべる。

「よし、決まりね! じゃあ次に、行き先と何をするかだけど……」

 そこからは葛城さんが用意してくれた雑誌やスマホを駆使しながら旅行の内容を決めていった。できれば室内で事済む、あまり人の多くない、アクティブじゃないもの、っと心の中で願ったが、無事旅行中のイベントは「ラフティング」と「バーベキュー」に決まった。


 とりあえず今日のミーティングはこれで終了ということで、宿泊先や詳しい日程はまた後日決めることとなった。俺は最後にもう一度大きくため息をつき、机の傍に掛けた鞄を取る。

「あ、諫早今日はもう帰り?」

 椅子から立ち上がる俺に、葛城さんが訊ねる。

「……うん。ルーズリーフを切らしたから、途中本屋さんに寄って帰ろうと思って」

 正直、今日の活動にだいぶ疲弊したため買い物は明日学校に行く前でもいいかと思ったが、どうせ寄ろうとしている本屋さんは帰り道。電車に乗る前にちょっと隣の駅ビルに立ち寄ればいいだけなので、予定通り早めの帰り支度を整える。必要なことは早々に済ませてしまおう。

「あ、諫早くん」

 俺が鞄を肩に掛け椅子を机の中にしまった時、彼女は唐突に俺を呼んだ。俺は椅子の背を持ったまま、前の席に座る彼女を覗く。

「私も一緒に行っていいかな? 私もノートを買いに行こうと思ってたの」

 見上げる彼女に俺は「……別にいいけど」と、返す。すると彼女は「ありがとう」と微笑み、手早く荷物をまとめ、椅子から立ち上がった。

「おまたせ諫早くん。じゃあ架凛ちゃん、尚人くん、お疲れさま。また明日ね」

「お疲れ、また明日ね」

「おつかれー。二人とも気をつけてね」

「……お疲れ様でした」

 三人が手を振り合うのを俺は会釈して部室を出る。そのまま彼女と正門への道を歩いていると、ふと思った。

「……あの、加賀さんって確か、電車通学、じゃなかったよね?」

 俺の突然の質問に隣を歩く彼女は「え?」と、少し驚いた表情を見せる。けれど、すぐさまいつも通りの笑顔を見せ「そうだよ」と、答えてくれた。

「私の実家、ここから結構遠くてね。学校の近くのアパートで一人暮らししてるの。正門から南に真っ直ぐ進んだ、郵便局の隣のアパートだよ」

 特にそこまで訊いた覚えはなかったが、彼女の必要以上の情報から俺はあることに気づく。

 彼女の家は学校から見て「南」に位置し、今俺が向かおうとしている駅ビルは学校から見て「東」に位置する。つまり、このまま駅ビルへ向かってしまうと彼女には遠回りとなってしまう。

 俺は正門へ向かう足をそのままに、空を見上げる。五月も末となった午後五時過ぎ現在。太陽はまだ空に留まり、あと一時間は沈むことはないだろう。きっと彼女が家に着く頃もギリギリまだ明るいはずだ。

「……そっか」

 俺は視線を戻し、真っ直ぐ前を見る。彼女は隣で一人暮らしの内事情を話し出した。学校からアパートの間にコンビニがないため、晩ごはんを作るのが億劫な日は構内のストアでお弁当を買って帰っているのだとか、たまに葛城さんと西尾さんが買い出しを手伝ってくれるのだとか……。

 そうして正門まで辿り着くと俺は車が来ていないことを確認し、目の前の横断歩道を渡る。彼女は軽快なトークを止めた。

「あれ、諫早くん。本屋さんて駅ビルの中にあるのじゃないの?」

 後ろから彼女の声が飛んでくる。

 俺は横断歩道を渡り終えてから後ろを振り向く。彼女はキョトンと横断歩道の前に立ち、俺から見て右側、駅の方向を指差していた。

「……うん、商店街にある本屋さんに寄ろうと思ってる」

「商店街って、ここから真っ直ぐ行った先の?」

「……そう。もしかして駅の方が良かった、かな?」

 横断歩道越しに彼女の大きな瞳が俺を射抜く。次第に小さく開いていた口は三日月へと変わっていった。

「ううん、そんなことないよ」

 彼女は左右を確認すると、跳ねるように横断歩道を渡る。彼女が渡り切ったところで俺は踵を返し、再び歩き出した。

「あそこの本屋さん、文房具の品揃えが豊富なんだよね! 私、よく学校が休みの日に行くんだけど、諫早くんは?」

「……まぁたまに、かな」

「……そっかぁ。あ、諫早くん。商店街のお肉屋さんのコロッケ食べたことある? とっても美味しくて私のオススメなの」

 彼女はまた隣で一人話し出す。「ここのおうちのワンちゃんがとっても可愛いんだよ」と青い屋根の綺麗な家を指差したり、「ここが私の住んでるアパートだよ!」と個人情報を露呈したり。俺は適度に相槌を打ちながら彼女の話を聞いた。なんだかラジオを聴いている気分だった。

