第11話
昔の彼の作品を愛している人々の多くは、今の彼の作品が好きになれず、また分かりもしませんでした。
昔のような作品を書き続けて欲しいと思いました。作風が変わったことに腹さえ立て、わざわざそれを忠告してくれる人もいました。昔のような作品を書き続けなさい、と。けれども、若者はそんなことを実行しようとはしませんでした。
娘は若者のほとんどの作品が好きでした。大江健三郎の「同時代ゲーム」を思わせる難しい小説も喜んで読み、また正しくそれを理解していました。
娘は若者があまりにも遠い人に思えました。若者を神様のように尊敬していて、自分は到底(とうてい)あんなふうにはなれないと思いました。
自分の才能のことを考えると悲しくなりました。自信なんて少しも持てませんでした。一歩でも若者の域に近づ付けるとは思えなかったのです。
その憧(あこが)れの作家、神様のような人物が娘の家の近くに引っ越して来たのを聞いた時、信じられない思いでした。
わが耳を疑いました。そんなことがあるはずが無いと思いました。娘は不運に慣れ過ぎていたので、そうした幸運をなかなか信じることが出来なかったのです。
娘は怖いような気持ちがしました。残酷な人生に怯(おび)えきった娘の心は、幸福を信じられず、恐れたのです。
初めて若者が娘の家の前を通るのを見た時、まさに心臓が止まるかと思われました。ひそかに、そして熱烈に尊敬している作家が、目の前を歩いているのです。
人から見ればおかしく思えるほど、娘はそのことに感動しました。当然のことながら、写真と同じ目鼻立ちをしたその顔を、娘は食い入るように見つめました
娘の胸は感動にうち震え、涙さえうっすらと浮かべました。翌日もその次の日も、作家が同じ時刻に家の前を通るのを見ると、娘は雲の上を漂っているような、幸福感を覚えました。
娘は全く幸福でした。それからは、毎日作家が通るのを眺(なが)めることが、日課(にっか)となりました。
その時刻が近づくと、いつも胸は自然に速く打ちました。娘は気づかれるのを恐れて、そっと灌木(かんぼく)に隠れて見守りました。
娘は作家がずっと家から遠ざかるまで、もしや顔をあげて自分に気がつきはしないかと心配でした。そのくせ、自分が見ていることに気がついて欲しいという気持ちもありました。
自分に気がついて、おや、可愛らしい娘だなと思い、声でもかけてくれたら、どんなに嬉しいでしょう!
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