僕の一通りの釈明の中。男は頻（しき）りに右手で顎を撫でつつ、漆黒の鞣（なめ）し革に規則的に打ち込まれた銀灰色の鋲をもう一方の手指でなぞる。時折、低い声で「ふむ」「なるほど」と呟き、うんうんと微かに頷いていた。彼の一連の動作は思索の深さを物語り、黒曜石の卓に反射する淡い光がその表情の機微を捉える。こちらの言説の一つ一つを精査する男から放たれる閑寂の中、檳榔子黒（びんろうじぐろ）のファーラグに二つの影が溶けた。

　こんな突拍子もない話なのに。「疑わしい」「有り得ない」と、差し出口を挟まぬまま、真摯に向き合ってくれたことには、偏（ひとえ）に感謝している。

　通常なら茶々が入っても可笑しくない状況下、直向（ひたむ）きに接してくれる彼の配慮に触れた気がした。所詮信じてもらえないだろうと、安く踏んで愛想なく拗（ねじ）けていた心持ち。それが徐（おもむろ）に安堵していく。多少なりとも己の話を信じてもらえたのだと、そんな小さな温情を感じたからだ。乾き切った土壌が慈雨を得たかのように、心臓から全身へと脈々と広がり、指先の末端まで温もりが伝わる。凍える世界を優しく溶かしていく温かさは、ゆっくりと心を揉み解した。

　だが、その一方でもう一人の僕が胸に芽生えた希望の一切を潰していく。「不審者相手に容易く温情を見せるなど、そんな美味い話あるはずがない」と。そこまで簡単に彼に心を開いてはいけないと、心のどこかで警鐘が鳴り響くのだ。

　飽くまでこれは、腹の探り合い。決して彼は僕の味方にある訳ではなく、ただ事情聴取を行う無機質な問者として、責を果たしているだけに過ぎない。神以（しんもっ）て信頼関係を築いたとは言えない、正に尋問者と答弁者の関係。それが、僕達二人を形容する言葉として最も相応しいものと言えるだろう。

　初対面の年下相手に、喧嘩を吹っ掛けるような言動を取り、刺激を煽った。この行動は、年上である自身との距離感を曖昧にするためだったのだろうか。今となって、それは彼にしか分からない。

　ただ、驚くほど周到なまでにこちらの緊張を解し、接し易い雰囲気作りを徹底している。——その抜け目のなさに、疑念を抱かないのは難しい。

　何にせよ、距離を詰めるのが上手い彼のことだ。個人的な仮説として、ある種の二面性を、彼は上手く使い熟（こな）しているのだと予測する。複数の人格が潜む異質性の存在などではなく、親近感を覚える面と恐怖感に陥れる面が忽（たちま）ち入れ替わる。——そんな極端な二面性が、彼の中には共存するのだと。

　幼少期からの知己のように親しく近付いては、冷徹な拷問吏（ごうもんり）のように正確な情報だけを引き摺り出す。一度だけ顔を覗かせた獣のような潜在的脅威を一顧すれば。恰（あたか）も彼がそのようなことを仕出かす人間に、見えてしまったのである。

　だからこそ、安易に心を開いてはいけない。出会って間もない彼を、これほど短時間で信頼するなど以（もっ）ての外。印象操作されている可能性を疑わなければならない状況下、悠長に親交を結んでいる場合ではないのだ。

　もしや僕はとんでもない人物を前にしているのではないかと、緊張すら覚える。こんな犯罪心理分析官（プロファイラー）染みた男を相手に、【これまでの一挙一動や思考回路を明かすことを強要されている】状況。——こんなもの、ある意味で断頭台に立つ気分を十二分に味わわせてくれる。息苦しさを訴える肺腑と、冷や汗が滴る掌。口内に広がる鉄と土が入り交じった血の味は、凝固した恐怖が五臓六腑に染み渡る不快な苦味となる。生と死の境界を示す味は喉を焼くほど塩辛く、執拗なほど舌の上に纏（まと）わり付いた。

