16
結城の苦笑に誘われ、一同の目はモニターに釘付けとなった。
「でも」片桐も先ほどまでの足場の脆弱な仮説をいとも容易く投げ捨てると笑った。「間隙を縫うというか、重箱の隅を突くような感じで捻り出されているわね」
「それでもいい気持ちはしませんね」
言葉と裏腹にどこか楽しんでいる節がある。結城は口元を緩ませながら三度ほど首を振っていた。神崎が彼の座席に歩み寄ってくる。
「さっきお前の言っていた、ルナが事象を選択しているってのを採用するとなると、ルナがお前を犯人と決めたということになるよな」
「記述の中でも触れられているけれど、推理小説的な起伏なのかもしれないわね」
「あの」雛森の躊躇う声が三人を振り向かせる。「LUNAの外殻に損傷が見られないって『太田』が言っていますけど、これってどういうことなんでしょうか?」
遠慮がちな上目遣いで意向を探る。片桐はその様子に怪訝な視線を投げかけた。
「何か考えでもあるみたいね。……教えてくれないかしら?」
雛森は意表を突かれて目を丸くしたが、すぐに平静を取り戻すと言った。
「突飛なことだと思わないでくださいね。本当にちょっと考えたことなんで。
さっき別の次元がこの現実に影響を与えるっていう推測がありましたよね。ドアが開いたっていう。あれが本当だとすると、もしかすると……もしかするとですよ、『錯綜の彼方へ』、つまりAでLUNAの外殻に被ったダメージというのが、現実であるBに変移してしまったと考えられませんか? Aで刻まれた傷がBに移ってしまったと」
控えめな声が伝え終わると、一同の間に呆然とした沈黙が訪れた。あまりにも飛躍した仮説。当の雛森はそれきり口を閉ざしている。
「これはまた」苦笑が搾り出される。神崎は雛森をまじまじと眺めている。「すごい話が出たな……」
「でも、ドアの問題が真であると前提したとき、現象が時間軸を突き破って加減されたり、バランスをもたらしたりということはあり得ないことじゃないかもしれないわね」
「バランス……」結城は興味深げな顔を片桐に向けていた。「この世界の根底にある力といわれていますね。『錯綜の彼方へ』の『10』でも触れられていますが、真空において発生する揺らぎはプラスとマイナスの粒子が発生することによります。プラスとマイナスは、二つでゼロをなしバランスを取っているのです。物質に対する反物質のように、そして概念としても、例えば言葉には対義語が存在するというように、世界はそれ自体に天秤を孕んでいるのです」
「そういう話は聞いたことあるけどな」
「そう考えると」神崎の言葉を無視して結城は先を続ける。「無限に存在する時間軸は総量がゼロとなると考えられます」
「あ、そうか」突然に片桐が声を上げる。「二つの次元でドアが開いたことはバランスから見れば、おかしなことだと思っていたのよ。『錯綜の彼方へ』でのLUNA外殻のダメージがこちらに移ったのならバランスは保たれるからね。ドアは両次元で開いていてバランスが成り立たない。でも、そうよ、次元つまり時間軸は無限なのだからこの二つでバランスが成り立たなくても他の無数の次元が総体的にバランスを保っているのなら、全く何の問題もない」
「そんなことよりも」神崎は半ば必死に主張する。「無数の次元の総量がゼロって大変なことじゃねえか。俺たちがここでこうして話しているということも、全体を見ると何も起こっていないってことだろう?」
「今こうして存在していることを、知覚しているじゃない」
「いや、だがな」彼は少し冷静を欠いていた。「全体を見れば何も起こってないってことなんだろ」
「私たちには私たちの住むこの次元しか知覚できない。それがすべてよ。それに、有次元は無次元を認識しない。逆も然り。結局は何も起こっていないということではないのよ」
「もうわけが分からん」
振り切るように手をひらひらとさせると神崎はそう言って、切り替えの咳払いを発した。
「本題に戻ろうぜ。LUNAの外殻のダメージが現実に移ってきてるかもしれないってやつだ」
「考えると、この次元に移ってきたと言い切ることはできないわね。他にも無数の時間軸があるのだから、そのどこかに移っていったとも考えられる」
「では」結城がその一言と共に座席から立ち上がる。「確認しましょう。それがなにより一番早い」
結城の、望遠鏡を使ってLUNAの外殻を調査するという提案は、ごく自然な流れであるかのように一同の賛成を得た。彼らは、長く腰を下ろしていた座席から腰を上げると思い思いの方法で体のあちこちを伸ばしていた。
L‐5への道は深海の底を通るトンネルを行くかのようであった。暗闇と、それを切り開く青い光が幻想といくばくかの絶望を孕んでいた。相も変わらず静謐は満たされ、空気がクリスタルと化しているように固い。
L‐5に到達した一同の目は一点に集中していた。何故かあの擬似ホログラムの宇宙が輝きを放っていたのだ。周囲はそのぼうっとした光が這い出して闇を彩っていた。小宇宙は、そうしてどこか無愛想に光をもたらし続けた。
「何故これは起動しているんでしょうか。ルナ・コムも隔壁のコンソールも反応しなかったのに」
結城はその擬似ホログラムの前までゆっくりと歩み寄ると、じっとそれに見入っていた。そのまま動かない。
「まあ、いいや。望遠鏡で調べてみようぜ」
神崎は我先にといち早く望遠鏡のモニター・ヴィジョンへ駆け寄った。結城の視線がそれを追う。その表情は固く閉ざされていた。
神崎が席に着くと同時にモニター・ヴィジョンにコントロール画面が現れる。
「とりあえず外殻を見てみるか」
神崎はコンソールに向かうと、近傍カメラを設定した。すぐさまモニターにはLUNAの白い外殻が映し出される。陽光に白が眩しく映える。視点を操作してぐるりと見回す。被害は全く見られない。
(そうよ、だいいち、物理的な被害があったとすると、衝撃もなかったのに、どうやってそれが現れるというの?)
