(8)理由

「終わりです」

 剣先が、喉元に突き付けられた。

 その刀身から赤く血が滴っている。

 美月は、起き上がろうと肘を付いたが、迫る切っ先がそれを許さなかった。そうでなくとも幾度となく刃を突き立てられた両脚は、ずたずたに肉が裂け、使い物にならなくなっている。背面の触手と翼は落とされ、左腕は肘から、右腕は手首から先がない。

 勝敗は決していた。

 冷ややかな眼が、敗者の姿を眺め下ろした。

「ご自慢の再生も機能していないようですね。それとも出し惜しみでしょうか? 良いですよ。あなたが腕を生やすのが速いか、私があなたの首を落とすのが速いか。ひとつ試してみましょうか?」

 血と脂で塗れた剣先が、喉との距離をさらに詰める。

 美月は、乱れた息を整えようともせず、突き付けられた刃を茫然と見返した。

 ハヅチは、呆れを口にした。

「身体能力は大したものです。しかし、殺気と言うか……やる気が感じられませんでしたね。ミカ姉さんはこんなやつに負けたのですか?」

 それは半ば独り言だった。彼女の中で戦闘を総括したに過ぎない。ただ、そこに含まれた名前が美月に納得を与えたようだった。疲弊した貌に、さらに暗鬱な色が落ちた。

「……そうか。やはり君は、諫武未花の身内なのだな」

「姉のことを覚えているのですか?」

「覚えている。私は、私が殺した人間のことを全て覚えている」

「……そうですか」

 ハヅチの瞳に初めて感情らしきものが差した。その揺らぎは、恐らく、哀惜と呼べるものではあったが、瞼を閉じて開いたときには、元の冷たさを取り戻していた。

 淡々と訊いてくる。

「姉は、最期に何と言っていましたか」

「……」

「何も言えずに死んだのでしょうか」

 彼女の口調に哀しみの余韻は見出せない。沈黙に苛立ちを見せるわけでもなかった。既知の事実を説くように淡泊に言葉を並べてくる。

「そうなのでしょうね。死はそれほど優しくはない。今までもずっとそうでした。どれほど正しく生きようと、どれほど人に愛されようと、そんなものには何の価値もない。善と愛に神は応えない。祈りは報われず、嘆きばかりが沈殿していく。。逃げ場なんてどこにもない。私たちは、この世界で……この掃き溜めのような世界の底で、天を見上げることしかできないんです」

 彼女は、その天に視線すら向けようとしなかった。もう飽きたとでも言わんばかりに。そして言葉も尽きたのだろう。刀の柄を握り直し、首を斬り飛ばさんと水平に構えた。美月は、剣先を追おうとはしなかった。俯き、ただ、安堵を浮かべた。

 そのとき、

「君のお姉さんは、俺の命を救ってくれた!」

 声が響いた。美月とハヅチが揃って振り向く。彼女たちが見向いた先――数メートルほど離れた位置に香助の姿があった。風雨に晒された案山子のように斜めに傾いて立っている。頬は赤く腫れ上がり、不自然な角度で捩じれた左腕は、傾斜した胴体から力なく垂れ下がっていた。

 満身創痍。だが右手にはしっかりと鉄の塊が握られている。

 彼は、銃口をハヅチへ向けた。

「最期まで立派に戦った」

「……姉さんの銃」

 ハヅチは、柳眉を逆立てた。

 その皺めた眉間に狙いを定めながら、香助は脚を引き摺った。

 諫武が――ハヅチの姉が使っていた銃。回収し、ずっと沫波家で保管していた。

 素人が撃って命中するものかは分からない。当たることもあるだろうし、当たらないこともあるかも知れない。だが、少なくとも無視できる距離ではない。

 ハヅチが、声を低く沈めた。

「カトリさんは?」

「殺した。君のお姉さんを死なせたのも俺だ。美月を殺さないでくれ」

「関係ありません」

 剣先が、再び美月へ向けられる。香助は立ち止まざるを得なかった。

 距離は凡そ三メートル。飛び道具を持ったこちらが有利に思えるが、相手の刀の間合いでもある。不利に陥るほどの接近を許すはずがないと考えれば、十二分に対応できる距離なのだろう。

 証拠に、彼女は視線を外す余裕があった。

 美月を見下ろし、嘆息する。

「この生物を生かしておけばこれからもっと多くの人間が殺されます」

 一拍を置き、続ける。

「見逃す理由がありますか?」

 蔑みを孕んだ眼が香助を捉えた。美月もまた不安そうに瞳を揺らす。

 その揺らめきを見つめ返し、反芻する。

 なぜ美月を助けるのか?

 その問いを噛みこなしたとき、胸にこみ上げてきたものは嬉しさだった。

 かつて同じ顔に同じことを訊かれたとき、曖昧な答えしか返せなかった。

 でも今は違う。

 答えなんていくらでもある。

 理由なんていくらでもある。

 どれほど言葉を尽くしたって、きっと足りない。

 どれほど時間を尽くしたって、きっと足りない。

 だから、俺は、君を助ける。

 何度だって君を助ける。

 何度でも。何を犠牲にしても。

「……そうですか」

 ハヅチは、少しだけ残念そうに目を伏せた。

 波の音が沈黙を埋める。繰り返される濤声は、静寂を永遠であるかのように錯覚させた。いつか全てが失われても、この音だけは奏で続けられるのかも知れない。いつまでも、ずっと。

 終わりは、突然だった。

 香助の視界から、ハヅチの姿が消える。どこへ? 気付いたのは左の脇腹に刃が刺さると同時だった。伏せた体勢から放たれた斬撃は、香助の胴を斜めに裂きながら反対の肩口へと抜けた。彼の目が捉えられたのは中空に舞う鮮血と、斬り上げた姿勢で硬直しているハヅチ。そして、彼女の両眼が驚愕に見開かれた瞬間だった。

 再生した右腕の触手が、ハヅチの足首に巻き付いていた。

「貴様ァッ!」

 それが彼女の遺した言葉だった。

 零距離から放たれた銃弾が、少女の喉元の肉を散らした。

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