第4話 忘れ物

「あっ、やべ。この後の授業って歴史だっけ?」

「うん、そうだよ。どうかしたの?」


 俺にとっては天国だった体力試験を終えてから数日後。

 天国だったのは一瞬で、それ以降は通常授業に戻っていたのだが、俺はごそごそと机を漁り自身のミスに気付く。


「いやー、歴史の教科書。持ってくるの忘れちゃってな」


 次の授業は日本史だったのだが、その教科書を持ってくるのを忘れてしまったのだ。


「珍しいね。教科書は基本、置き勉の隼人が」

「この前間違って持って帰っちゃったんだよな。それをそのまま自宅の机の上におきっぱにして、見事忘れた」


 翔が言う通り、俺は基本全ての教科書を机の中やロッカーの中にしまっているのだが、以前間違えて持って帰ったままにしていたのである。

 学校に持っていこう持っていこうとしたまま、完全に記憶から消し飛んでいた。

 今頃、ほとんど使わない自室の勉強机で歴史の教科書は泣いてるだろうな。


「全く、普段から置き勉なんてだらしないことしてるからそうなるのよ」

「うるせぇ。野球部の俺は普段から持ってくるものが多いから、少しでも鞄を軽くするために工夫してんだ」

「確かにそれは賢いけど、高校生の本業を見誤っているような」

「帰宅部の翔に言われたくねぇよ」


 勉強はもちろんのこと、部活動に励むのも立派な本業だろうが!


「というか、まだ時間もあるんだし別のクラスの知り合いから借りてきたら? 野球部の知り合いも多いでしょ?」

「そう思って連絡してみたんだけど、今日に限って誰も持っていないみたいでな」

「そもそも、他の野球部員もどこにあるか分かってないだけなんじゃない?」

「鋭いな五十嵐。その通りだ」

「こんな適当な推理であんたに褒められたくなかったわよ……」

「そもそも、他の部員も歴史の授業どうしてるのさ?」

「多分、別の教科書を開いて代用しているか、寝てるかどっちかだろ」

「別の教科書を開いたところで代用にはならないわよ!」


 鋭いツッコミが五十嵐から入る。だけど、どこの男子運動部もこんなもんじゃないか?

 持ってないとは言いつつ、部室をひっくり返せば出てくるんだろうけど、今からそんな事をやっている時間はない。

 そもそも、部室なんて汚らわしい中から出てきた教科書を使いたくないのも本音である。

 きっと土埃まみれになってるだろうし。


「ともかく、忘れた俺が悪いから今日の授業は適当に寝て過ごして――」

「ダメだよ、はー君。学校の授業は真面目に受けなきゃ!」

「そうはいっても、肝心の教科書がなきゃ眠って過ごすしかないだろ」

「隣の人に見せてもらうという選択肢が出てこない隼人に、俺はびっくりだよ」


 呆れる翔の言葉に反応したのは、七瀬である。


「そう! 今翔君が言った通り、隣の人に見せてもらえばいいんだよ! はー君の隣には幸いなことに、私という教科書を持っている存在がいるんだから!」


 ドヤ顔で教科書を広げる七瀬。

 教科書を持っているくらいでドヤ顔はどうかと思うが、それすら持っていない俺にツッコみの権利はない。


「いや、それだと七瀬が授業中不便だろ?」

「ノープロブレム! こうして机をくっつければ何の問題もないわけだよ」

 

 自身の机をガタガタと動かし、俺の机にピッタリと付けてくる。そして、その中間に教科書を広げる。

 小学生の時を思い返すと、少しだけ懐かしい光景だ。あの時はこれが普通で、友達なんかが隣だといつもより仲良くなれた感じで嬉しかったんだよな~。

 

