第15話 君は魔女だと弾劾する
とある魔女の家にて。
ブロンズ髪の少女はオタマを片手に慣れた手つきで鍋の中のシチューの具材をかき混ぜていた。幼少期、母親を亡くし、父親を亡くした少女は、いまやうんと美味しくなったシチューを煮込む。
「……テレスはね、ごろごろなジャガイモが好きなんだ。猫舌だからふーふーしてあげないといけないけど、ほくほくのジャガイモを頬張っているテレスはとっても愛おしいんだぁ。だから、私はシチューが好き」
愛する猫が似合うと言ってくれたエプロンを着て、
愛する猫が美味しいと言ってくれた味付けを施し、
愛する猫が愛してくれるような自分でいられるよう、口角を常に上げておく。
「……そこのテーブルの傷はね、テレスが爪研ぎをしちゃった跡なんだ。とーっても昔のことなんだけど、いまもすっごく憶えてる。私はブランドとかよくわかんないけど、父さんが外国から発注してくれたいい材質の高級なテーブルだったみたいで、父さん、傷見つけた日から一ヶ月はヘコんでたんだぁ。それみて「やっちゃったぁ」って表情のテレス、写真で撮っとけばよかったってぐらいでね。……いまもその傷見るたびに思い出し笑いするんだ」
改良に改良を重ね、独自の塩梅でミルクを加える。
スプーンでひと匙掬いあげ、シチューを味見する。
満足げな表情をする少女は火元を弱め、キッチンを片し始める。
「……最近ね、テレスにいろいろと怒られちゃったんだ。……それからずっとギクシャクした関係のままで、胃の底が痛いの。嫌いにならないでほしいし、愛想をつかさないでほしい。ずっと、ずっと、私のことだけを考えていてほしい。……ジレンマなんだ。いい子でいれば胃を痛めずに済むけど、邪魔な交友関係も増えるし、勉強も頑張らないとだし、なにより自律しちゃうとテレスとの関係が崩れちゃうから。でも悪い子だとギスギスしちゃう。難しいよね」
手を洗い、タオルで拭く。
沸かしてあった麦茶を客用コップに注ぎ、テーブルに座っていた@@@の前に置く。
「……で、なんのご用だっけ?」
少女は家業のお客様かと思って招いた@@@に問う。
よく知る関係ではない。ただの少女のクラスメイト。
@@@は、ゆっくりと口を開く。
「……どうってほどでもないんだ。ただ、君を刺し殺しにきただけ」
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遺書<3>
異変に気づけたのは偶然でした。
一学期期末の点数が振るわなかった僕と、日本語が不得手で授業についていけなかった金剛は補習に呼び出されていました。
東郷先生への文句をだらだらと金剛に話しながら田上中学校へと向かいました。一緒に登校している金剛が僕の家に早く来たせいで、開始時間よりも随分と余裕のある登校になりました。そのまま鍵を受け取り、いつも通り教室へと入りました。
異変は一目でわかりました。強烈でした。
黒板には、『魔女参上』の文字と宣戦布告の手紙があったのです。
一見してなんのことだかわからなかったのですが、ひとたび考え始めるととめどなく冷や汗が吹き出しました。
魔女とはなんのことだかわからないし、ファンタジー世界のことだとも思いましたが、宣戦布告の手紙には「お前の悪事を知っている」との旨が述べられていました。それを見て、僕は何も考えられなくなり手紙を破り捨ててしまいました。
黒板の文字も黒板消しで削れてしまうぐらいに擦って消しました。
ハッとして金剛を見ます。金剛はわかりやすく狼狽えていました。
なんと書いてあったかわかるか聞くと、読めなかったと答えます。
今にして思えば本当のことを言っている確信もないはずなのに、僕は鵜呑みにして安堵しました。
二度目の宣戦布告は始業式後です。転校生の話題で盛り上がっていた僕たちは体育館から教室へと戻った時、面食らいました。
みんなはザワザワと盛り上がり、僕は既視感で気分が悪かったのを憶えています。
ですが、拍子抜けだと思いました。蓋を開けてみれば、ただのイタズラ騒ぎです。
