15

 どこかで満足げな表情を秘めている結城が、そのまま口を開かないのに怪訝に思いながらも雛森はわけも聞かずに新たな更新部分に目を通していた。

 今『錯綜の彼方へ』の記述は『15』に差し掛かっていた。『太田』は片桐殺害の罪で映画館へと軟禁された。次の犯罪を防いだとばかりに一同はひとまずの安心を得ているようだった。

 雛森は記述を読み終えて沈思黙考の体だ。意識の上層に上り詰めるのは、ルナと記述のこと。結城は、この『錯綜の彼方へ』が補助線のようなものであるとした。しかし、雛森自身が口にしたように、記述内の時間も現実と同様に進んでいるようだ。これでは、補助線はまだ描かれている途中になってしまう。

(じゃあ、どうしてルナはこれを記述したんだろう)

 同時に二つの世界の時間が進んでいるというのが鍵となるのだろうか。そこまで考えて雛森はやはりルナはこれを今同時に起こっている別次元の出来事というようにしているのだと思い当たる。

(そうとしか考えられない。でも、やっぱり、どうしてこれを……?)


 喉に埃っぽいものを感じて、二つばかり咳をする。

 片桐はポケットから最後の飴を取り出すとそれを静かに口へと運んだ。気になるのは、結城の発した言葉だった。

(何を理解したのかしら?)

 片桐はその真意を婉曲にでも聞きだしたかったが、場の雰囲気は中途半端に熱を残し、その言葉を紡ぐにはもう少しの後押しがほしいところだった。彼女は手持ち無沙汰で目のやり場を求めていた。自然とモニターの文字を追っている。『太田』と『多良部』。知る由もない名前。彼女には、この未知の人物たちが鍵を握っているような気がしていた。別次元というべき記述の世界で、彼らは何故生まれ落ちたのか。

(彼らの存在が、補助線ということはできないかしら)

 飴を舌で弄びながら推測を進めていく。喉の若干の痛みはそうしていれば気にならないのだ。

(結城さんは二つの次元を比べることでなにかを得ることができると言った。二つの次元において、顕著な差異は何かしら)


 結城が何も言わないのを怪訝に思いながらも、どこか空中分解したような微妙な空気に耐えかね、座席に身を委ねた。

(全く……。いつになったらここから解放されるのかね? 事故の原因は一向に分からねえし、こいつらはこいつらで次々と小難しい話をしやがる)

 それもやむなし、と彼は妥協する。ただでさえ、先端技術の水であるLUNAだ。そこに起きた原因不明の事態となれば、解決は難しいだろう。そこに、不可解な記述と来た。問題はよりいっそう混迷を極め、議論は進む気配を見せない。まさに今、四人はその場で足踏みを繰り返すだけの傀儡であるように思えた。


 結城がだんまりを決め込んでいると、片桐は場の雰囲気を取り戻そうとゆっくりと静かに口を開いた。二つの次元における差異は一体なんなのか。

「やっぱり、事故の様相と二人の人物に終始すると思うの。『錯綜の彼方へ』では二人の人物が加わり、事故の原因が変わった……。

 なにかを探求するときに、確実な推論を繋いでいくよりも大胆な閃きが状況を一変させることはあるわよね」

 彼女に似つかわしくない譲歩に、神崎は驚きを隠せない。笑いを混じらせながら言う。

「やけに殊勝だな」

「飛躍していると思われるかもしれないから、釘を刺しただけよ」そう言って神崎を睨むと咳払いをひとつして本題に移る。「飛躍と思われても仕方のないことだけれど、仮説を立ててみたの。『錯綜の彼方へ』では二人の人物の登場とともに事故の原因が現実とは異なっているわよね。ということは、こうは考えられないかしら。二人が『錯綜の彼方へ』の事故原因を作った、と」

 片桐としては、すぐさま批判を受けると構えていたのだが、案外三人は静かであった。彼女にとっては、この沈黙は本来とは逆に少し辛いものがあった。雛森は一人「そんな」と呟いている。

「そうなると、どうなるんだ?」

 誰も口を開かないことに居心地の悪さを感じたのか、神崎が応える。

「逆説的に考えると、この現実での事故はこの二人がいないからこういう様相を呈しているのだということよ。原因がこの二人によって左右されていると、この登場人物と事故の原因だけに着目すれば、言うことができるのよ」

「ちょっと待てよ」

 神崎の言葉は、解釈しきれないことに憤慨しているというよりは理性的に理解しようとするものだった。彼はこめかみに人差し指を当てて唸っている。

「『錯綜の彼方へ』じゃあ、物理的なものが事故の原因となっているんだよな。つまり、デブリだかメテオだかが衝突したってやつだ。お前の話じゃ、この『太田』と『多良部』がいることでそれが衝突したとでもいうのか? そしてこいつらがいないから現実では原因も不明な事故が起きたってのかよ?」

 雛森は神崎がまくしたてた言葉を耳にしつつ軽い眩暈を覚えていた。彼女は辛うじて言った。

「逆ならしっくり来る気がしますけど……。だって、現実のほうが非現実的じゃないですか? なんの物理的な原因がないのにこんな事態になるなんて……」

 片桐は彼女の疑惑を受け流すと、神崎の整理した仮説の内容に首肯する。

「その二人が事象の枝分かれに重大な意味をなしていると思うの。だから、彼らがいたから事故の原因が変容したという言い方になったんだけど……。確かに、芽衣ちゃんの言うとおりこっちの次元ほうが現実味にちょっと欠けてはいるわね。

 でも、何故存在、非存在によって原因が変容していくのかという根本の原因は分からないのよね。これを記述しているのはルナだから、ルナの内面に何か鍵があるだろうとは予想できるのだけれど」

「そうこう話しているうちに」しばらくぶりに口を開いた結城がモニターを指差している。「どうやらあちらの世界では僕が犯人である説が出てきてしまいましたよ」

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