最終話
(1)空を見上げて
『ご乗車ありがとうございます。この列車は、特急――』
録音の声が歓迎を告げ、程なくして列車は動き始めた。後方へ流れていく景色を見送りながら、香助は安堵の息を吐く。駅に着くまでの間、警察の追跡を受けたわけではなかったが、片時も警戒を解くことはできなかった。ホームで待つ間も神経を擦り減らし、列車に乗り込んでからは一刻も早い出発を祈った。その甲斐あってか車内に追手らしき影はない。それどころか自分たち以外、誰の姿も見当たらなかった。過ぎていく景色と座席の座り心地は、安心と気休めを与えてくれたが、同時に、もう戻れないという――すっかり地面から足が離れてしまったかのような心許なさも渡してきた。静寂が、心寂しさを一層浮き彫りにする。
(……そうか、こういうことなのか)
窓に映る町並を見た。自転車で駆ける少年の姿があった。花に水をやる母娘と、住宅の窓明かり。その向こう側にある家族の団欒。どこにでもある夕方の景色が、網膜を滑り、遠ざかっていく。
シートにもたれかかり、深く息を吸い込んだ。
冷房のそれに過ぎなかった。無人の車内も格別に広いわけではない。定められたレールを進みながら、何もかもを置き去りに走っていく。
そうして辿り着いた先に、二人の旅の終わりがある。
対面の美月――彼女は、折れそうな体を窓に預け、気怠げに夕景を眺めていた。血で汚れた制服を脱ぎ、水色のワンピースに着替えている。その真っさらな生地は、憂いを湛えた相貌と相俟って繊細な硝子細工のような印象を抱かせたが、決して好ましいとは思えなかった。少なくとも今の時間帯には相応しくない。
折角の涼しげな色が、鮮血と同じ色に染まっている。
「……気になるか? この格好が」
視線で察したのだろう。ワンピースの胸元を摘まみ、口許を緩める。
「以前、君に選んで貰ったものだ」
「……あのときは買っていなかった」
「後日、三幸来が薦めてくれた。本当に欲しかったのはこれではないかと」
三人で遊びに出かけたとき彼女たちだけで別行動を取ることが度々あった。香助の預かり知るところではなかったが、いずれかの機会に購入したのだろう。そのときのことを思い出したのかも知れない。彼女は、自身の恰好をどこか嬉しそうに眺め下ろした。
だが長くは続かなかった。次第に、表情に暗いものが落ちていく。
ぼそりと呟いた。
「三幸来には悪いことをしてしまった」
「……仕方がないよ」
そう気休めを口にしてから、嫌気が差した。
三幸来は二時間もすれば目が覚める。起きても通報されないように手足を縛って置いてきた。救助が来るまでは、恐ろしい思いも、苦しい思いもするだろう。ただでさえ彼女は傷付いている。凄惨な現場を目撃した傷は――信じていた友人に裏切られた傷は、一生癒えることはないかも知れない。
それを仕方がないで済ませるのだから、つくづく救いようがない。
美月は、窓枠に肩を預けた。
「私が愚かだった」
そう虚像に語りかける。
「勘違いをしていた。三幸来が優しかったから、私も……三人で一緒にいられるうちは、君たちと同じように生きられると、そんな勘違いをしていた。夢でも見ているつもりだったんだ。私が人喰いの化け物であることは、私自身が一番知っていたはずなのに」
そう溢す口許に、自嘲が浮かぶ。
反射的に否定の言葉が出かけたが、声になる前に吐息に変じた。何を言ったところで響きはすまい。彼女の中で答えは決まっているのだから。それでも、虚しくとも、言わずにはいられなかった。
「嘘にはならないよ」
白い指先を見つめ、続ける。
「八田さんは君のことを大切に想っていた。そして君も友人として接してくれた。その事実は嘘にはならない。君がどんな生き方をしたとしても」
その慰めもまた景色と共に置き去りにされたのかも知れない。美月は、窓辺に寄りかかり、ただじっと唇を結んでいた。
それから暫くは無言の時間が続いた。疲れていたのだろう。揺れと走行音に意識を傾けているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。何か夢を見ていたようだが、何の夢かは思い出せない。次に瞼を開けたとき、頬には涙の筋が残っていた。
目元を拭い、正面を向いた。美月は、眠る前と変わらない様子で窓の外を見上げていた。空には帳が下りている。
「……前から気になってたんだけど」
寝ぼけ眼で尋ねる。
「君は、どうして空を見るの?」
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