僕らの化学室のイタズラ、東郷先生へのイタズラ、屋上の園芸部へのイタズラ。
どれも子供のお遊び程度で、僕はいつしか安堵していました。
何に安堵していたのでしょうか。いまなら明確にわかります。
まだまだ悪いことができる、そう思っていたのです。
しかし、これが自分ごとだと確信に至ったのはSNSで猫の死骸が教室で見つかった旨の知らせを受けた時です。
拍動がガンガンと頭にまで響いていたのを憶えています。
僕は頭の中でごちゃごちゃと悪い思案が巡っていました。
嫌われる。嫌われる。悪いことをしていなければ、陰キャの自分では嫌われる。
僕は一目散に暁の家へと走りました。
僕の頭の中は、弁明と次の悪事の提案でいっぱいでした。
反省とか、贖罪とか、これっぽっちもありませんでした。
暁の家に着くやいなや、インターホンを鳴らしました。いつもなら応対してくれる人は裕福そうな暁のご両親なのですが、その日は暁本人が出迎えてくれたのを克明に憶えています。車椅子の暁が自分のために出てきてくれた。それがすごく嬉しかった。
僕は気恥ずかしさから暁が応対してくれた嬉しさを顔に出さないように努め、端的なまでに冗長に用件を伝えました。
なんて言ったかはあまり憶えていません。
バレたこと、次はうまくやること、だったでしょうか。
でも、暁からの返答は僕の思っていたものとは異なりました。
こう、言ったのです。
私、本当の魔女なんだ、と。
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「……でも、山田さン。ワタシは一つ、わからないんでス。……おかしいとは思いませんカ?……響は、後ろ暗いことがあったのだと思いまス。響は優しい男ですかラ、思い悩んだのかもしれません。一人で寂しく頼ることもできずにいたのかもしれませン。……でも、それでモ――――」
金剛は遠く分厚い雲を仰ぎ見た。きっと雲の先を見ているのだろう。
小さく白い息を吐き、金剛は呟くように疑問を口にした。
「……自殺するほどとは、思えないのでス」
躊躇いがちな確信のある目は、遠い空の先の人物に問いかけているようで。
傍で座ることしかできなかった私は、本当に友達なんだな、なんて思った。
「……他殺だと思っているのかい?だったら、見当違いだよ」
「……何か知っているのですカ?……教えては、くださらないのですカ?」
「……いろいろあったんじゃないの」
「……暁がらみじゃないのですカ?」
「……さぁ、ね」
知ったところで、金剛、君はもうじきに日本から去る。だから真実を知ったところで意味はないし、それでも知りたいだなんて身の程をわきまえない野次馬に過ぎない。嘘とは、知られたくないことを糊塗するために用いられるのだ。それを好奇心ばかりで剥がそうだなんて悪趣味もいいところだ。そんなものに応えてやる義理はない。だから教えない。
金剛もそれは百も承知なのだろう。無力感に明け暮れながら聴くのをやめた。
バスが来た。ここで別れだ。きっと二度と会うことはない。
イギリスと日本だ。道端で偶然、なんてこともない。
今生の別れはあっけなくバスの停車音とともにやってくる。
バスの自動扉が開く。
金剛はキャリーケースを持つと、バスに乗り込む。ただ去り際、金剛が小さく「神よ、お赦しくださイ。私は少なからずの復讐心かラ、いまだけ人を陥れるだけのための暴露をしまス。お赦しくださイ」と。刹那、金剛は私の方に踵を返す。
「一つ、言わせてくださイ」
「一つ、これは真実でス」
「暁の足、あれは生まれながらの障害ではありませン」
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両親は共働きで、この時間、私は一人でいることが多い。とても愛されて育てられた自覚はあるし、父親も母親も自分のためなら死んでくれる。満たされた愛に不満なんてない。ただ、一人でいる時間は嫌いではないというだけ。
小説を読む。『告白』、湊かなえのデビュー作だ。そのラストの章へページを捲る。