根本的な仮説の問題点に行き当たり、雛森は一人赤面していた。
「次は反対側だ」
多少の疑いもあったのだろうが、神崎は意気揚々とカメラを切り替えていた。雛森は、その様子を見ながら、外殻にダメージは見出せないのだと考えていた。
果たして、彼女の予想は的中する。
「ねえな」
与えられたおもちゃに飽きたように神崎のつまらなそうな声が告げた。
「やっぱり――」
雛森が仮説の問題点について論じようというとき、神崎の口が再び開かれた。
「あれ、待てよ。今見て思ったんだがよ、これって外殻の円部分は見ることができるんだよ。だが、円周部は見ることができない。つまり」彼は床を足でドンドンと叩いた。「この俺たちが足をつけている円周部はカメラの死角になってるじゃねえか。おい、なんでもねえことだったんだよ。『錯綜の彼方へ』では外殻にダメージがなかったんじゃなくて、円周部にダメージがあったがこの望遠鏡では見ることができなかっただけなんだ」
その簡潔な解法に雛森も目を丸くしていた。しかし、結城は浮かない顔で言う。片桐も同様の表情を浮かべていた。
「そうでしょうか。確かに、神崎さんの仰るとおり、『錯綜の彼方へ』では外殻に損傷が見られないと言っている。そして望遠鏡に死角があることも事実なわけです。しかし、同時に円周部に損害があるのかないのか、その事実には触れられていない。つまり、円周部には損傷があるかもしれず、また、ないかもしれないのです」
神崎の驚きの表情はそのままであったが、彼は余裕を見せた。
「シュレーディンガーの猫、なんて言い出すんじゃねえだろうな?」
対する結城は愉快そうにしていた。
「おや、残念。ばれてましたか」
「知ってるさ。本でよく見るからな。それに、推理作家ってのは、よほどこの猫が好きらしい。推理小説じゃあ、よく見かけるぜ。まあ、とにかく、実際に確かめなきゃいけないってのは分かったぜ」
「そういうことよ」片桐は大きく頷いていた。「だから、外殻のダメージがこの次元に移っても……」
「あの」珍しく雛森が言葉を遮る。「それなんですけど、ちょっと考えたんです。間違っていたんじゃないかって。『錯綜の彼方へ』でのLUNA外殻のダメージがこちらに移ってきた場合、一体どうなるんでしょう? 何かがぶつからなくちゃいけないですよね。ダメージだけが急に霧みたいに現れるなんて物理的に考えられませんよね。ということは、この次元にダメージが移るとき、何かがこのLUNAに衝突しなくちゃいけないはずなんです。でも、今までそんなことなかった。だから、間違いなんじゃないかって考えてたんです」
「ああ、そう、ね」
片桐は居心地悪そうな笑みを貼り付けると、溜息をついた。雛森は、片桐に期待させるようなことをしてしまったのだと思っていた。
「もうちょっとLUNAの中を調べていったほうがいいんじゃないかしら。ここみたいにまだ動いているところがあるかも」
歩き始める片桐に結城も声をかける。
「そうですね。みんなで見て回りましょう」
四人は連れ立ってまずはL‐6へと足を踏み入れた。仄かな青い光に照らし出される中、幾台ものゲーム機が不気味に並んでいた。
「駆動音はしないですね」
結城が三人を見回して言う。彼の言うとおり、L‐6に設置されたゲーム機は揃って沈黙を決め込んでおり、吐息すら聞こえなかった。
結城は前に立ち、L‐6を後にする。
「L‐4は、さっき神崎さんと調べてみたところ食料の保存はきちんとされていました」
「ああ」神崎も彼の言葉に天井を見上げるようにして思い出していた。「そうだった。で、ルナは人間が生存するに最低限の環境を維持していると推測したんだったな。そういや、酸素の問題はどうなんだ? 今まで時間が経ってるが大丈夫そうだが」
「そうですね。こうして体調もいつもどおりなのを見ると、どうやら酸素の生成は忘れられていないようですね」
片桐は怪訝な表情を崩さなかった。意味もなく眼鏡をかけなおすと、それを自身の合図としたかのように話し始めた。
「その話だと、ルナはここに私たちがいることを知っているように聞こえるのだけれど。でも、それならどうして照明が消えたりしたのかしら? あれは事故のようなものだったのかしら。それともルナの意図したことだったのかしら」