 商店街に辿り着くと、時刻は絶賛退勤、下校時間ということでかなり賑わっていた。俺たちはそのまま目的の本屋さんへ直行し、両開きの自動ドアから店内へ入る。店内では今流行りのJポップと、途中新しくリリースされるのだという曲の広告が流れていた。

 俺は天井から下がっている案内板を確認し、「ノート類」と書かれたプレートを見つけ、それを目印に足を進める。彼女も俺の後ろを付いて歩いた。

 売り場に着くと確かに彼女がさっき言っていた通り、俺の背を超える棚の一番上から下までぎっしりと商品の並んだ、豊富な品揃えだった。俺は上から順に目で追って、いつも使っているサイズと枚数と紙質のルーズリーフを探す。目当ての商品はちょうど俺の膝ぐらいの位置に陳列されていた。

 俺は屈んでそこから二つ、商品を手に取る。さて、彼女の方も無事見つけることができただろうか。俺は左隣であるノートコーナを見る。すると、そこにいるはずの彼女はなぜか通路を挟んだ隣の棚の前でしゃがみ、何か商品を眺めていた。……ノートを買いにきたんじゃなかった、かな。

 とりあえず俺は彼女の元へ歩み寄る。彼女は俺に気づくと、しゃがんだままニコリと笑った。

「諫早くん、見てみて」

 俺は彼女に促されるまま隣にしゃがみ、彼女のいうものに目をやる。そこにはデフォルメされた動物のイラストや花の絵が描かれたデザインなど、様々な色、柄、形をしたレターセットが商品棚に連なっていた。

「懐かしいなってちょっと見入っちゃってね。小学生の時、よく友達とお手紙交換したんだ。学校で毎日会って話してるのに、私も友達も毎回三枚くらい便箋を使ってね。内容は本当に小さなことで『今日の体育のキックベース楽しかったね』とか、『明日のマラソン大会頑張ろうね』とかそれくらいだったんだけど、その何気ないやりとりが私は大好きでね。いつもワクワクしながら手紙を書いてたの」

 レターセットを見つめる彼女から懐旧の色が滲む。穏やかでじんわりと熱を感じるようなその色彩に、俺はそっと目を逸らす。

「……そう、なんだ」

「うん。諫早くんも小さい頃お手紙交換とかした?」

 彼女の問いに、俺は目の前の、真白なレターセットが無意識に目に入る。

「…………いや、俺は書いたことも貰ったこともないから」

 生憎、彼女のように人に語れるほどの思い出を俺は持ち合わせていない。もしかしたらこの何も描かれていない真白なレターセットでさえ、彼女には何か過去を彷彿とさせる懐かしいものとして映っているのかもしれないと、不意にそんなことを思った。

「……そっか」

 彼女は零すように呟くと、俺に向けていた視線を再び陳列されたレターセットへ戻す。きっと面白みのない返答にがっかりしたのだろう。口を噤んでしまった彼女に俺は少し申し訳ない気持ちになる。

 先に会計を済ませてこよう。俺は徐に彼女の隣を立つ。一応声をかけてからレジへ向かおうと思い、今もしゃがんでいる彼女に視線を向け口を開く。すると、彼女は俺が声を発するより先にそっとレターセットを一つ手に取り、そのまま柔らかい声色で言葉を紡いだ。

「……私ね、お手紙ってとても素敵な贈り物だと思うの。文字として相手の気持ちをずっと手元に残すことができるし、直接だとなかなか言えない気持ちも相手に届けることができる。それに、手紙をもらって何年が経っても、便箋の柄とか筆跡とか、内容以外でも手紙をくれた人の思いを感じることができるしね。それってとても素敵なことで、きっとこの先、手紙を受け取った人の宝物になると思うの。……だから、」

 ふと、俺を見上げた彼女と前髪越しに目が合った……気がした。

「諫早くんも気が向いたら、いつか誰かに自分の気持ちを送って、誰かから思い出をもらって。もしかしたら、それが相手にとって、諫早くんにとって宝物になるかもしれないから」

 紡ぎ終えた彼女は、ふっと柔らかく笑う。彼女のその温かな人柄が、表情と言葉と、うっすら灯るピンク色からも、俺に伝わってきた。

 彼女のこの人柄はどうやって形成されたものなのだろう。やはりこの色と同じで生まれ持ったものなのだろうか。

「……気が向いたら、ね」

 俺は彼女から目を逸らし、右手で前髪を押さえる。

「ありがとう諫早くん。……ふふ、こんな話をしてたら私の方こそ久しぶりにお手紙書きたくなってきちゃった。……そうだ」

 そう言うと、彼女はレターセットを元の場所に戻す。そして、

「ねぇ諫早くん」

「……なに?」

「あのね、この中で私がお手紙を書くなら、どのレターセットがいいと思う?」

 と、唐突で突飛な質問をしてきた。

「…………え、いや、加賀さんが差し出すんだから、加賀さんの好みで選ぶのが一番だと」

 俺は率直に答える。すると彼女は、

「いいんです! 私は諫早くんに選んでほしいんです!」

 と、俺を一蹴した。

 仕方なく俺は彼女の隣に再びしゃがみ、並ぶレターセットたちを順に流し見る。

「…………じゃあ、これ、かな」

 俺は一番の下の段に置かれたレターセットを一つ取り出し、それを恐る恐る彼女に差し出す。

 俺が彼女に選んだのは、桜の花びらのような薄いピンク色をベースにうっすらと小花の絵があしらわれた封筒、そして白地に封筒と同色の罫線が引かれた便箋が一緒になったレターセット。俺が受け取るわけじゃないけれど、なんとなく彼女からの手紙だと一目で分かる綺麗なデザインだと思い、選んだ。