……と、そこでインターホンが鳴る。低い位置にあるカメラを見る。
……黒猫がいた。こういうとおかしい言い回しだけれども、見知った黒猫だった。
「……こんにちは、暁。
……初雪だよ。散歩にでも行かない?」
流暢な猫だこと。私は小説をリビングのソファに置き、身支度を始める。
ドアを開けた先は雪色だった。閑散とした道路に、猫が一匹鎮座する。
「……お久しぶり、テレス。元気だった?」
「……まぁまぁだね」
「……ふふ。テレスらしい回答」
黒猫は、ふと庭の奥にある倉庫を見るそぶりをする。
私はその所作で全てを察した。潮時なのだと悟った。
「……大丈夫だよ。ちょっと前に両親が全部処分してくれたから」
今日は車椅子を押してくれる人がいない。猫にお願いするわけにもいかないから、自分で車輪を動かす。「寒いから誰もいないねぇ。散歩日和だ」と冗談っぽく猫に話しかけると、「誰も出たがらない天候で散歩日和とは、誘った甲斐があったよ」と皮肉まじりに返してくれる。
そこの河川敷に沿って歩こう、と提案される。
車通りもない道だ。断る理由もなく快諾する。
「……ちょっと驚いた。デートの誘いをテレスの方からしてくれるなんてね」
「……恥ずかしい気持ちを抑えて誘ってやったんだ。ありがたく思いなさい」
「……ふふ、嘘ばっかり」
この冬初の雪はしんしんと降る。きっと夜にはコンクリートの道が白く染まっていることだろう。
車輪の跡がつく道を進むのは、童心に戻ったような感覚になれて好きだ。
「……さっき、金剛を見送ったよ。薄情な化学部員は誰も顔を出さないからね」
「……ごめんね。……テレスは、響のこと、聞いた?」
「……知っている。……あと、君の悪事も知っている」
「……そっか」
「……聞いたよ。その足、先天性の障害じゃないんだってね」
……そこまで知っているんだ。きっとコンゴーだ。私が以前にポロッと昔の話をしてしまった時のボロを憶えていたんだろうな。イヤなやつだ。あのときであれば朧げな日本語の知識だったろうに、しっかりと聞き取っているのだから。
……まぁ、でも、こんなもんなのかな。
……こうなる運命だったんだな、って。
「……デートに無言ってのも味気がない。
……歴史の話でもしようか。この街の、ひどく濁った歴史の話」
黒猫は車椅子に飛びかかり、私の膝に座る。
まるで使い魔のようで、だったら私は魔女で。
磔された足元から、“罰”が焚べられるような感覚だった。
「……十年ほど前、この街できっと最大規模であったろう犯罪が横行したんだ。その犯罪はいまだに尾を引いていて、いまだに後遺症に悩む者や人生を狂わされた者、行方不明の者もいるそうじゃないか。けれど、その規模の大きさとは裏腹に、あまり世間では聞き馴染みのない犯罪でもあった。どうしてだろうか」
「……上手に隠されたから?」
「……そうだね。とっても上手に隠されたから、――――
――――上手に隠されたから、あの軟膏を、あの忌まわしき“麻薬”の存在を広く認知されずに済んだんだ。
……煮詰まった全てを無かったことにされてしまった」
車椅子の車輪を漕ぐ。懐古するのは、十年も前。
そうだった。あの頃は、……この足で、走り回っていた頃だ。
「……この街最大の犯罪の話をしよう。小瓶に詰められた、悪魔が煎じた“麻薬”の話」
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「……小瓶に詰められた悪夢に取り憑かれたのは、不幸なことに子供たちだった。一人の大人の穢らわしい恣意によって子供に手渡されたそれは、瞬く間に街の子供に広められた。麻薬は子供達に秘密を作った。同時に、子供達に規律を産ませた。規律は上下関係を構築し、時に恩恵たる麻薬を、時に罰則たる暴力を与えた。……きっと、優秀な独裁者でもいたんだろう。麻薬を囲う子供の集団は、いつしか立派な帝国になっていた」
アメとムチ。独裁者はいつの世だって、これらの使い方と配分をよく心得ている。
アメ、それは麻薬だ。麻薬はそれそのものが快楽であり、また至極の金にもなる。
