05 «釈弁»
しかし、ちょっとした意趣返しのつもりで叩いた軽口でも、男の端正な
一方で、あまり刺激し過ぎるのも良くないだろうと。心のどこかでそう予見はしていた。吹き付ける木枯らしのような寒々しさが横切る——そんな気配があったからだ。
若干行き過ぎた感も否めない己の発言に、「ヤバいかも」と多少焦るものの。既に口を出た言葉を引っ込める術はない。調子のいい言葉も、ここまでにしなければ。
「何だこのクソガキ。さっきまでビビり散らかしてた癖に、途端に
正に、【触らぬ神に祟りなし】とはよく言ったものだ。僕の口からしょうもない戯言が滑り落ちた瞬間、室内の空気が凝固し、本棚に並ぶ数多の書籍が一斉に息を潜めた。頁の隙間を縫うように、男のピリついた気配が駆け巡り、革装の表紙が僅かに反る。背表紙に刻まれた文字の間には、険悪な殺気さえ
これ以上
機嫌を損なうだけならまだマシというもの。攻撃性を含んだ雰囲気を発していることに、本能的な危機感を覚えたのは言うまでもない。二の句を告げんと男の口唇が開く度、そこから覗く鋭い牙に無意識に身構える。もし彼が肉食獣のように牙を剥こうものなら、脆弱な草食獣に過ぎない僕はあっという間に屠られるだろう。そんな張り詰めた緊迫感こそが、男の内に秘められた本質的な危うさを如実に表していた。
「いやいや、ただの戯れで一々人の命奪わないで下さいよ。人類根絶やし待ったナシじゃないですか」
「さっきから随分とお喋りな奴だな。……ったく、ムカつく
男との邂逅直後、確かに僕の喉は締め付けられ、言葉が肺腑の奥底に沈殿していた。故に舌は
鋭利な舌鋒が男の顔を掠めた瞬間、不快感を煽られた男の表情は微かに引き攣る。僕の饒舌さが男に与えたもの、——それは。泥沼から這い上がる腐敗した泥水が、新鮮な空気を汚染する腐臭を放つ嫌悪であり。甘い蜜を装う毒の果実が、不意打ちとばかりに苦味と酸味と渋味を残す
様々な感情が入り混じった状態を持て余したのか。男は気散じに書棚をちらりと見遣り、「お子様が熱中できるような本なんてここには置いてないはずなんだがな」と呟いた。
怒りに任せた暴挙に出ることなく、眉間に縦皺を刻む程度に済ませてくれた。——彼のこの行動は、今の状況において最も幸運な救済措置だったのだろうと思う。実際、L字のカウチソファに沈み込む僕の心臓の震えは、暫く止むことがなかったのだから。
それでも、事なきを得た安堵感を叫ぶかのように。小洒落た室内に走っていた不似合いな戦慄は、既に雲散霧消していた。逆立った絨毯の毛足が枝垂れ、萎れた観葉植物の葉が
男は、険しい表情で軽く溜め息を
「まあいい。お前の言う通り、今回売られた喧嘩は水に流してやる。——但し、これまでの言動全てがタダで帳消しになるとは思ってくれるなよ」
お咎め自体は、一旦保留してくれるようだ。がしかし、この一連の茶番の最中においてなお、本筋を解き明かす態勢を崩すつもりは微塵もないらしい。
獲物を逃がすまいとする炯眼は、まるで蛇である。重要な話題を引き出すまで離すまいと言わんばかりの執着と
その蛇に睨まれた蛙宜しく身を竦ませ、
「条件がある。今までの茶番を綺麗さっぱり水に流してやるためのな」
それ見たことか。これまで
「ここまで入り込んだ映えある侵入者は、お前が初めてでな。色々と詳しく知りたいんだ。つまり、俺が求めるのは【今お前がここにいる
十全とした警備の布陣に、余程自信があるらしい。僕がこの場に存在することが、理解の範疇を超えた事象だとでも言いたいのか、男はただ冷静沈着に仔細な状況解説を欲する。それはまるで、堅牢な要塞に侵入した賊を前にした城主。恐怖や焦燥などの露骨な動揺を見せることなく、興味本意で不埒者の動機を詮索したがるそれに酷似している。それでも玻璃のように透徹した柘榴石にだけは、不審の念が全面に押し出されていた。
しかしまあ、ことの次第の把握はそう難しいことでもない。十中八九、彼はここの家主。そして、事態の真実を知らない彼にとって、僕は不法侵入を犯した不審人物に該当する——というプロセスだ。
何にせよ、この男は、邂逅直後から強大な猜疑と些少な憤懣を宿した眼光を放っていた。不審者相手なら、獣のように威嚇するのも当然か。
その場合は、僕自身の身の危険も問題として浮上するのだが……。しかし、今は考えずともよかろうと、一旦目を逸らしておく。
そしてこれは、世辞にも好ましいとは言えない最悪のエンカウント。長きに渡って封じられていた地獄の窯——その錆び付いた
彼からの疑いの炎を消し去るには、真実という名の冷水を今すぐ注がなければならない。僕が疑惑を晴らすためにできること。それは間違いなく、説明義務を果たすことであろう。
「弁明する前に、最初にお伝えしておきたいことがあるんですけど。一応僕は、この通り至って頭は正常なので、そこを前提に説明させて頂けますか?」
「ほう、他人に向かって神様だのと抜かした奴がよく言うね」
「そ、それは忘れてください。僕だって詐欺に遭った被害者の気分なんですから」
「何の被害だ。ま、聞くだけなら聞くさ。嘘偽りなく、詳細に、教えてくれるんだろう?」
背凭れから背を離して膝の上で手を組む姿は、
但し、真摯な仮面は所詮見せ掛けに過ぎない。仮面の裏から覗く研ぎ澄まされた視線は、瞬く間に深淵へと沈み込み、微かに瞳孔を拡張させる。
そして、男の唇は、戦慄を呼ぶ不敵な笑みを浮かべるかの如く、弧を描いていた。だが、欺瞞を許さない無慈悲さが、言外に「下らない嘘を
彼のレッグホルスターに収納された拳銃をちらりと眺めつつ、「下手を打てば殺される」なんてことも想定範囲として。遂には順序立ててことの顛末の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます