阿部晴明ともののけ
九月ソナタ
本文
安倍晴明は、平安時代の陰陽師である。映画『陰陽師』や、羽生結弦選手の演技『SEIMEI』によって、ご存知の方も多いだろう。
私には、映画を観る機会がなかったため、晴明がスクリーンの中でどんな術を使っていたのかは知らない。ただ、病を治すこともあったのだろうかと想像することがある。
説話集『今昔物語』には、「
私は物語自体は読んでいたが、絵巻を目にする機会はなかった。ところが数年前、サンフランシスコのアジア美術館で、別の『泣不動縁起』絵巻が展示されることになり、ようやくその場面をこの目で見ることができた。
話を進める前に、「泣不動縁起」のあらすじを紹介しておきたい。
三井寺の高僧・
晴明は言った。
「この病は祈祷だけでは治せません。ただ、誰かが身代わりとなれば、病を移すことができます」
弟子たちは皆、沈黙した。
いかに師を思おうとも、進んで病を引き受けようとはしない。だが、
「私が代わりましょう」
ただ彼には、八十になる母がいた。
証空はその母を案じていたが、母は嘆きつつも息子の意志を受け入れた。
晴明は祭壇を設け、祈祷を始める。やがて、祭壇の前にもののけたちがぞろぞろと現れる。
それは、智興を苦しめていた病魔たちだった。晴明の術によって病魔は高僧の身体を離れ、証空へと移っていく。結果、智興は癒えたが、証空は病を受けて苦しみ、死にかけた。
証空は日ごろ祈りを捧げていた不動明王の絵像に向かって、「どうかお救いください」とすがった。
その姿を見て、不動明王は哀れみの涙を流し、自らが身代わりになると告げた。
すると、証空の病は癒え、不動明王はその身に病を受けて地獄へと連れて行かれた。
地獄に現れた不動明王を見て、閻魔大王は驚き、「あなたのようなお方が来られる場所ではありません」と恐縮し、直ちに解放したという。
こうして智興は救われ、証空は健康を取り戻した。以後、智興は証空を深く慈しんだ、そんな話である。
私にとって、不動明王とは「恐ろしい仏」であった。
背に炎を背負い、剣を握り、怒りの形相でにらみつける、そんな姿ばかりが記憶にあった。だがこの説話では、苦しむ弟子を見て涙を流し、身代わりとなってくれる慈悲深い存在として描かれている。
地獄に不動明王が現れたときの閻魔の狼狽には、思わず笑ってしまった。
ああ、こんな不動明王がいたなら、誰も祈ってみたくなるだろう。
サンフランシスコで見た絵巻には、「Abe Seimei performing an exorcism from Legend of Crying Fudo(泣不動の伝説より、安倍晴明がエクソシズムを行っている場面)」という英語の解説が添えられていた。制作年代は1333年から1392年頃とされている。
その絵巻では、黒装束の晴明がむしろの上に静かに座り、祈祷を行っていた。右下には赤鬼と青鬼が控えており、晴明に使える
別の場面では、家来が土に膝をついて火に棒をくべている。
それらは晴明の祈祷によって姿を現した病魔たちである。だが、その表情は恐ろしいというより、どこかユーモラスで、漫画に登場するキャラクターのようにも見えた。
中ほどには、鏡台のような姿をした妖怪がいた。これこそが病の元凶であり、智興の身体に取り憑いていたもののけだった。だからこそ、晴明がそれを証空に移すことで、高僧は
この絵巻には断簡しか残されておらず、すべての場面がそろっているわけではない。それでもなお、説話の主題は十分に伝わってきた。
この伝説が長く語り継がれてきたのは、誰しも一度は「病を代わってほしい」と願ったことがあるからだろう。不動明王が涙を流し、苦しみを引き受けてくれる、そんな存在がいるのなら、見たい、信じたい。そう思うのは、ごく自然なことだ。
絵巻を観たのは、スティーブ・ジョブズが亡くなった少し後のことだった。
彼が残したとされる最後の言葉が、SNSで多くの人に共有されていた。
「他人の目には、自分は成功者に映るかもしれない。しかし、病に伏した今、ベッドの上で考えてみると、富も名声も、何の意味もないと気づいた。お金で人を雇うことはできても、病を代わってもらうことはできない」
その言葉を思い出しながら、私はふと、あの絵巻の不動明王を重ねていた。
そう、この世には不動明王はいない。
けれど、病気の子どもを見て、「代わってあげたい」と願う母の姿を、私は知っている。私自身、かつて似たような思いを抱いたことがある。
そう、不動明王は、この世にも確かに存在している。
ただ、安倍晴明が、いないのだ。
了
阿部晴明ともののけ 九月ソナタ @sepstar
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