ムチ、それは暴力だ。かのホロコーストの中心人物、アドルフ・アイヒマンが平凡な人物であったことからも分かるように、規律はつくづくどうしようもないまでに人間を作り上げてしまう。……事実、私は大怪我を負わされ意識の戻らなくなった子供を知っている。
暁は遠い目をし、されども私の話に耳を傾けている。
「……とはいえ、事件はすでに“大まかは”解決済みだ。麻薬を横流ししていたとみられる老婆は見るも無惨な姿となって発見され、老婆を殺害したとされる男性も、いまや絞首刑を待つばかりとなっている。知る人ぞ知る大事件の幕引きは、元から何もなかったかのように曖昧なものだった。もっとも、そんな幕引きを多くの人が望んだんだろう。子供の思惑ならいざ知らず、その親なんて、自分の子供が関わっていたらと思ったらゾッとじゃ済まない」
それも相まって、この事件は誰も口にしなくなった。
思えば、この街の中学校の生徒が1クラスし分かない過疎具合も説明がつきそうだ。
誰もこんないわくつきの土地で子供を育てたくなんてないだろうから。
「……でも、そりゃ解決じゃない。隠匿だ。……故に、根深い闇はいくつもの禍根となって残ってしまった」
「……その一つ、とても辛い話だ」
「……この街から、三人の少年少女が行方不明となっている」
記憶を掘り返せば確かにあった行方不明者のビラ。
井戸端会議で聞いた「帰らない子供たち」の証言。
随所にあったんだ。
ずっと、ずっと、深い闇に目を眩まされていただけで。
ひどく冷たい“別の事件”が、すぐ隣で起こっていんだ。
「……ほとんどの住民がただの家出だと思った。張り紙を見た当時の私も、そんな風に思っていた。……でも、ひとたび麻薬と絡めれば話は変わってくる。悪い大人の勧誘にでもあったのだろうか。いいや、そうじゃないのだろう。悪い大人とやらがいたのであれば、きっと、もっと主犯格を狙うはずだ。それこそ生産者の身柄を、……いや、なんでもない。ともかく、たかが一介の子供を狙う理由は薄い」
だったら、本当にただの家出だろうか。
「……片田舎から家を飛び出して、都会にでも出て行って。それが同時期に数人も。……そう考えるのが自然、なんだろうか?」
どうにも不自然に思う。もっとシンプルなんじゃないか。
もっとシンプルで、もっと狂気的な“何か”に巻き込まれているんじゃないか。
「……それとも、もしかすれば」
「……“ここら近辺で、一カ所に過ごしてたりするんじゃないのか”、なんて」
暁の車椅子が止まる。空を見上げれば、蓋をしたような分厚い雲。
指先の冷たくなった手が私の頭を這う。
その時の暁の顔は、見ないよう努めた。
揺らぎそうになる決心を自覚したから。
「……話が変わるが、聞きたいことがあるんだ」
「……君の家の倉庫の中には、いったい何があったのかな」
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遺書<4>
あかねさす門構えに倒れ込むような墨汁色の影、そこに埋もれていたのは変哲もない倉庫でした。
四方3、4メートルといったところでしょうか。庭の奥まった場所にある倉庫。
案内されたのは、そんな倉庫の前でした。
どどど、でしょうか。ごごご、かもしれません。
なんとも形容できない音が暗く響いていました。
暁は胸元のポッケにしまっていた鍵を取り出し、鍵穴を回します。
ぼとりと重厚感のある音と共に、錠と何重にも何重にも巻きつけられた鎖が落ちます。
開けて欲しいと暁に言われるがまま重い戸を開くと、鼻がもげそうな異臭が襲います。
そこに僕は、この世のあってはならない禁忌を目の当たりにしました。
三人。人間の成れの果てを見ました。
骨に皮がへばりつくような体の男女。
何かを懸命に吸っていました。糞尿は垂れ流しで、臭く、汚い。おおよそ人間がいてはならない空間だと思いました。窪んだ目の男は二ヘラと僕を見て笑っていました。笑っているようだっただけかもしれません。皮脂で髪がへばりついた女は僕に目もくれずに何かを吸っています。もう一人の男は、何をするでもなく天井の隅を茫然と見ていました。
