第28話 届いた声

こん、と背中に固いものが当たった感触にユーリが振り向くと、まだ若い女性が憎しみの感情を浮かべてユーリを睨んでいる。

足元に石が転がり、彼女からぶつけられたのだと分かった。


「あんたさえいなければ、うちの娘があんな目に遭うことはなかったんだ!この人殺し!」

「まさかミシェルが?」「まだ6歳だったのに…」

恐怖や怒りは伝播しやすい。犠牲になったのが、普段から可愛がられていた幼子ならなおさらだった。


「ユーリ!」

クラウドの声は人々の暴言によってかき消される。武器を持って詰め寄る男たちを援護するかのように祓魔士たちが詠唱を始めた。

その光景にユーリは自分の胸がすっと冷えていくのを感じていた。


(もう、いいんじゃないか……)

どれだけ命を削って護ろうが、誰もユーリの言葉など信じない。身を挺して魔物と戦ったユーリの行動よりも、聖女の立場であるセーラの言葉を正しいと思う人々を傷付けない理由などどこにあるのだろうか。

仄暗い感情が湧き上がってくる。


「怪我をしたくなければ、下がれ」

殺気立った人々にそう警告したのはユーリにできる最大限の譲歩だった。


「恵みの雨よ」

恵みというには過剰なほどユーリと対峙する男たちの上に叩き付けんばかりに水を浴びせる。

「っ、魔物以外に浄化の水が効くものか!」

一人の祓魔士が怯まずに聖力を纏わせた剣を手に向かってくるが、ユーリは後ろに下がり距離を取りながら、別の祓魔術を行使する。


「雨と共に落ちよ、稲妻」

閃光が走り雷に打たれた男たちはいっせいに地面に倒れ込む。

本物の雷には遠く及ばないが、水を通した身体には効きやすい。殺傷力は低くとも逃げるための時間稼ぎにはなるだろう。


身を翻す前に一瞬だけクラウドと視線があった。そこに何の感情が浮かんでいたのか読み取る前に衝撃と鋭い痛みが脇腹に走る。

傍には誰もいないはずだった。


少なくとも自分を害する可能性のある者はいないと認識していたからこそ、ユーリは一瞬だけ別の考えに気を取られたのだ。

呆然と視線を下げるとそこにいたのはレイだった。


「ひっ、うわあああああ!」

涙を流しながら怯えるレイをユーリは理解できない。脇腹に刺さったままのナイフはレイによるものだったのに。

攻撃しておいて被害者のような態度を見せているレイを見て、刺された痛みよりも心が悲鳴を上げている。


キラキラと輝く目を向けていた表情や、妹の回復を喜び満面の笑み、そして気遣うようにパンと水を渡してくれた優しい少年は簡単に手の平を返した。


(ああ、逃げないと…)

かろうじて頭の片隅に浮かんだ思考。だが何のために逃げるのかユーリにはもう分からなくなった。

ナギはユーリが血を流すことを厭う。ナギが現れればこの場にいる全員の死は免れない。

それを止めなければと思うのに足が動かなかった。


逃げてもまた同じことを繰り返すだけなら、もう終わりにしても構わないのではないか。死にたくはないが、ユーリが生きているだけで人が傷つき命を奪われていく。


祓魔士が拘束というには強力すぎる聖力を纏った縄をユーリに放つ。頑丈なそれは身体を拘束するだけでなく、首を絞めるための武器でもある。

(このままナギが来る前に終わりを迎えてしまえれば、楽になれるのかもしれない)

そう思ったユーリから無意識に言葉が漏れた。


「スイ、最期に一度顔を見たかったな」

縄がユーリに触れる一歩手前で青白い炎が立ち昇り、瞬く間に焼き尽くしていく。

「やっと、呼んでくれた」

背中に感じる温かい温もりと優しい口調に涙が溢れそうになるのをユーリは唇を噛みしめて堪えた。


「スイ」

「よく頑張ったな」

労わるように優しくユーリの頭を撫でるのは前世と変わらないことの一つだ。それだけで重かった心が嘘のように軽くなっていく。

安心したユーリは力強い腕に身を委ねて意識を手放した。




(まったく本当に無理をする)

気を失ったユーリの顔には疲労の色が濃く、あちこちに怪我をしている。一番ひどい傷は脇腹だが、手当のできる場所に行くまでそのままにしておいたほうが出血も少なくて済むだろう。


明らかに魔物の外見ともいえる紅い瞳のスイに動揺する集団だったが、一人だけ冷静にスイを観察している人物がいた。理知的な瞳と落ち着いた態度に高位の教会関係者だと察したスイは一言だけ伝えることにした。

