(9)暗きひとやの終わり
少女は、そのまま仰向けに倒れ、石畳に紅い花を咲かせる。
即死だった。
香助もまた反動で転んでいた。銃も手から離れ、暗闇のどこかへ消える。だが最早不要なものだった。触手がハヅチを押さえてくれたからだろう。傷も動けなくなるほど深くはない。返り血を拭い、美月の元へ駆け寄った。
「美月……!」
無事な腕で、倒れた体を抱き起した。
彼女も、残った触手を背に巻き付けてくる。
「きょうすけ……っ」
二人は、抱き合い、互いの存在を確かめ合った。
傷と傷が重なり、溢れ出した血が絡み合う。
温かくて、愛おしくて、幸せだった。
美月は、きつくしがみついたまま、嗚咽を漏らした。
「ごめん、きょうすけ……ごめん……私の、私のせいで……っ」
「……良いんだ。君が生きているなら、それで」
慰めではない。本心だった。
美月が生きているなら、それだけで――
二人は体を離した。左腕を失った彼女は片手で支えられるほどに軽くなっている。ワンピースは血で汚れ、布の裂け目から無惨な切創が覗いていた。特に酷いのは両脚の刺し傷だ。執拗に幾度も抉られている。肉体の操作で止血はしているのだろうが、ハヅチが指摘していた通り、再生は機能していないようだった。
動くことなど到底出来まい。
「ごめん、美月。ちょっと……乱暴にする」
「きょ、香助?」
立ち上がり、美月の二の腕を引っ張った。力に従って彼女の身体が引き摺られ始める。触手の再生で体力を使い果たしてしまったのか、美月は、何の抵抗も示さず、只々戸惑いの目を向けてきた。
進む先には海があった。
二人がずっと目指してきた場所。
「香助、君は……」
察した美月が声を揺らす。香助は、口許に笑みを浮かべていた。
その足元にぱたぱたと血が滴った。
「……やめろ。香助。これ以上動くな。死ぬぞ……」
香助は応えない。美月の腕を掴んだまま岬の先端へと向かっていく。人間を片腕で運ぶ不便を差し引いても、その歩みは緩慢で、夢遊病者のようだった。
彼女は、縋るように言葉を重ねた。
「私のことはもういい……もういいんだ。きっと卵だって孵らない。何もかも全部無駄だった。だから、君がこれ以上命を懸ける必要なんてない。やめろ。……やめてくれ」
香助は、止まらなかった。
その息遣いが次第に荒くなっていく。明らかに異常をきたした呼吸音に、さらに空咳のような異音が混じった。本人は笑ったつもりだったが美月には発作にしか聞こえなかっただろう。
掠れた声が返ってきた。
「ほんと……擬態がうまくなったよね。俺の演技指導が……は、は、良かったのかな」
「ふざけるな!!」
美月は叫び、身を捩った。
だが傷付いた体のどこにそんな力が残っているのか、香助は手を離さない。
説得は、やがて懇願に変わった。
「……頼む。お願いだ。手を離してくれ。私のことはいいから……動かないで。きょうすけ……いやだ」
幼子のようにかぶりを振る。
「……いやだよ……いやだ! きょうすけ!! 私はっ!!…………私は、君に……」
瞼から、大粒の涙が零れた。
「君に、死んで欲しくない……っ」
そのときだった。
石畳に足を引っかけ、香助が前へつんのめった。
「香助っ!」
彼は、受け身すら取れずに転倒した。
折れた左腕を身体に敷き込み、死体のように動かなくなる。
だが、それでも、美月の手だけは離さなかった。やがて震えながら膝を立てると、再び前へ進み始めた。
美月が、か細い悲鳴を上げた。
「……お願い……もう、やめて……っ」
「嫌だ」
香助は、短く言い切った。
裂けた傷口から大量の血を溢しながら、告げる。
「俺は、君を海まで運ぶ。他のことは関係ない。俺の命も関係ない」
強く、宣言する。
「俺がそうしたいから、そうするんだ」
美月は、なおも訴えかけようと口を開きかけたが、無力を悟ったのだろう。
血が滲むほど唇を噛んだあと、ただ一言、彼を
「君は……バカだ……ッ!」
香助は、自嘲した。
(バカ……か)
違いない。救いがたい愚か者だ。
自らの愚かを自覚し、それでも止まることができないのだから。
胸中で認め、皮肉に口許を歪める。その目はもはや何も映してはいなかった。自分がどこにいて、どれだけの距離を進めば良いのかも理解していない。
だが、関係なかった。待ち受けているのは夜の闇で、ちっぽけな人間の力では見通すことなど叶わない。空は暗雲で覆われ、星を眺めることすら許されなかった。
結局、ここは牢獄なのだ。
狂いそうなほど窮屈で、潰れそうなほど息苦しい、悪夢のような世界。
(でも、何かある……)
まさに掃き溜めの底を這いずりながら、彼は祈るように繰り返した。
きっと、何かあるはずだ。
この闇夜が明けた先に。
虚無で満たされた、この生を全うした先に。
両脚が泥に浸るように重たかった。徐々に耳も聞こえなくなっていく。全身を蝕む悪寒と震えが、潮風のせいなのか、血を失い過ぎたせいなのかも、よく分からない。ただ右手に触れる彼女の温もりと、地面を踏み締める感触だけが彼の存在を支えていた。
――きっと、何かある。
行先には、無限の暗闇が広がっていた。
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