04 «反駁»
「——えっ、……え?」
室内を満たす葡萄柚や橙の芳香が、前触れもなく増長したような感覚へ陥る。耳馴染みのない声の登場と共に、
「何が『え?』だ。胸糞悪い間抜け
ソファから恐る恐る目を向けた先。——声が聞こえた発信源に立っていたのは、
「……神さま?」
まるで
異彩を放つ明眸は、
単に男の容姿に魅入ったか、はたまた尻込みしたかは分からない。けれど、僕の記憶にある神の定義に酷似した彼が、どうにも眩しく見えて仕方がなかった。
あまりに非現実的な風体を目前にした時、どうやら人は
そんな混乱に満ちた思考が駆け巡る一少年が意図せず零した言葉、それこそ「神様」だ。こちらの一言を掬い上げた彼が、次に放った台詞。それはとても神とは形容し難い、粗野で乱暴で、そして酷く下劣的なものだった。
「——寝惚けてんのかゴミ野郎」
男の月長石色に染まった前髪が揺れる。隙間から覗くのは、
前言撤回、この野郎が神様であるはずがない。真の神が、初対面の人間に正面を切って「ゴミ野郎」と痛罵を浴びせる。——そんな低俗な真似が、できる訳ないのである。
浮世離れした容姿から低劣なチンピラめいた言動が飛び出るとは、いやはや見た目詐欺にもほどがある。
確かに、呆気に取られたが故に出た僕の失言は、何の脈絡もなかった。何の脈絡もなければ、巫山戯ているようにさえ取ることができたと思う。男が呆れ果てるのにも、頷ける。だとしても、「ゴミ野郎」などと謗られる
男の威圧に
現に沸騰しそうな血液が脈管を叩き、脈動が皮膚を引き裂きそうなほどの圧迫感を生み出しているのだから。怒気から生じる震えが、指先から掌へ、掌から胸へと伝播し、全身に及ぶ痙攣を錯覚させるものの。それを表に出さないよう、僕は昂る感情を押さえ付けた。
「気持ち悪い奴だな、お前。
男の皮肉は、露骨に毒々しさを増していく。猛毒を吐き続ける彼のその双眸は、深山に棲まう山神が、下界の者達を
普段の自分は、温厚な人種だと自負している。自負してはいるものの、見ず知らずの男にいきなり真正面から漫罵されると、多少なりともカチンと来るものらしい。無礼極まりない不遜な物言いに、こちらを挑発するような男の振る舞いに、意図せず
愚弄された事実が喉を焼くような苦汁へと変容し、
大体、何故薬物中毒者扱いまでされなくてはならないのか。そんな連中と疑われるほど、頓珍漢な発言をした覚えはない。
僕にそこまで蔑まれる理由が何かあるのか、というより。男の方が何らかのストレスを抱えていて、それを発散しようとしたが故の言動ではないかと。突拍子もなく飛んできた侮辱の根元たるものを、そう勘繰ってしまう。
とは言え、僕とて彼の嵐を一身に受ける、打ち捨てられた防波堤ではないのだ。こちらを砕かんとばかりに打ち付ける荒波を、寛容に受け入れる必要などどこにもない。つまるところ、いいように言われっ放しにされるのが性に合わぬと感じた訳である。
寂寥たる帳が剥がれ、無遠慮な男が吐き出す言葉の残滓が、烈火のように壁を這い回る。絨毯に転がるのは、燃え尽きた激情の煤などではなく、燃え上がる憤怒の蝋燭だ。床板が軋む音さえも、今は対立の序曲に聞こえた。僕と彼——対峙する二者間にあるのは、今か今かと発火する時を待つ、内なる業火の静かな胎動なのだ。
私憤に
「そっ、そんな訳ないでしょ!! あーあ、僕の一時の気の迷いでした。この世界にこんな口汚い神が居る訳がない。こんな軽々しく神様だなんて言っちゃ駄目ですよね。全く本物が知ったら『失礼だ』って叱られちゃうな。少なくとも僕の知る限り、神様というお方はもっと上品でしたからね、ええ! 『ゴミ野郎』発言は有り得ない、有り得ないですとも!!」
確かに会遇当初は、彼の張り詰めた空気に物怖じするだけだった。しかし、面識のない男にここまで好き勝手に言われてヘコヘコし続けていられるほど、僕の堪忍袋の緒も丈夫ではない。息も
「大体神様と間違われたことに対して、何で『ゴミ野郎』だなんて酷く罵倒する必要性があるのか。それすら、僕には理解できませんけどね! もし初対面の人間がちょっと
「え、何? 喧嘩売られてんの、俺?
「先に言葉という武器で暴力を振り
本人にとって圧倒的有利な条件である
その時は正に恐れなんてなかったと思う。ああ言われればこう言う——だなんて、軽いお喋りの応酬がスラスラと出てくる。自分でも恐ろしいくらい大胆な受け答えをしていたものだから、口が独りでに走り出したものとさえ考えた。
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