「ユーリは本物の聖女だ、間違えるな」


呼び掛けに応えて現れたスイは何故このような状況になったか把握していなかったが、ユーリの置かれた立場を正しく理解していた。

「待ちなさい。彼女が聖女というのなら何故あなたが庇うのですか?」

「前世から彼女を護るのは俺の使命だからだ」

ざわりと不穏な気配を感じてスイは話を切り上げる。


「せっかくいいところだったのに、邪魔するなんて無粋だね」

薄い笑みを浮かべてより酷薄そうに見えるナギは、スイの腕の中にいるユーリに目を留める。


「邪魔をしているのはどっちだ。鍛えていてもユーリは人間、死んだらどうする」

「一度殺したくせに偉そうだね。僕はそんな失態を犯すとでも?」

近づいてくるナギに反射的に後ずさりそうになるのを堪える。ナギがユーリを殺さないのは分かっているが、手渡すわけにはいかなかった。それはユーリの信頼を裏切る行為だ。そして恐らくユーリの怪我の原因は、ナギが何らかの策を弄した結果なのだとスイは確信している。


「ユーリの手当ては僕がする。さっさと彼女を渡せ、駄犬」

逃げてもすぐに追いつかれるのは分かっていても、ユーリの手当てをする時間だけは確保したかった。


「光の檻よ」

眩ゆい光がナギとスイを分断する。一瞬だが確実にできた物理的障害にスイは転移した。

光の結界を壊すと、既にスイとユーリの姿はなかった。ユーリの魂を目印に後を追うことは可能だが、その前にやっておくことがあった。


「僕の邪魔をしたね?」

ユーリを追い詰めるための駒だからと生かしておいたが、自分の邪魔をしたのだから殺すだけだ。

隠していた魔力を解放するとただならぬ気配を感じ取ったのか、慌てて逃げていく者、その場で腰を抜かす者、そして自分と対峙しようとする数名の人間がいた。

ゆっくり近づいていくナギに幾つもの祓魔術が展開するが、どれもナギの歩みを妨げることなく触れる前に霧散する。圧倒的な力の差に戦意喪失する祓魔士たちの中で一人の男だけは怯えることなくナギを見ていた。


(ふうん、見極めているのか)

むやみに攻撃を繰り出さず、冷静にナギと状況を観察する男に僅かに興味を抱く。

「ナ、ナギ様っ!助けてください。私の願いを叶えてくれると言いましたよね?!」

みっともなく懇願する女の言葉に首を傾げたが、自分の通り名を知っていることと何となく見覚えのある顔に思い当たることがあった。


「ああ、僕の大事な聖女を貶めようとした偽者か」

確かにナギは願いを叶えてあげると言ったが、そのための前提条件をすっかり忘れているのだろう。


「ゴブリンがいたなら君の望みを叶えてあげると言ったけど、あれは僕が用意したのだから無効だよね」

怯える女を庇うように一人の祓魔士が攻撃をしかけようとするが、いい加減鬱陶しくなったナギが腕を払うと首が吹き飛び、女の頭上に血しぶきが降り注ぐ。


「きゃああああああああああ!!」

「煩いな。教会に偽りの情報を流しユーリを害そうとした祓魔士を殺したところまでは役に立ったけど、もう君には使い道がないから」

もういらない、声にならない言葉に気づいたセーラは慌てて傍にいた人間に縋りついた。


「嫌っ、助けてクラウド様!!」

「クラウド?ユーリの後見とかいう?」

ユーリが信用している人間の名前をナギは覚えていた。


「准枢機卿のクラウドと申します。貴方は高位の魔族だと拝察しますが」

「ふふっ、駄犬よりは躾が行き届いている。高位ではなく最上位の存在といえば分かるだろう?」

身分を偽ることなく名乗ったクラウドが面白く、ナギはそう返答した。


「貴方はユーリをどうするつもりですか?」

「彼女は僕の聖女さま、大切に僕の傍に置いておくんだよ。だから二度と邪魔しないでもらおうか」

先ほどの光の檻がクラウドによるものだと気づいているナギの言葉に、クラウドの背中に冷たい汗がつたう。


「君はまだ生かしておいてあげる。ユーリがいない場所で殺しても意味がないから」

笑みを浮かべたままのナギから魔力が放出されることを感じて、クラウドは結界を張ろうとするが間に合わない。


衝撃に弾き飛ばされたクラウドが意識を取り戻した時、既にナギの姿はなく他に生存している者もまた存在しなかった。

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