ただの物置のような外装とは程遠い、この世の腐った全てがそこにありました。
暁はボソボソと、ごめんなさい、ごめんなさい、と念仏のように唱えています。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。と。泣きじゃくるのです。
後になって聞いたのですが、暁のご両親もこの惨状を認知しているようでした。でも、これを全身全霊をかけて隠し通した。外聞が気になったのかもしれませんし、そもそもこれは大犯罪です。自分たちの身を案じた結果の愚行だったのかもしれません。しかし、僕にはそうは思えませんでした。会ったことのない見たこともないご両親の心情を、気色の悪いことですが、なんとなく理解できるような気がするのです。
きっと、当たり前のことを当たり前のようにする雑事のような。
そんな、気持ちが悪いほどの健全な愛があったように思います。
そんなことより。
そんなことなんかよりも。と。僕は急く心のままに聞いていました。
どうして、そんな“鍵付きの倉庫”を自分なんかに見せてくれたのか。
その時の僕の感情は、綴りたくもない醜悪なものだったと思います。
だから、端的に言います。
嬉しかった。堪え難く嬉しかったのです。
選ばれたのは自分なんだと歓喜しました。
なんといえばいいのでしょう。僕は熱を帯びていました。誰かのために、何かのために、そんな大義を僕はその時に得たのです。いつの日か少年ジャンプで憧れた主人公のような気分でした。信念の闘争に駆られました。どうだ、羨ましいだろうと、本気で思いました。
そして、同時に僕はどうかしているような軽蔑の感情も抱き始めていました。
白状しましょう。
その倉庫の中にいた廃人同然の三人を、
暁の平穏を脅かす穢らわしい邪魔者と。
その心は、裏表が代わり、
暁の弱さを僕に暴露してくれた、そんなおぞましい“優越感”に、どこか感謝すらしていたように思います。
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「……とはいえ、倉庫の“中身”は先日お掃除したんだろ?それは最近の話なのかな。……なにか心変わりでもあったのかい?いまのいままで“それ”を放置し続けてきたってのに、それを最近になって、って。……なんてね。そろそろ茶番もよしたほうがいいかな」
車椅子の動きが自重で止まる。
場所は分厚い雲の下が一望できる、小高い堤防。同じ視線に向かいの堤防、見下ろせば急流下りで有名な河川だ。
桜の木の根を潜る暖かな風の春、
河波の高さと冷たさを知った夏、
紅葉に埋もれる枯葉に写し鏡を見た秋、
そして、厳冬。
「……常々、……あぁ、常々、私は明日にはこのはしたない“茶番劇”が終わるとばかり思っていたけれど。
……今日だったんだね、テレス」
誰もいない。
静寂と、雪。
「……君は、麻薬の運び屋だったんじゃないのかな。暁」
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「……三人、どうやって集めたんだろうって疑問があった。誘拐?いいや、君は女の子で、はっきり言って虚弱そうだ。それに当時幼児に満たない齢の君が他のうちの子を攫うだなんてマネができるとは思えない。だったら誘致、誘い入れたんじゃないかって思った。君の家、その倉庫が集合場所だったのならいくつか合点がいくんだ。君の家はそれなりに裕福で、広い敷地に人目を避けれる倉庫がある。さぞ子供たちにとってかくれんぼには悪くない立地に見えただろう」
皮肉なものだ。今や動けぬ足が何人もの人生を狂わせた元凶だったなんて。
決め打ちのように聞こえるこの推論は、実のところ薄弱な証拠しかない。
証言はたった数枚の遺書。それもどこまで信用していいのかわからない。
それでも、のっかる私に膝をささげる暁は、静かだった。