「ありがとう、諫早くん。すごく綺麗なお手紙だね」

 そう言うと、彼女は嬉しそうにレターセットを受け取ってくれる。気に入ってくれたその様子に俺はホッと、息をついた。

 そのあと、本来の目的であったノートも一緒に俺たちは会計を済ませ、本屋さんを出る。帰り際「他に用はある?」と彼女に訊ねると、彼女は「晩ごはんのおかずも買って帰ろうかな」と答え、俺たちは例のお肉屋さんへ立ち寄ることにした。

 彼女が買い物をしている間、俺はお店の前で彼女を待つ。ほどなくしてビニール袋を持った彼女がお店から出てくると、「はい!」と袋の中から白い包みを取り出し、俺に差し出す。中身は言わずもがな彼女の絶賛するコロッケで、俺は「大丈夫だよ」と遠慮するが「美味しいから食べてみてほしい」と言われ、「ならお金を払うよ」と言うと、今度は彼女が「大丈夫だよ」と答え、結局、俺は彼女のご厚意に甘えることにした。

 帰りながら食べたコロッケはとても美味しかった。パクパクとあっという間に食べ尽くし、気づけば彼女のアパートの前まで着いていた。彼女は「今日はありがとう」と手を振った。俺は「こちらこそ」と返すと、なぜか彼女は小さく笑った。

 特に理由は聞かず、俺たちはそこで解散する。いつの間にか、太陽は地平線に沈んでいた。


 あれから交通手段の下調べや宿泊先、レジャー施設の予約に至るまで、全ての準備が順調に整った。三人は楽しみだねと口々に揃え、日に日に待ち遠しさを募らせる。一方で俺は日に日に緊張感が募っていった。

 せめて彼らの迷惑にならないよう努めよう。期待に満ちた三人を覗きながら、俺は小さく息を吐いた。

 そして、ついに旅行当日。集合場所は学校の最寄り駅である「ツバメ駅」の西口。そこに午前十時に集合ということで、俺は少し早めに大きめのショルダーバッグを背負って、家を出る。足取りが重いのはきっとこの荷物と、眩しいくらいに澄み渡った晴天のせいだろう。

 俺は自宅の最寄り駅から電車に乗り、ツバメ駅へ向かう。電車は時刻表ぴったりに俺を運んでくれた。

 改札を通り、西口に出る。電車の都合上、九時四十二分と早めに集合場所に到着し、俺は辺りを見回す。まだ誰も来ていないかと思ったが、西口を出たすぐ近くの時計台の下に見知った人影を見つけた。その人影は俺に気づくとスマホをしまい、こちらに手を振る。俺は彼の元へ歩いた。

「おはよう、諫早」

「…………おはよう、ございます」

 後ろの快晴とよく似合う笑顔の葛城さんと軽く挨拶を交わす。ほどなくして西尾さんと彼女も順々に時計台の下にやって来た。三人とも俺のものより大きいバッグを背負い、昨日までとはまた違った期待と興奮に満ちた色を浮かべている。その様子に俺は覚悟を決めるようゴクンと唾を飲んだ。

 無事全員が揃ったところで、俺たちは早速行きの電車が来る三番線ホームへと向かう。

「ようやく夏って感じになってきたね」

「ね! 日差しも強くなってきたし、やっぱりこれくらいの方が外で遊び甲斐があるわよね」

 西尾さんの言葉に、むしろ外に出たくないほどの天気では……と思ったが、他二人から同意を得られそうになかったので俺は口を噤む。別に、同意を得たかったわけでもないが。

 けれど、確かに昨日までの涼しい日々と打って変わって今日は夏らしい天気である。長袖姿が多かった周りの服装も、俺たちを含め、今日はほとんどの人が風通しのいい服装をしている。

「私、今日は念入りに日焼け止め塗ってきたよ!」

 俺たちはホームに辿り着く。彼女が両手でカッツポーズを作り謎のアピールをすると、「私もよ!」と西尾さんも同じポーズを作り、葛城さんはそれを見て笑う。

 俺はポーズを作った拍子に彼女の左腕で揺れた何かに目が止まった。よく見るとそれは、赤と白の紐で編まれたブレスレットのようなもので、なんというか、アクセサリーというには所々糸が解れ、あまり装飾という感じはしなかった。……いや、そういった類に無知な俺が勝手にどうこう思うのはよろしくない。大変不躾である。

 その後、三人が話に花を咲かせているうちに乗車予定の電車がホームに到着した。俺たちは二号車へ乗車し、四人掛けのボックス席に腰を下ろす。三回の乗り換えと、途中お昼休憩を挟み、ターミナル駅に着いてから今度はバスに乗り換える。計四時間もの移動の末、俺たちはようやく最初の目的地であるレジャー施設へ辿り着いた。

