エピローグ

Rapture

 意識を失う直前、彼は夢を見た。

 自分が、どこか昏い場所へと沈んでいく夢だ。

 海なのか、湖なのかは分からない。ただ見通せないほどの深さ、そして広さがあった。

 もしかしたら果てはないのかも知れなかった。

 果てしない闇の底へ、緩々と沈み続ける夢。

 彼は、浮かび上がろうと足掻いてみた。だが意識が空回りするばかりで何の手応えも感じられなかった。掻いても、掻いても、体は浮かばず、沈むという感覚だけが濃くなっていく。

 仕方がないので、彼は、身を任せることにした。

 音はなく、静かだった。

 怖くはなかったが、寂しかった。

 ――会いたい。

 彼女に、会いたい。

 ささやかな願いが、哀しく心を締め付ける。

 そんな寂寥に百年耐え、さらに千年が過ぎ去った。底はまだ遠いようだった。闇の深さに終わりはなく、全てが死に絶えたように静まっていた。

 浮かぶことも、沈み切ることもできず、彼は孤独に耐え続けた。

 そして一万年が経とうとした頃だ。

 溶けて崩れようとしていた彼の意識が、微かな違和を感じ取った。

 遙か上方――暗闇の一点に、闇とは異なる揺らぎが見えた。最初は泡粒のようだったその姿は、沈み、距離を縮めるに連れ、次第に明瞭になっていく。

 彼は、感嘆の声を漏らした。

 ――彼女だ。

 眠り姫のように身を横たえ、闇の海を揺蕩っている。

 彼は、歓びに震え、彼女を両腕で迎えようとした。

 すると、どうだろう。

 彼方にある彼女の体が、淡く光を湛え始めた。

 闇夜に灯る蝋燭のように、仄かで、優しい、青い光。

 懐かしい、あの光だった。

 光は、彼女の全身を穏やかに包み込んでいる。

 やがて、その末端から蛍火のような粒子が飛び立った。初めは一つしかなかった光の粒は、ひとつ、またひとつと彼女から旅立ち、優艶に軌道を描き始める。

 舞い踊る無数の光たちは、次第に広がり、煌めきを強め、無辺の闇を照らし始めた。

 彼の瞳は宝石で溢れ返り、心は歓喜で満たされた。

 それは、宇宙に輝く星々だった。

 燦然と光を放つ恒星だった。

 円舞を披露する銀河であり、全てを結ぶ星座だった。

 美しかった。

 あまりに美しかった。

 彼は、星の光を一身に浴びながら、そっと瞼を閉ざした。

 ――願いは、叶ったのだ。

 流れ落ちる星と共に、一筋の涙が頬を伝った。

 哀しいことは何もなかった。

 生まれて初めて抱いた幸福感を胸に、彼は、静かに眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海月の見る夢 大淀たわら @tawara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