第15話
もし、この時に挫(くじ)けて便箋を投げ落とさなかったならば、作家は一生娘のことなど知らず、自分のことを慕っている可憐な女性がいることに気づきもしなかったでしょう。
娘にとっては作家が限り無く大きな存在であり続けても、作家にとって彼女の存在は無だったことでしょう。
でも、そうはなりませんでした。人生においては大切な時に勇気を出せるかどうかで、その後の人生がまるで違ったものになることがあります。
娘はぼんやりとながらも、そのことを感じていました。それで娘は持てる限りの勇気を振り絞(しぼ)って、便箋を若者のほうへ投げ落としたのです。
便箋は力なく揺らぎながら下へ落ちていきました。そして、うまい具合に若者の足元へと落ちたのでした。
作家は突然目の前に落ちて来た便箋にびっくりしたようすでしたが、腰を折ってそれを拾い上げました。
若者はちょっと周りを見回して、どこから落ちて来たのか見定めようとしました。
その時に娘は勇気が挫(くじ)けてしまって、少し後ろのほうに下がってしまったために、若者からは見えなかったのです。
作家は便箋の文章に目を通しました。その文章…詩を読んでいるうちに、作家の目は次第に輝きを増していきました。
「天才!」
作家は心の中で叫びました。これほど優(すぐ)れた詩を書くなんて、いったいどんな人物なんだろうと思いました。
「見事だ!素晴らしい!なんとうまい表現、技巧だろう」
作家はもう一度周りを見回しました。そして今度は、怖々(こわごわ)とこちらをのぞき込んでいる娘の目と目が合いました。その清楚で可憐な姿に作家はびっくりしました。
濃い黒髪はゆるやかに肩をおおい、腕は夢のように優しく美しく、ほっそりしていました。唇は薔薇を、瞳は湖水(こすい)を思わせました。
睫毛(まつげ)は愁(うれ)いを帯びた清らかな瞳へと伸び、頬(ほお)には柔らかに紅葉(もみじ)を散らしていました。
娘はあまりにまじまじと作家が自分をみつめるので、恥ずかしくなって目を伏せてしまいました。
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