 目の前に広がる自然に俺は目を見張る。このレジャー施設はラフティングの他に、バーベキューや川釣りもできるという複合施設となっているらしく、今回俺たちは九十分のラフティングとそのあとにバーベキューが一緒になったコースで予約をしている。

 無事受付を済ませ、俺たちは最初にスタッフの方から体験をする上での注意や説明を受け、そのあと自分に合ったサイズのウェットスーツとジャケットに着替える。これですぐさま体験が始まるかと思いきや、ラフティングの出発点はここから車で十分のところにあるらしく、ガイドの人が車を回して来るとのことで俺たちは受付をした建物の前で待機する。その間、葛城さんは周りの景色を写真に収めたり、西尾さんは窓ガラスの反射を利用して髪を結び直したり、彼女と俺はぼうっと車を待ったり……。

「……それ、いいの?」

 俺は不意に彼女の左手首を指差し、言う。スーツの袖を直す彼女から、ちらりとあの赤と白が見えた。さっきの説明でアクセサリー類は流されたり壊れたりしてしまう恐れがあるため外した方がいいと言われたが、それは身に着けたままでいいのだろうか。

 すると彼女は「あぁ、これね」となんでもないように袖を捲り、紐を露わにする。

「大丈夫だよ、これミサンガだから」

「……ミサンガ?」

 彼女はニコリと笑うと俺の前に左腕を出し、ミサンガを見せる。

「そう。お願いごとを掛けた紐を手首とか体のどこかに結んで、自然に切れたらお願いが叶うっていう」

 彼女の話を聞いて、確かにそんな願掛けアイテムがあったなと思う。……そうか、アクセサリーというわけじゃなかったのか。余計なことをしてしまった。

「……そう、なんだ。ごめんね」

 彼女はを勢いよく首を横に振る。

「ううん! 諫早くん、失くしたら私が困ると思って言ってくれたんだよね。ありがとう」

 そう言うと、彼女は徐にミサンガへ視線を落とした。

「これね、おばあちゃんが編んでくれたものなの。私のために時間をかけて作ってくれてね、嬉しくて私、ずっと肌身離さず着けてたの。……けど、一度だけ失くしちゃったことがあって。どこを探しても全然見つからなくて、もう無理かなって諦めかけた時に優しい人が見つけて届けにきてくれたんだ。それからちょっと手を加えて今のこのミサンガにしたの。これならもう失くすこともないしね……」

 彼女はミサンガを見つめたまま、ふっと目を細める。

「せっかくだからお願いを掛けてるんだけど、正直、切れちゃうのは少し寂しいかなって。でも、叶ってほしいお願いなんだ」

 彼女は割れ物に触れるよう、そっと優しくミサンガを撫でる。どうやらそのミサンガには、彼女のいろんな思いも織り込まれているようだ。

「……きっと叶うよ」

 俺はありきたりな言葉を彼女にかける。

「ふふ、ありがとう諫早くん」

 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。

 プップーとクラクションの音が鳴る。振り向くと、運転席の窓を開けたガイドさんがこちらに手を振っていた。いつの間にか離れていた二人が俺と彼女の元へ歩み寄る。

「着いたみたいだね。それじゃあ行こうか」

 葛城さんの言葉に、二人は「おー!」と答える。その声は雲一つない青空に響いた。



「…………はぁ」

「はは、おつかれ諫早」

 受け取った鍵を回し、ドアを開ける。部屋に入った第一声、電気を点けて膝から崩れ落ちるように座った俺を葛城さんは笑ってバッグを床に下ろした。

 あれからラフティングとバーベキューを終えた俺たちは再びバスに乗って、予約していたこの宿へと辿り着いた。受付カウンターで無事チェックインを済ませ鍵を二つ受け取り、そのうちの一つを俺がもらってエレベーターに乗り、隣り合う一号室と二号室の二部屋に別れ、今に至る。

 宿は全体的に慎ましやかな印象を受ける造りだが、一階には大浴場とコンビニが併設され、なんといっても価格がリーズナブルという点から、西尾さんがこの宿を見つけ予約を取ってくれた。俺たちが今いる部屋は八畳ほどの和室に簡易な冷蔵庫とテーブルが一つずつ、トイレと浴室が一緒になったもので、学生が一泊するには十分だろう。

「諫早、俺、大浴場行ってくるけど、一緒にどう?」

 いつの間にかお風呂に入る準備を整えた葛城さんが訊ねる。俺は一瞬考え、「部屋のシャワーを使うよ」と答えた。正直、今大浴場まで体を動かせる自信がなかった。

「了解。じゃあ行ってくるね」

 葛城さんはそう言うと荷物を持って部屋を後にする。部屋の鍵は持っていかなかったようだ。

 俺も簡単にシャワーを浴びて早く休もう。そう思い立ち上がろうとするが、今日一日動き回った体は浴室までのこの短い距離でさえ億劫に思うほどヘトヘトに疲れ、一歩たりとも動かない。今回のような活動は、できればこれきりにしてもらおう……。