 しかし中学からは給食の時などを除いて机をくっつけなくなったし、それは高校生になっても変わっていない。

 だからこそ、高校生になってこうして机をくっつけて授業を受けるかもしれないという状況に少しだけノスタルジーを感じているのだった。


「これなら、お互いに内容を確認できるし問題ないでしょ?」

「まあ、七瀬がいいなら俺は大丈夫だけど」

「…………」

「何だよ五十嵐。そんなに俺の事を睨みつけて?」 

「……別に。ただ姫奈に柊のおバカな思考が映らなければいいなって」

「んだとコラっ!」

「おーい。授業を始めるぞ。日直、号令」


 失礼なことを口にした五十嵐を咎める隙もなく、歴史の授業が始まってしまい、俺は仕方なく前を向く。

 くそ、俺だって出来ることなら五十嵐と机をくっつけて授業をうけたかったよ……。

 しかし、そんな事を言っては七瀬にも失礼なので心の内にしまっておく。


「よし、今日はこの前の続きからな。……っと、柊と七瀬。お前ら机をくっつけるほど仲良かったか?」


 日直の挨拶もそこそこに、歴史の担当教師から俺と七瀬が席をくっつけていることに対してツッコミが入る。


「すんません。今日、歴史の教科書を忘れたんで、七瀬に見せてもらってるんです」

「そういうことです!」

「そうか。まあ、忘れたから寝るって開き直られるよりいいから、今日はそのままで構わないぞ」

「どうして俺が寝るって分かったんですか?」

「そりゃ、1年から歴史の授業を担当してるからな」


 俺たちのやり取りにクラスがドッと沸いたところで、通常の授業へと入っていく。

 先生が教科書の一部に説明などを加えつつ、板書を進める。


 チョークのカツカツという音に、授業中だけに限り心地よすぎる先生の声。

 

 普段ならこの状況だけで眠ってしまいそうだが、教科書を見せてもらっている手前、流石に寝るわけにはいかない。

 普段より感覚を研ぎ澄まし、授業の進行に合わせて教科書の範囲を目で追っていく。


「ねぇねぇ、はー君」

「ん? どした七瀬」


 集中していた俺の左手を七瀬がシャーペンでツンツンとつついてくる。

 珍しいな。普段は集中して授業を受けるタイプだと思っていたんだけど。何か伝えたいことでもあるのだろうか?


「こうして教科書を見せあうの、なんだか中学時代を思い出すね」

「中学時代?」

「ほら、中学時代もはー君、よく教科書忘れてたじゃん。中学の時は置き勉禁止だったし」

「言われてみれば、しょっちゅう忘れてた記憶があるな。途中から先生も諦めてたような」


 何故か置き勉禁止だった我が中学で俺は、教科書忘れの常連となっていた記憶がある。

 最初こそ『何で持ってこないんだ!』と先生から注意されまくっていたが、途中から『……隣に見せてもらえ』と言われるようになった。

 多分、あまりに忘れ過ぎるから教師も面倒になったんだろう。俺としてはうるさくなくなったので丁度良かったと思っている(何もよくない)。


「あの頃も、隣だった時は私や渚ちゃんがよく見せてあげてたよね。まあ、結構な頻度ではー君は寝ちゃってたんだけど」

「マジですまんかった」


 七瀬は優しく起こしてくれたが、五十嵐は途中から容赦なく頭を引っ叩いてきた。

 多分、今寝たら後ろから蹴りを入れられるかもしれない。


「ふふっ、こっちは寝ているはー君に悪戯できたからどっちもどっちかも」

「えっ? 俺、中学時代寝てたらいたずらされてたの?」

「さぁ~て、どっちでしょうか」


 悪戯っぽく舌を出す七瀬。なんだこの可愛さは。

 俺が五十嵐のこと、好きじゃなかったらとっくに好きになって、告白して玉砕していたところだぞ。

 というか、この可愛さにやられた男子どもが可哀想である。


どすっ


「うぐっ!?」

「ん? どした、柊?」

「い、いいえ……な、なんでもありません」


 突然の鈍痛に俺は思わず呻き声を上げる。

 先生がどうかしたかと尋ねてくるも、どうにか声を出したことを誤魔化す。

 

「何でもないなら続けるぞ」


 再び先生が板書を再開したことでホッと胸をなでおろした俺は、すぐさま後ろを振り返る。


「おい、五十嵐。一体、今のはどういうことだ?」

「ん? 私がどうかしたの?」


 営業スマイルもびっくりの笑顔を浮かべた五十嵐が、意味がよく分からないとこてんっと首を傾げる。

 俺が声を上げたのは、後ろに座る五十嵐が背中をシャーペンで刺してきたからだ。


 幸いシャーペンだったから俺の身体は貫かれなかったけど、それでも十分の衝撃だったぞ。思わず声が出るほどに。


「何しらばっくれてるんだ。お前がその手に持っているシャーペンで俺の背中を刺してきたんだろ!?」

「何言ってるのよ? 真面目な私がそんな事するわけないでしょ」


 こ、こいつ……。あくまでしらを切るつもりだ。

 しかし、ここで俺が深追いするのも禁物である。今、わーわー、言ったところで先生に注意されてお終いだ。

 仕方ない。ここはひとまず授業に集中することにしよう。


「よし、じゃあここで練習問題を……教科書を忘れた柊。答えてみろ」

「教科書を忘れたって枕詞、絶対いらなかったですよね?」

「枕詞なんて、よくそんな難しい言葉知ってるな」

「絶対に俺の事バカにしてるでしょ?」


 先生とのやり取りにクラスから笑いが漏れる中、俺は指定された問題に目を向ける。


(うん、全く分からん)