「……誘致とあらば、物事はシンプルに済むんだ。暁は家まで麻薬を運ぶだけ。子供達はそれを受け取るだけ。そのプロセスになんら難しいところはない。それこそ麻薬を餌にヒエラルキーを築いたどこかの誰かではなく、また選り好みをして麻薬を配る犯罪者のような思慮も介在しない。
……憂慮があったとすれば、それは倉庫の中の子供たちが三人だったということだろうか。きっと麻薬は三分割だっただろうから、一人減れば二分割になる。自分が抜け出せば他二人に自分の分け前を奪られる。そうした心理的強迫観念から、鍵付きの倉庫を自分たちで作れてしまう、……そんな、おおよそ“人間性らしきもの”を感じられない倉庫ができてしまうことぐらいだ」
あのドラッグルームには鎖と鍵で閉じられていたと遺書にはあった。
でも、思うんだ。確証はないけれども。
その鎖は、
その鍵は、
「……鎖があったけれど、君は、
……ソトからの侵入こそ想定しこそすれ、一度だってウチからの脱出を危惧したことはなかったんじゃないのかい?」
暁からの返答はない。冷めた目は、厳冬を象徴するような、遠い何かを見つめているようだった。
この鎖と鍵の推論が事実だったとすれば、それは、なんとも、なんとも、
なんとも、惨たらしいことだろう。
それはすなわち、あの薄暗いであろう倉庫の中に、さも揺るぎない“幸福”があったようではないか。
「……仮に最近まで倉庫の中に数人の子供を匿っていたとして、そうすると、麻薬はどっから入手していたのだろうか。……推論の上に推論を重ねるようで申し訳ないのだけれども、思うに、“卸売業者”にでも直談判でもしたのかい?麻薬グループの包囲網があったとしても、主犯格ふくめ専ら子供が主体のグループだ。夜にでも尋ねれば妨害も少ないだろう。……そこで“老婆”にこういうのだ。「友達が数人欲しがっている」「私の家にいる」「たくさん欲しい」と」
私は、かの老婆とそこまで面識はない。だが、たった一度だけ、彼女の死の直前に腹を割った話をしたことがあるってだけだ。
その日、曝け出された内面からは、永年染み込み膨れ上がった劣情が伺えた。
他人の成功など興味はない。
他人の失敗のみ興味がある。
愉悦だったろう。深夜に子供が一人訪ねてきて、地獄の片道切符をねだってくるのだ。彼女にとって、それは垂涎ものの懇願だったのではないだろうか。事情を話せば、事情を知れば、あの老婆のことだ。間違いなく麻薬をばら撒く方向性を定めるだろう。
「……そうして、譲り受けた麻薬によって、君は倉庫の中に小さな小さな地獄をこしらえた
……でも、それでも足りなくなったというならば、まぁ、どうにでもなるだろう。
……そういえば、君のご両親、お金持ちなんだってね。いまも外出中とのことだし、忙しい身の上なんだね」
……どうせ、もう廃人だ。善悪の区別もついていない薬物中毒者なのだから、
……ハイになれれば、原産者など、どうだってよかっただろう。
突き詰めれば、“短慮”。それこそが、薬物の根源悪といえよう。
「……ただ一つ、たった一つだけ、解せないことがある」
私は堤防のアスファルトの上に着地する。肉球に残っていたほのかな温かみは、薄く積もった雪に余韻もなく冷えてしまう。
見上げれば、暁と目が合う。
何を思い、何を考えているのかまるでわからないのに、
この目を見ていると不思議と共感の念を覚えてしまう。
「……この犯罪に、君のメリットが見られない」
いわゆる、動機、だ。
そこには、迸るほどの愛があったのだろうか。
目のくらむほどの見返りの金でもあったのか。
ともすれば、譲れない信条や信念によるものか。
はたまた、根本に横たわるイデオロギーの為か。
復讐か。
友情か。
痴情か。
憤懣か。
やんごとなき事情だったりするんじゃないのか。
「……思うに、……思うに、思い立ってしまうに、」
凍える風が、頬を掠める。
さながら、もう春など来ないと言わんばかりに。
「……君は、信じられないほど極悪で、言葉にしようのないほど残忍な、
……ただの、愉快犯だったんじゃないのかい?」
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