 葛城さんがいないのをいいことに、俺は畳の上に仰向けになる。ふと視界に入った天井の照明が日中の記憶をぼんやりと思い出させた。

 結果から言えば悪くなかった、と思う。晴れてくれたおかげで川の水も寒く感じなかったし、バーベキューも鮎や山菜など幅広い食材が用意され、その全部が美味しかった。三人もガイドさんの掛け声に合わせてパドルを上げたり、岩に登って川の中に飛び込んだり、美味しいごはんに舌鼓を打ったり、いろんな場面でシャッターを押したりと、終始楽しそうに笑っていた。

 俺はその様子を見て安堵した。邪魔にならなくてよかった。結局、これが今日一番の感想かもしれない。

 けれど、不意に思ってしまう。邪魔にはならなかったが、俺がいない方が三人はもっと楽しめたんじゃないか、と。

 あの時、太陽の光やその水面の反射にも負けないくらいキラキラと輝く三人の眩しさを見て、目を瞑りたくなる自分がいた。俺だけ場違いなところでにいるのではと、落ち着かなくなる自分がいた。三人との違いに勝手に落ち込む自分がいた。

 三人を見ていると、無性に目の奥が痛くなる。思い出して今もジワジワとくるこの痛みは、きっと照明を見過ぎたせいだろう。

「…………シャワー浴びよう」

 こぢんまりとした部屋の中に独り言が溶ける。その余韻がなくなった頃、俺はようやく体を起こした。


 シャワーを浴び終え浴室を出ると、葛城さんはまだ戻っていなかった。彼もまた疲れた体を癒しているのだろう。俺は特に気に留めず、静かな部屋の中、備え付けのドライヤーで髪を乾かす。すっかり持ってくるのを忘れていたため、助かった。

 さて、時刻は現在二十時を回るところ。今日の予定は全て完遂したため、今日はもうやることはない。俺は手持ち無沙汰から一つ息を吐く。

 いろいろ考えた結果、とりあえず俺は寝る準備を整えることにした。バッグの中から歯ブラシと歯磨き粉を取り出し、浴室内にある洗面台の前に立つ。このあとお茶くらいは買って飲むかもしれないが、まぁ今日はいいだろう。歯磨きを終え、今度は押入れの中から布団を二つ取り出し、床に敷く。布団の間は人二人分くらい空けた。

 準備も整ったところで俺はドア側に敷いた布団の上に座り、息をつく。再び訪れた手持ち無沙汰に今度はどうしようかと考える。このまま寝てしまってもいいが、流石に葛城さんが戻らないうちに一人休むのは気が引ける。下のコンビニで飲み物でも買ってこようかと思ったが、部屋を空け鍵をかけている間に葛城さんが戻ってきては大変なので、その考えも取り下げた。

 結局、俺は昨晩バッグの中に忍ばせておいた本の存在を思い出し、読書をすることにした。本当は移動中の暇つぶしにと持ってきていたのだが、車中、三人があまりにも忙しなく会話を繰り広げていたため、その出番はなくなってしまった。

 俺は布団の上で三角座りをし、栞を挟んだページを開いてペラリと本を読み進める。なんだか今日初めて落ち着いた時間を過ごしているような気がした。

 俺しかいない部屋の中に紙の擦れる音だけが静かに響く。ペラ、ペラ、ペラ……。その音が一体幾度鳴ったかは分からない。けれど大体読み始めてから十分、十五分が経った頃だろう。ドアが開く音と共に「ただいまー」と「お邪魔しまーす」という三つの声が飛んできた。

 俺は本を閉じ、声の方へ目をやる。視界には寝巻き姿の三人が映った。女性陣二人の手にはビニール袋がかかっている。

「あ、布団敷いといてくれたんだ。ありがとう諫早」

「……どういたしまして」

「へぇ、やっぱり私たちのところと間取りは同じなのね」

「ほんとだね」

 葛城さんは荷物をバッグの中へしまい、二人は持っていたビニール袋をテーブルの上に置く。そういえば、どうして隣の部屋の彼女たちがこの部屋に来ているのだろう。あまりに平然と現れたため、気づくのに遅れてしまった。

 俺は三人を順に見る。彼女と西尾さんはなぜか二つの布団の間にテーブルを移動させ、葛城さんはそれを笑って見守る。ふと、葛城さんと目が合った。彼は俺の心境を察したのか笑みを浮かべたまま、口を開く。