 問題自体は4択なのだが、全く正解が分からない。

 どうやら今日やった部分というよりは、以前の授業でやった部分からの問いみたいだ。

 前の授業はほとんど寝ていてノートも全く取っていなかったので、皆目見当もつかない。


 俺が足りない頭で必死に考えていると、隣の七瀬がトントンと問題の一部分を叩く。


(えっ?)

(ここ、だよ)


 口パクでここだよと伝えつつ、再度同じ場所をシャーペンでトントンと叩く。

 どうやら見かねて答えを教えてくれたらしい。


「どうした? 答えられないか?」

「いえ、答えは③です!」

「おー、正解だ。普段から寝ている割にはよく分かったな」

「まあ、これが実力ですよ」


 適当に先生からの言葉を受け流しつつ、俺は腰を下ろす。

 そして、答えを教えてくれた七瀬に改めて頭を下げた。


「ありがとな、七瀬。助かったよ」

「いえいえ~。どうせはー君の事だから、前の授業を何にも聞いてないと思って」

「俺の事をよく分かってるようで。今回はそれに救われた形だけど」


 流石、中学時代からの付き合いだけあって、俺の授業に対する向き合い方がよく分かっている。

 しかし、七瀬ってぽわぽわしている割には勉強できるんだよな。この中だと、五十嵐に次ぐ秀才である。


「だけど、これからはちゃんと授業をうけなきゃ駄目だよ?」

「なるべく善処するよ。まあ、困ったら七瀬に見せてもらえばいいかなって思ってるけど」

「あー、そんなこと言う不真面目な人にはこれから何も見せてあげません!」

「嘘だって! そんなことされたら毎回俺はあらゆる授業で辱めを受けることになっちゃうから」

「ふふっ。嘘嘘。これからも困ったらほどほどに助けてあげるから」


 これからはほどほどにしか助けてくれないらしいので、俺もほどほどに授業を聞いていかないと。

 歴史はともかく、数学とか英語とか、頑張って起きていないといけない授業は他にも多そうである。

 

どすっ、どすっ!


「んぐっ!?」

「どした~、柊? まだ、答え足りなかったか?」

「い、いえ、もうお腹一杯です」


 再び問題を振られそうになり、何とかその話題を逸らす俺。

 そして授業が再開したことを確認し、俺はピキピキと青筋を浮かべながら後ろを振り返る。


「五十嵐さん? さっきから俺の背中に恨みでもあるんですか?」

「ん? 一体何を言っているのか、私にはよく分かりませんが?」


 今度は笑顔を浮かべつつ、お嬢様が使うような言葉で返事をする五十嵐。

 くそ、五十嵐の奴今回もしらばっくれる気か……。


「お前が何度も後ろから突き刺してきてるんだろうが!」

「気のせいじゃないですか?」

「お、お前……」


 この野郎……普段は使わない丁寧な言葉遣いがより俺のイライラを募らせる。

 背中へのダメージがツンツン程度なら可愛かったが、この痛みは全く可愛げがない。

 いくら俺が五十嵐の事を好きだと言っても痛みが伴うのはよろしくないぞ!


「……くくっ、……はっ」


 ちなみに、五十嵐の隣に座る翔は俺たちのやり取りがツボに入ったのか、顔を伏せて笑いを堪えていた。

 こいつ、人ごとだと思って……。


「ふふっ、渚ちゃん。本当は私の代わりに教科書を見せてあげたかったんだよね?」

「は、はぁ!? ば、バカなコト言わないで!!」


ドスドスドスッ


「痛い痛い痛い!!」

「七瀬に五十嵐。柊をいじるのはその辺にしておけよ~」


 小声で七瀬から何を言われたのか、五十嵐が顔を赤くして何故か俺の背中を何度もどすどすと突き刺してくる。

 だから、突き刺してくるのはやめろって! というか、先生もいじられてると思って受け流すな!


 そんなこんなで、いまいち集中しきれないまま日本史の授業は終わったのだった。

 うん、次からはちゃんと教科書を持ってこよう。

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