第22話

N夫人は、一通り娘と喜び合った後で、娘に優しく言いました。

「あなた、本当は、あの便箋で恋の告白をしたのでしょう?ね?あの若者は、すっかり勘違いしていたようでしたけど」


N夫人の言葉に、娘は真っ赤になりました。そして、何も答えませんでした。でも、そのようすを見ただけで、N夫人には十分(じゅうぶん)でした。


N夫人は、それ以上そのことには触れずに、ただニコニコと、優しい笑顔を見せていました。


その夜、娘が自分の部屋で日記を書こうとしていると、青色の甲虫が机の上を、娘の手のほうに歩いて来ました。


娘はティッシュを取り出すと、それで怖々(こわごわ)と甲虫を掴(つか)みました。そして、窓を開けてそっと逃がしてあげました。


娘は、無闇と生き物の命を奪うことが嫌いでした。それは、人間を大いに悩ませる種類のものに対してもそうでした。


たとえば、夏、蚊に刺されても、娘は蚊を殺しませんでした。追い払いさえしませんでした。ただ蚊が血を吸うままに、じっと放(ほう)っておきました。


蚊が悪いのではない、と娘は思いました。ただ蚊は、人間の血を吸うように生まれついただけなのだ、と。


蚊は、害虫と呼ばれていますけれど、いったい害虫って何だろうと、娘は考えるのです。


「人は、人間の役に立つものを、益虫、益鳥、益獣と呼ぶわ。そうして、逆に人間に悪さをすると考えているものを、害虫、害鳥、害獣と呼ぶのだわ」


そういう考え方は、娘には、あまりにも人間の勝手に思えました。娘は、どうしてもそういう考え方が、好きになれませんでした。


娘としては、自分にたとえ良くないことをするものに対しても、優しくありたいと、いつも考えていたからです。

小さい時からそうだったわけではありませんが、成長していく中でそういう考えにたどり着いたのです。


やがて、娘は珍しいほど喜びでいっぱいの、その日の日記を書き終えました。娘は灯を消すと寝台に横になりました。

夜は深々と更けていきましたが、娘はあまりに嬉しくて、いつまでも布団の中で起きていました。


昼間のことを思い出しては、ニコニコと、つい顔を綻(ほころ)ばせてしまうのでした。夢の世界に入ったのは、午前三時頃のことでした。


娘と会ってしばらくしてから、 作家は、ある雑誌に娘のことを大きく取り上げました。こういう時、作家の文章は、非常に戦闘的になりました。

自分から求めて敵を作ろうとしているとしか思えないほど、激しい文章になったのです。


それは、「諸君、シャッポを取りたまえ! 天才が現れた」という文章で始まっていました。ロベルト・シュ―マンが、ピアノの詩人ショパンを世に送り出したのと同じ文章でした。


その文章の後、娘の文学の優れた点を色々と取り上げていました。ここまでは、よかったのでしたが、その後がいけません。

彼女の文学を認めないのは、頭の固い偏屈な人間だけだ、とか、そういうかなりキツい言葉をズラリと並べたのでした。

まるで、喧嘩を売っているような感じでした。

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