「実は部屋の前に着いた時、ちょうど二人が隣の部屋から出てきてね。『どこか行くの?』って訊いたら、俺たちの部屋に行こうとしてたって」

 続いて向かいの布団に座った西尾さんが口を開いた。

「せっかくの旅行なんだからここで寝ちゃったらもったいないでしょ? それに親睦会を兼ねてるんだから、もっとお互いを知れるようなことをすべきだと思うの。だから……」

 西尾さんはポケットから何かを取り出す。そしてそれを俺たちの間にあるテーブルの上に置いた。

「ジャーン! みんなでトランプ大会をしようと思います!」

「いえーい」と、目の前と後ろから歓声が上がる。葛城さんは俺と同じ布団の上、右隣に座った。

「それで、ただトランプをするんじゃなくて、一位の人が最下位の人に一つ質問をできるってルールにしましょ。みんなオッケー?」

 西尾さんの問いかけに二人は「オッケー」とすぐ答える。

 三人の目が一斉に俺に向いた。俺はその有無を言わせぬ視線に、小さく一つ頷いた。

「じゃあ始めましょ。あ、お菓子とか適当に買ってきたから、みんな好きにつまんでね」

 ガサゴソと彼女と西尾さんはテーブルの上のビニール袋を一度退け、改めて袋から取り出したお菓子や飲み物を並べる。

「これが私ので、これがナオの……。はい、これ諫早のね」

「……え、あ、はい」

 西尾さんが自然と差し出したペットボトルを、俺は少し戸惑いながら受け取る。中身は俺がよく飲んでいるお茶だった。

「……あ、お金」

「飲み物一本くらい大丈夫よ」

 そう言うと、西尾さんは彼女と一緒にお菓子の袋を開け始める。……今度、俺も何か差し入れしよう。

 お菓子の並んだ机を少し脇へ寄せ、いつもの席順に並んだ俺たちの間に切ったトランプを置いたら準備万端。時刻は二十一時過ぎ、トランプ大会の開幕である。

 最初に行ったのはババ抜きだった。切ったトランプを隣に座る葛城さんが一枚ずつ配り、配り終えた手札から数字のペアを捨てていく。全員準備が整ったところでじゃんけんをすると、俺から彼女、西尾さん、葛城さんと時計回りの順に手札を引いていく。

 白熱した試合の末、第一戦目の勝者は西尾さんだった。そして最後までジョーカーを持っていたのは葛城さん。

「それじゃあ私がナオに質問ね」

 西尾さんが悪い顔をして笑うと、葛城さんは引きつった笑みを浮かべる。

 一番最初の質問ということで、西尾さんの質問はこの後の指標となるだろう。俺は自分が訊かれるわけでないのに身構える。

「そうね。……ナオは小さい頃どんな子だった?」

 質問はさっきの怪しげな笑みとは裏腹に、案外当たり障りのないものだった。俺は安堵し、力を抜く。

「……そうだね。昔から体を動かすのが好きで、ずっと友達と外で遊ぶような子だったかな」

「はは、容易に想像つくわね」

「それじゃあサッカーは昔から?」

「うん。小学生の時は家の近くのクラブでやってて、そのあと中学と高校は部活で」

 葛城さんはすんなりと質問に答える。

 なるほど。俺が以前彼に抱いた爽やかスポーツ青年という第一印象は、事実間違っていなかったらしい。チームメイトと一緒にグラウンドを駆ける彼の姿は想像に容易かった。

「じゃあ次のゲームね」

 第二戦目も続けてババ抜き。トランプを切ってくれた葛城さんから時計回りに進めると、またもや勝者は西尾さんで、今回の敗者は俺だった。

「じゃあここはシンプルにプロフィールを訊きましょう。誕生日とか血液型とか、なんでもいいわよ」

 西尾さんと、他二人の視線が俺に向く。俺は反射的に目を逸らした。

 さっきの葛城さんもこんな感じだったのか。……まぁ彼はこの注目をものとしてなかっただろうが。

 大雑把というか抽象的過ぎるその質問に、俺はとりあえず例に出されたものを答える。

「……誕生日は二月二日。血液型はB型、です」

「てことは、諫早はまだ十九?」

 西尾さんが再び問う。

「……そう、だね」

 率直に答えるとなぜか西尾さんは安堵の表情を浮かべ、それを見た彼女はクスクスと笑った。

「ふふ、よかったね架凛ちゃん」

「ほんとよ、買ってこなくてよかった……」

「どういうこと?」

 俺も抱いた疑問を、先に葛城さんが二人に訊ねる。

「実は大浴場から部屋に戻る途中でコンビニに寄ったんだけどね。架凛ちゃんがお酒の缶を三本も取るから『そんなに飲むの?』って訊いたら『私とナオと諫早の分』って。そこから諫早くんはお酒飲めるんだっけって話になって、一応いつも飲んでるお茶を買うことにしたの。ふふ、危うく架凛ちゃん、捕まっちゃうところだったね」

 再びクスクスと笑う彼女に、

「同じ学年なのは知ってるけど、なんか自然と諫早もお酒飲めるって思っちゃったのよ!」

 と西尾さんは物申すと、ぐびっと手元の缶を傾ける。指の隙間から見えた缶の胴体から「アルコール5パーセント」と書かれているのが見え、うっすら西尾さんの頰を彩っていたのは勝負に勝った高揚からではなく、こちらが原因だったらしい。

「はは、まぁ確かに、諫早は俺たちみたいにわあわあ騒いだりしないし、大人びてるからそう思っちゃうかもね」

「でしょ!」

 談笑する三人を俺は少し驚きながら眺める。

 ……大人びている、そんな風に思われていたなんて思いもしなかった。それはまたとんだ勘違いで、一方俺も俺で西尾さんにそんなイメージを持っていたが、彼女に揶揄われ口を膨らませる姿を見ると、それもまた違うのかもしれない。俺は手元のジョーカーを捨て場に置く。そのあと、なぜか三人も誕生日と血液型を答え出し、俺のターンはこのまま終了となった。