　背を正し、緊張を握り締めた拳を膝元に置く僕とは対照的に、男は優雅に背を反らして深くソファに腰掛けていた。膝上で組まれた右足が規則的なリズムを刻んでいたが、軈（やが）て組んだ足が静かに解かれる。男は緩慢な動作で腕を上げ、僕の眼前で人差し指のみ立てた右手を口許に添えた。こちらを見詰める彼の眼球は、真相を知りたがる濁りのないビー玉のようだった。

「そんじゃあ、己の身に起きた未知の事象に嘸（さぞ）かし驚いているところ、申し訳ないけどよ。今の話を時系列の順序を逆さに、もう一度、説明して欲しい」

　目の前で起きた事象を立て続けに話した僕に、彼はそう要求した。それは、端（はな）から僕の話を信用していなかった、という証跡に過ぎない台詞で。信頼や温情なんてものが微塵もなかったという事実を、正面を切って突き付けられる。

　白色の外界と室内を隔絶する呂色（ろいろ）をしたダマスク柄の遮光カーテンから、朝焼けの光が極僅かに入り込む、薄闇の中。僕の表情に、暗い影が落ちた。

　彼の中に、初対面の者を信ずる厚情が内在しているやもしれぬという、細やかな希望が。多少警戒はされても己の詳述だけは信用してもらえるやもしれぬという、浅はかな臆見が。物の見事に全て打ち砕かれたのだ。

　途中で喚起した警告が役立ち、計り知れない失望は免れたものの。それでも、胸に蟠（わだかま）る虚しさは何にも代えられやしなかった。

　思わず滴り落ちた「何だ。最初から信じるつもりなんて、ないじゃないか」という悲憤。これといって誰に宛てたものでもなかったのだが、この男はその小さな嘆きを片言隻句も聞き漏らさなかった。

　彼が「話を聞くとは言ったが、最初から手放しに全て信じるとは誰も言ってないだろう？」と迷いもなく真実の矢を射抜くのは、自明のことであろう。大人しく聞いてくれる姿勢を保っていた背後には、こちらの発言の真偽を見定めるための常套手段があった。ただそれだけのこと。

　凍て付いた大地で温もりを欲する旅人と同様に、どこかで彼に人らしい優しさを求めた。けれど、そう期待するだけ無駄なのだと。希望が砕け散った瞬間、僕の吐息は、冬の風に揺れる木の葉のように僅かに震えた。

　この先、彼の口から齎（もたら）される甘言にも釣られないよう、生半可な期待はすべきではないのだ。今この段階において、楽観的思考など排除すべきなのである。己の甘さと決別する。そうして手の中に決意を閉じ込めるため、僕は拳を固く握った。

　無論、自身の思惑に沿わない男の反応に多少の気落ちはした。然（さ）りとて僕なら彼の要望に容易く応えられる——その自信があった。何故ならば、僕は彼が疑う空音なんてものを、何一つとして吐（つ）いていないからだ。

　壁一面に張り巡らされた天まで届く書架が、薄闇の中で巨大な影を落とし、無言のまま僕達二人の遣り取りを見下ろしている。それはまるで、この部屋自体が審問の場であると言わんばかりの威容。静まり返った室内で、僕の吐息だけが小刻みに震えた。

　一つ。目覚めた時、記憶のないまま面識のない場所に迷い込んでしまっていたこと。

　二つ。そこから脱出しようにも開錠不可能な鍵で幽閉されてしまっていたこと。

　三つ。大きな書架から、小説家一和命（にのまえかずのり）の本を見付けたこと。これによって、元の世界軸と合致する証明、及びこの世界の言語が僕の第一言語と共通する事実を見出したこと。

　四つ。今正にその装丁に仕組まれた用紙の謎を解き明かす真っ最中であったこと。

　確かに、その場任せの急拵（きゅうごしら）えな内容であったなら。「時系列を真逆に話せ」なんて突飛な注文に順序が狂う、乃至（ないし）は粗筋（あらすじ）の中身が一部抜け落ちるかの、襤褸（ぼろ）が出るはず。