「その照明の話で思い出したんですが」結城の肩が小さく震えた。「神崎さんが言うんです。トイレに入っているときに電気を消されると、見放された気持ちになるとね」
雛森も声を出さないように笑っていたが、片桐は眉をひそめて神崎を見た。
「ふざけたことばかり言って」
「仕方ねえだろ。俺は分野外。事故原因の究明は任せたんだからよ」
「そうは言ってもねえ!」
「でも」雛森の声が片桐を押し留める。「神崎さんの言うこと、よく分かります。例えば、部屋にいるときでも電気を消されたら、ちょっと無視されてるような気がしますから。さっき、電気が消えたときも、そんな感じでした」
今ではすっかりと慣れてしまった暗闇を一同は歩いていた。L‐5を過ぎ、L‐4に差し掛かっていた。
「事故で電気が消えたとは考えていなさそうな口振りだったが?」
神崎の視線を受けて片桐は少し意外そうにしていたが、彼女は素直に頷いた。
「事故で照明が落ちたのだとすると、電力が落ちたと考えるべきでしょう。そうなると、ルナ・コムのモニターはもちろん、酸素供給やさっきの擬似ホログラム、そして食品の保存も機能しなかったはずよね。でも、そうじゃない。どうも選択的に機能を失われているように思えるわ。でも、そう考えると、やっぱりそこにはルナの意思が絡んでくるように感じられる。そのルナはあたかも私たちを無視しようとしているのよ」
「意図的に照明を落とした……」
「存在を否定されたようで腹が立つぜ」
雛森や神崎の感慨と、片桐の熱心な語りを背に結城はL‐4を回った。その様子は淡々として機械のようでもあった。調査は確認となり、以前に結城と神崎が発見した冷蔵庫等の動作はそのままであった。
「私たちの存在を否定しつつも、生存条件を維持しているというのは意味がありそうね」
片桐たちの口は未だに止まらなかった。主に片桐を意見や推理を述べ、それに雛森と神崎の二人が反応するといったところだった。結城だけは健気に口を閉ざしたままLUNAを調査していた。
「そうですよね。あえて無視をしているっていうか」
そんな結城の思惑もどこ吹く風、雛森の相槌が響いた。
一同はLUNAの各所を見て回ったのだが、簡単にいえば機器類が起動しているのは、確認されたL‐3のルナ・コム、L‐4の食材保存機構、L‐5の擬似ホログラムと望遠鏡、そしてLUNA全域に及ぶエア・コントロールシステムで、それ以外は悉く沈黙していた。
帰るべき場所とでもいうように、一同はL‐3のルナ・コムの所定の位置へと腰を下ろしていた。
「この」神崎は見上げるような格好で結城に言った。「青い照明はなんなんだ?」
「これは恒常照明といってその名の通り、常にLUNAの内部を照らしているものです」
「あら?」
神崎が結城の答えに相槌を打つ直前に、片桐の幾分間の抜けた声が上がった。三人がびっくりして彼女を見つめる。
「LUNAにはソーラー・システムによる電力供給があるのは、『錯綜の彼方へ』と同じよね。だからほぼ無尽蔵のエネルギーが供給される。今は供給されたすべてのエネルギーが使用されていない。余剰エネルギーは何に使われているのかしら?」
片桐はここで間を取った。三人は黙して先が続けられるのを待ち構えている。
「何かの精神活動に用いられているのじゃないかしら。例えば、あの存在しない二人の人物の想像に、とか。もしくはこの記述に相当なエネルギーが消費されているのじゃないかしら」
「そうだとすると」雛森の神妙が顔が呟く。「この記述に事故の原因があるのかもしれませんね」
「余剰エネルギーは生まれないのです」
結城がつまらなそうに言い放つと、片桐は肩を竦めて苦笑した。
「エネルギーの取得は選択的に行われます。その選択は基本的にルナが判断しています」
「そう……。早く言ってほしかったわね。重大な発見をしたのかと思っていたんだから」
結城はただ一言、すみませんと笑った。
「そういえば、さっきなるほど、なんて言っていたみたいだったけど、あれはどういうことなの?」
すかさず片桐は反撃する。眼鏡の奥が光を放つ。対する結城は、はじめからその問いを予想していたように頷くだけだった。
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