 ババ抜き以外にも七並べや大富豪など、トランプ大会……否、暴露大会はもう何戦目か分からなくなるまで続いた。飛び交った質問をいくつか紹介すると、こんな感じだった。

「最近のオススメカフェはどこですか?」

「ツバメ駅の近くに新しくできたところ。今度みんなで行きましょ!」

「好きな食べ物はなに?」

「……甘いものは好き、かな。ミルフィーユとか、パイ系が特に」

「…………ご趣味はなんでしょう」

「はは、やっぱり体を動かすことかな。今もたまに昔のチームメイトたちと遊んでるよ」

「今まで付き合った人数は?」

「小、中、高、一人ずつだね」

「尚人くんモテモテだね!」

 そうして、いつの間にか時刻は午前一時手前。日も跨いだことだしこれをラストゲームにしようと、西尾さんが切ったカードを配る。最後は一戦目と同じババ抜き。もう頭を使うゲームはみんな眠気と疲れで限界となっていたため、ちょうどいい。

 全員が手札を整え終わる。俺の手札は七枚で、その中にはジョーカーも混ざっていた。

 西尾さんからゲームが進み、一巡二巡とカードがトレードされていく。ジョーカーは変わらず俺の手元のまま。また一巡二巡と進むと、順調に俺の手札は三枚となる。そのうちの一つはやはりジョーカー。また一巡二巡と進む。俺の手札はついに一枚となった。必然的に次の葛城さんのターンで勝者となる俺の残りのカードは、ここまでずっと俺をにやけ笑みで見ていたジョーカーだった。

 彼との最後のひとときを楽しむ。彼が引かれていく最中、ふと、彼は俺が勝利するところを一番近くで見守ってくれていたのでは、と妙なことを思った。俺は彼に謎の親しみを覚える。名残惜しさはなかった。

「……上がりです」

「うそ! 諫早が一番手札多かったのに!」

「しかも最後、いいカードを回してくれたね?」

「尚人くんそれって……」

「さぁ色葉、好きなの選んで」

「ひぇ!」

 笑顔で三枚の手札を差し出す葛城さんに、彼女は恐る恐ると一枚、カードを引く。

 ……あ、これは。


 それから三巡で勝敗は決まった。勝負の結果……というより、俺が質問する相手は……。

「さぁ諫早くん、なんでも訊いて!」

 彼女は悔しがりながら言う。結局、葛城さんから受け取ったジョーカーを彼女は最後まで持ち続けることとなった。今もその手には親しい彼が彼女を覗く。

「……そう、だね」

 俺は捨て場のカードたちを眺めながら呟く。申し訳ないことに、俺にはもう何一つ質問が思い浮かばない。山ほど訊いた、というわけじゃない。元々訊きたいことがあるわけでない俺にとって、最初から難しいルールだっただけだ。それでも最後、俺は彼女に問わなければならない。まだ誰にも訊かれておらず、当たり障りのない、それでいて彼らが満足する質問を……。

「…………じゃあ、今までの大学生活で楽しかったことは」

 ようやく捻り出した質問は、なんとも中途半端で少々堅いものだった。

 俺は視線を上げ、彼女を窺う。すると、意外にも彼女は退屈そうな表情をしていなかった。むしろ彼女の顔からは笑みが溢れる。

「えっとね、うーん……。はは、まだ一年ちょっとの生活なのにいっぱい楽しい思い出が出てきちゃって、どれを言うか迷っちゃうね。……うん、決まったよ。楽しいって聞いて一番パッと思い浮かぶのは去年の文化祭かな」

 彼女の表情から一気に花が咲く。

「みんなで出し物を回るのも楽しかったし、特にサークルで写真を展示するのが楽しかった。展示した写真の一つ一つにね、行った時の感想とか、近くのオススメしたいお店とかをメモ書きして添えたんだけど、そうしたら来てくれた人が『素敵な写真ね』って、『私も行ってみたい』って言ってくれてね。私たちの写真を、私たち以外の人がいいねって思ってくれることが、私すごく嬉しくて、また今年もみんなに見てもらいたいなって思ったの。だから、みんなでいろんなところに行って、楽しい写真を撮らなきゃね」

 俺の出来損ないの質問に、彼女は真摯に答えてくれる。彼女らしい、とても温かな答えだった。西尾さんと葛城さんもその温度が伝わっているのか、二人とも自然と口元を緩めている。

「そうだね」

「そうね」

「…………頑張って」

 三人を見て、自然と言葉が零れた。

 俺は去年の功績も、これからの三人の活躍も知ることはない。ただ、美しく混じる三色がこのまま在り続けられるようにと、そう思った。

 ふと目の前の彼女を見る。彼女はさっきまでの花を散らし、俺を見ていた。その口元が何か言いたげに何度か動いたが、結局、彼女は弧を描き「うん」とだけ口にした。俺はその様子に、特に何も言わなかった。