　しかし、目覚めた時やカーテンを開けた時を含め、何度か混乱に陥ったとはいうものの。こちとら状況把握のため、散々ぱら思考を張り巡らせてきているんだ。

　今までの出来事を把握していなければ、状況の推測など当然できたものではない。故に、順序逆転させた説明をご要望だなんて、推測に推測を重ねてきた僕にとって単なるお安い御用だった。

「綺麗に真逆に話せるってこたぁ、詰まらん三文芝居じゃねえ真実（まこと）か、或いは用意周到な準備があった虚偽（いつわり）か、……か。会話の途中、妙な表情筋の動きも、不可解な視線の挙動も、胡散臭い声の上擦りも、そのどれもがなかった。心拍も安定していた点を察するに、大凡（おおよそ）嘘の公算は小さいと踏める——かね」

　要望を難なく叶えた僕に、男は満足げに笑う。

　そして本棚にあった医療系の専門書——心理学関連の書物をきちんと履修しているのか。彼は、こちらの一挙手一投足を、綿密に余すところなく分析していた。

　安定感ある言動が、この場面において身を救ったのだと理解はした。がしかし、「心拍確認まではどうやって行ったのか？」という疑問だけが残る。尋問中、直接脈を取られた覚えもない。まさかそうせずとも、「脈拍を耳で聞き取るだけの超聴覚を備えているのか？」と考えたところ。——そこに至ったところで、「いやそれはないな」と、一刀両断に切り捨てる。

「個人的に嘘じゃないと、声を大にして言いたいですけど。残念ながら貴方にとって僕は不審者そのものなんで。簡単に信じてもらえるなんて、今はもう思っていません。抑々（そもそも）僕自身、こうして説明しながら自分の言葉に戸惑う瞬間が何度もありました。こんな突拍子もない話、信じる方がどうかしているでしょう？」

　期せずして、この信憑性のない与太話を信じてもらえるかもしれない。——などという、そんな甘っちょろい考えは最早捨て去って。諦めにも似た口調で、そう言い捨てる。

　すると男は口角を吊り上げ、にんまりと北叟笑（ほくそえ）む。彼が伏せた瞼を緩慢に持ち上げると、白百合の睫毛が微かに震え、軈（やが）て紅蓮の瞳が現れた。それは、緊張に揺れた僕の瞳を絡め取るように、強烈な光を放つ。蜘蛛の巣に捕らわれた蝶の如く、その視線から逃れることは敵わない。男はこちらをじっと見澄ましたまま、僕の態度に如何（いか）にも納得した口振りで言葉を繋いだ。

「ほう。この短時間で、狼狽（うろた）えずにきちんと状況理解できるとは。優秀優秀。いいだろう、この場ではお前の供述が真と仮定して、話を進めようか」

　一体何が、彼の信用に値する要素となり得たのか。満足いく理解はできなかったものの、しかしまあ、何とかこの場は収めてもらえたようだ。少なくとも、彼の顔色から攻撃性が消え失せたことに、内心ほっとする。暴風雨の後に漂う安息の匂い——それは、正に張り詰めていた僕の全身を弛緩させる、一時の安全を告げる合図だった。

　実際、弁解が終わるまでの間、気が気ではなかった。何しろ、男の瞳子の奥には、敵を仕留めんと息を潜める獣のような害意が根付いていたのだから。

「ま、どちらにせよ大体の主旨は理解した。今お前が口にした言葉通り、お前は自分自身でも自らの言葉に違和感を覚えてる訳だ。ただ、証言を聞く限りだと、不可解な点が残る。覚醒から今に至るまでの経緯、お前はそれを完璧に説明できたが、それ以前のことは一切触れなかった。それこそが、お前の最大の矛盾点と言えるだろうな｣

｢どういう、意味です……？｣

｢俺が聞きたかったのは、どうしてお前が【そんなに混乱している】のか。どうしてお前が【自分の来歴を上手く説明できない】のか。その根本的な理由なのさ。だがまあ、お前はそれを、誤魔化した訳でも隠した訳でもない。となれば、だ。要はお前——」

　ところが、容易に課題を完遂した矢先で。男の口からとんでもない単語が飛び出す事態は、流石に予想だにしていない出来事であった。

「——記憶喪失なんだろ？」