葉っぱの旅


 僕は言い返そうとしたけど、言葉が出てこなかった。


「……同じ、って」

「君は『どうせ日本は滅ぶ』って言い訳を用意してる。あの子は『なんか難しそう』って言い訳を用意してる。どっちも、失敗したときのクッションでしょ?」


 先輩は深く息をついてから、また口を開いた。


「『この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない』」

「……それって」

「第98回芥川賞を受賞した池澤夏樹『スティル・ライフ』の書き出し。私の一番好きな小説」


 先輩はチョコの袋をくしゃりと握った。


「私が思うにね、この国がまだ続いてるのって、ただ単に運が良かっただけなんだよ。たまたま最悪の目が出なかっただけ。だから存続してるし、こうやってくだを巻ける」

「運、ですか」

「うん。日本が千年でどれだけ危ない橋を渡ってきたと思う? 元寇があった、飢饉があった、氾濫があった、大噴火があった。明暦の大火なんて十万人も亡くなった。不平等条約も結んだし、暗殺もあった。冷戦もあったし、差別も悪政もあった。どれかひとつでも掛け違いがあったら、この国は終わってたかもしれない。けれども結局は今に至っている」

「……」

「日本の侘び寂びとか、諸行無常とか、杜甫の春望がしっくりくるのも、みんな薄々それを感じてるからじゃないかな」


 先輩は窓の外を見た。冬の日差しが、埃っぽい部室にぼんやりと差し込んでいる。


「そもそもさ、昔の人が『自分は日本という国に暮らしてます』なんて思ってたかどうかも怪しいじゃない。千年前は、誰も自分の立ってる場所がどこなのか分かってなかったんじゃない? 字を書くのも読むのも限られた人だって聞くし」

「それは……まあ」

「今の県の形にしたって、廃藩置県で決まったものだよ。廃藩置県っていつか知ってる? 1871年。たったの150年とちょっとしか経ってない。江戸時代よりずっと短い」


 言われてみれば、確かにそうだ。僕が当然だと思っている「日本」という枠組みだって、歴史の中ではつい最近できたものに過ぎない。


「姥捨て山なんて話が伝わるくらいだしね。高齢化社会みたいな事態は、昔だって起こってたんじゃない?」

「でも、それが何だって言うんですか。それで今の問題が解決するわけじゃ――」

「解決? しないよ、そんなの」


 先輩はあっさり言った。


「私にはわかんない。ダークマターの作用で地球の前に突然ブラックホールが生まれるかもしれないし、超巨大隕石に轢かれてバラバラになるかもしれない。なんにもわかんないんだよ、実際はね」

「……それは極端すぎません?」

「そう? でも、そういう議題まで考えることに意味なんてないでしょ。その問い自体が間違いなんだよ」


 先輩は少し考えるように首を傾げた。


「『私達の理性は及ばないことまで考えようとするから困る』って愚痴った人もいたっけ。ああ、これもカントだったかな」

「……先輩、カント読んでたんですか」

「読んだっていうか、かじった程度。でも、気に入ったフレーズは覚えてる」


 僕は黙った。先輩の言葉が、ゆっくりと沁みてくる。


「『なんか難しい』って言葉に対して、君は少しでも別の可能性を考えてみた? 自分の伝え方が悪かったんだとか、興味が持てなくて断り文句として言っただけなんだ、とか」

「……」

「君は見返りを求めようとしたんじゃない? これだけやったんだから入ってくれなきゃ困る、割に合わないんだ、って」


 図星だった。僕は確かに、自分の努力に対する報酬を求めていた。


「ムカつく人達だね、って同調しても別に構わないんだけどさ。それで君の心が晴れるとも思えなかったから」

「でも、先輩達が必死に築き上げたサークルが……」

「愛着を持ってくれるのは嬉しいけど、それで残った君が縛られるくらいなら、無くなった方がマシだよ」


 先輩はまた、困ったような笑顔を浮かべた。


「必要になったらまた誰かが似たようなのを作り直すでしょ。休眠期間だと思えばいいよ」

「休眠期間……」

「過去の評価なんて、未来が決めるものだからね。原住民を追い出したことは明らかに侵略じゃん? でも、開拓とか探検とか書かれてる。過去は未来で作られるんだよ」


 先輩は棚に並んだ本を見渡した。


「私達の持ってる本もスマホも、将来オーパーツになってるかもしれないよ? 未来のアトランティスの住人ってわけだ」

「……なんか、スケールが大きすぎて実感が湧かないです」

「そう? でもね、ニュートンにもアインシュタインにも徳川将軍にも、私達は実際には会ってないんだよ。全部、誰かが書いた文字を通して知ってるだけ」


 それは当たり前のことなのに、言われてみると不思議な感覚だった。


「私はね、自分の触っていると感じているものと、実際に触れているものとの距離を近づけるために、本を読んでる」


 先輩の声が、少し柔らかくなった。


「読めば読むほど、知れば知るほど、自分はどんどん小さく軽い存在になっていく。でも虚しいだなんて思わない。むしろ、安心すらしてる。私ごときに何が起ころうが、それは葉っぱが一枚ひらひらと旅に出ただけの話なんだってね」

「葉っぱ、ですか」

「うん。幽霊を枯れ尾花と見抜いたり、逆に枯れ尾花を幽霊と見立てたりできる。それって素晴らしいことだと思わない? 絶望の世界でも楽しく生きていける気がしてくるじゃん」


 僕は何も言えなかった。


「卑屈になったり、自分や他人を追い込んだりするために知識はあるんじゃないんだよ」


 とは言え、と添えて先輩は少し声を抑えた。


「……そーゆー私も相当こじらせてたけどね」

「先輩が、ですか?」

「うん。だから偉そうなこと言える立場じゃないんだけど」


 先輩は苦笑いした。


「ロックバンドの声が響く人もいれば、ピアノの静かな旋律の方が響く人もいる。太鼓やタムの音色の方が強い人だっている。人によって、何が心に届くかは違うんだよ」

「……」

「だからさ。君も君で、自分なりに頑張ってみたらいいんじゃない?」

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