 二人が部屋に戻ったあと、俺と葛城さんはテーブルを戻し、布団を整える。流石にお菓子を食べてしまったので、歯磨きはもう一度することにした。

 寝支度を整えた俺たちは電気を消し、布団に入り、静かに入眠を待つ。隣の部屋から物音がしなくなったため、二人はもう眠っているのかもしれない。

「……諫早」

 隣の布団にいる彼がポツリと俺を呼ぶ。俺は寝言かどうか確かめるために「はい」と、答える。どうやら寝言ではないらしい。

「今日は……じゃなくて、昨日はおつかれ。どう、サークルに馴染めてきた?」

 俺は間をおく。

「…………少し、は」

「はは、そっか。じゃあそういうことにしよう」

「…………」

 俺は特に何も返さない。再び言葉を発したのは、やはり葛城さんだった。

「諫早って、話してみると印象違うね」

「…………そう、かな」

「うん。ゲーム中にも言ったけど、大人びてて、達観してる人だと思ってた。実際そういう面もあるけど、今はだいぶお人好しな人なんだと思ってる」

 お人好し? それは俺でなく、葛城さんを含めた写真同好会のみんなのことだと思うが。

 俺が反論を呈する前に葛城さんは話を続ける。

「諫早、嫌そうにしてもなんだかんだ俺たちに付き合ってくれるでしょ。それに、ちゃあんと話も聞いてくれてる。そんな姿見てたら、誰だってそう思うよ。優しいね、諫早」

「…………そんなこと」

「はは、謙虚だね」

 だからそうじゃないよ。やっぱり、この勘違いはサークルを去る前に正しておいた方がいいかもしれない。

「今回の旅行どうだった?」

「……唐突だね。…………ラフティングもバーベキューも、旅行自体初めてだったから新鮮だったよ」

 一人になった時に思い返したことは言わなかった。これも本音だったから。

 すると、葛城さんの声色に驚きが帯びる。

「え、初めてなの? 学校行事とか、家族とかでも?」

「…………うん。学校の旅行は、まぁいろいろあって行かなくて、家族の方もそういう家じゃなかったから」

 そう言うと、葛城さんは「そう、なんだ……」と、そのまま口を噤む。どうやら不要な気を遣わせてしまったらしい。

「……ごめんね、葛城さんが気にすることないよ」

「いや……、うん、そうだね」

 葛城さんは何か飲み込むようにそう言う。やはり俺は優しい人ではない。

 これで会話は終わったかと思ったが、少しして彼はこの少し重たくなった空気を取り払うように、いつもの穏やかな声色で言った。

「俺はね今回の旅行、四人で行けてすごく楽しかったよ。また、みんなで行きたい……」

「…………そっか」

「うん……」

 次第にすうすうと彼の寝息が聞こえてくる。俺もそろそろ眠りにつこうと瞼を閉じる。

 ふと自分の中にポツリと浮かんだ何かに気づいた。その何かにそっと手を伸ばし触れようとするが、伸ばした手は微睡みによってあらぬ方向へと引かれ、いつの間にか俺は眠りについていた。

 触れかけた何かは、なんだか、温かかった気がする。


 翌日。四人揃って予定していた起床時間を大幅に寝坊した俺たちは、急いで身支度を整え、宿をチェックアウトする。そのままバス停まで走ると、ちょうど駅へ向かうバスが停車していた。俺たちは荒い息を整える間もなくバスに乗車し、一番後ろの席に陣取る。他に乗っているお客さんはいなかった。

 俺たちが全員座席に着いたことをミラー越しに運転手さんが確認すると、プシューっと扉が閉まりブーンとエンジンが唸りを上げ、徐々にバスが走り出す。その轟々とした音の中「ふふふっ」と鼻に抜けるような声が三つ、俺の左耳に届いた。振り向くと三人は堪えるように笑っていた。どうやらさっきまでの慌てっぷりと、誰一人起床できなかった珍事にようやく落ち着いた今、笑いが込み上がってきたらしい。

「あーおっかしい」

「チェックアウトの時間は間に合ってよかったね」

「ほんとだね」

「なんかお腹空いてきちゃったわね。もうお昼だし、駅に着いたらお昼ごはんでも食べましょ」

「いいね、みんな何食べたい?」

「私、うどんがいいな」

「いいわね、一緒に天ぷらも食べたいわ」

「甘いものも食べよう。私パフェがいい!」

「私パンケーキ!」

 この短時間に焦ったり、笑ったり、はしゃいだり。目まぐるしく表情を変える三人を、俺は無意識にふっと息をつき、眺める。

「ほら、諫早。このままだと食い意地張った二人が暴走しちゃうよ。止めなきゃ」

「……え、俺が?」

「諫早もいろんなものが食べたいわよね?」

「諫早くんは何食べたい?」

 葛城さんの後ろから西尾さんが、西尾さんの後ろから彼女が顔を出し、俺を見る。三人のその表情を見ると、なんだか俺も無性にお腹が空いてきたような気がした。

「……そう、だね」

 三人の後ろの窓から、徐々に景色が緑から灰に変わっていくのが見える。一方で三人は変わらずキラキラと色を輝かせていた。ようやく終わると思っていた旅路も、三人にしてみればまだまだゴールまで道中ばらしい。


 ……本当に賑やかな人たちだ

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