07 «喪失»
思い掛けない台詞が上手く飲み込めず、返答に間が空いてしまった。僕と男の二者間に、緊迫した無音が満ちる。その静けさの中で、心臓の音だけが絶えず鳴り響いていた。血潮を滾らせ全身を駆け巡る拍動は、鼓膜を震わせるほどに大きく、煩わしい。
「記憶喪失!? いやいやいや!! 何いきなり面白くもない冗談言ってんですか!? 単純に記憶がないと言っても、少し忘れてるとか、軽く頭打ったとか、その程度の問題ですって。そんな深刻に構えるレベルまで話を飛躍させるのは、流石に冗談が過ぎますよ?」
記憶喪失——意表を突くには正に十分なワードだった。冗談半分に抜かしているのかと、
否定的かつ断定的に論破したかった。少々物々しくないかとも思った。だが、【起床前どころか就寝前の記憶全てがごっそり抜け落ちている】という異常事態は、彼の言う通り明らかに可笑しいのである。
まるで穴が開いたかのように、起きる前の記憶がない。【読書愛好家】【
「お前という人物を今一度、証明できるか? 年齢でも職業でも出身地でも、何でもいい。何か一つだけでも、思い出せることはあるか?」
ふう、と細い息を漏らした男は、やれやれとでも言いたげに長い指を額へと押し当てる。指先が眉間へ滑ると、そこに深く刻み込まれた皺を揉み解す。そうして彼は、何とも言えない小難しい表情で、口元を一文字に引き結んだ。そこから更に深く長い息を吐き出すと、彼の双肩が静かに上下する。そのまま緩慢な
様々な脳の引き出しを巡回し、自身を構築する情報のあまりの乏しさに改めて
口内に広がるのは、生煮えの苦汁のような不快な風味。それは僕の内臓を蝕み、喉の奥にへばり付く。言い訳など敵うはずもなく、ただただその苦さを飲み下すしかないのだ。
一種の記憶として、「二人の兄妹がいる」と声高に宣言したかった。家族構成くらいは覚えているぞと、細やかな反抗心があった。だが、より深く思い返せば、その目顔が黒く塗り潰されたように想起できない
記憶として全く成立しない断片的情報に踊らされ、気抜けする僕。男は更に畳み掛ける。それは実に明確に、正確で。かつ、出会った直後から収集した材料を見せ付けるかの如く紡がれた、克明な言葉。事実から目を背けたがる僕を見透かしたその声は、重い鎚と化し、僕が抱いた脆い幻想を打ち砕いていく。
「常識や知識、起床後の記憶が十分残っている。ってことは、意味記憶は保持されたままエピソード記憶が障害された、【逆向性健忘】と考えるのが、
そう、名前だ。現状僕は自分の名前すら思い出せない。自分自身が何者であるかを証明できない。そして悲しいかな手ぶら——身分証明書など持ち合わせていないときた。
ただの迷子なら良かった、ただの夢なら良かった。こんなもの、完全な詰みというやつではないか。今正しく胸の内では、「私は誰? ここはどこ?」という、あの
「名前も年齢も職業も出身も、……何も思い出せない? そんな馬鹿な話ってないだろ……。それじゃあ、これから僕はどうすればっ……!!」
お先真っ暗とは正にこのこと。不本意ながらも、住居侵入罪を犯したお尋ね者になってしまった挙句、記憶喪失で何も証言できない。こんな状況下で助けてくれる物好きな人間など、誰一人としていないだろう。
気持ち的には、いっそマスメディアにでも出演したいものだ。「私が何者か誰か教えてください」とでも、民衆全体に協力を仰ぎたいところだった。だが、
全ての物語が白紙に戻った、僕という一冊の書物。まるで始まりの一頁から過去も未来も何も綴られない、
巨浪に飲まれ沈みゆく船のように、地べたに
「お前が見付けた紙、それに何か書いてあるんじゃねえのか?」
「え、……あ。……あっ!!」
そうか! 紙、紙だ!!
男の示唆に首を
そうだ。見付けた当初は、これが何か重大性を秘めたものだと予測していたではないか。これが何かの足掛かりになるかもしれないと、胸躍っていたではないか。
輝きを取り戻した眼で期待を膨らませ、少々興奮気味ながらも「中身を確認したい」と申し出る。突然物凄い剣幕でにじり寄ると、男は一歩後退りした。
「あのこれ! この書籍の帯の裏に付いてたんですけど、貴方が仕込んだ訳じゃないですよね……?」
固く閉じた拳の中からメモと帯紙を取り出して見せると、男は鋭利な眼差しを僕の顔面から書籍へ滑らせ、不愉快そうに眉根を寄せた。忌々しげに舌打ちを一つ鳴らした後、皺が寄り歪になった帯紙を指差す。
「確かにそりゃ俺の私物だが、そんな仕込みを入れたのは俺じゃない。……と、言うより、何だそのぐちゃぐちゃの帯はよ。
彼の返事を聞き終えるや否や、僕は慌てて両手を広げ、誤解を解くための言葉を紡いだ。きっと僕の眼は、獰猛な獣の前に曝された小鹿のように、命乞いの色を示していただろう。
「いやいや違いますよ! これは、その、いきなり声を掛けられて手元が狂ったというか、事故なので。とにかく、許して下さい!! で、これ! これが【何故僕がこの場所に迷い込んでしまったのか】という理由に繋がるヒントになるかもしれないんです! 開けても、いいですか——?」
僕の切実な訴えに、男は無言で暫し思案に耽る。その面差しには、諦念と苛立ちが
「あっ! はい、開けますね!!」
彼の所有物の一部をぐちゃぐちゃにしてしまった罪悪感で、若干声のトーンが低くなる。それでもやはり、綺麗に折り畳まれたメモ用紙に書き込まれた内容が、当初所期した目標ではないかと。そう考えると、自然と声音は大きくなる。
きっとこれは、【僕の正体を指し示すもの】や【それに準ずるもの】に違いない。その確信が鼻腔を満たす。古紙とインクの匂いは、失われた記憶と混じり合い、甘く懐かしい香りとなる。まるで、遠い過去の情景を呼び覚ますように。
男は、こちらの白熱した勢いに気圧されたのか、嫌味を吐いて口を尖らせていた
息を凝らし、遂にメモの中を開いてみる。
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