(8)失楽園
そこで言葉は尽きた。静寂が空間の支配し、身じろぎひとつ、呼吸ひとつが断罪の皮切りになるという緊張が神経の末端まで行き届いた。香助は、息を殺してじっと耐えたが、無意味な抵抗であることも自覚していた。秒針の響きは、無慈悲に、事務的に時を進めていく。
叫び出してしまいたい。
衝動が暴発しかけたとき控えめな溜息が耳に届いた。室内の意識は自然と一点へ集束する。即ち天を仰ぐ沫波美月へと。
彼女が見つめる先には何もなかった。しかし虚空を眺めているわけでもなかった。黒い瞳は、確かに、何かを視認しようとしていた。天井の向こう側にある何かを。
ややあって美月は、瞼を閉ざして虚脱した。
「香助」
呼び声が、風船のように浮かび上がった。
「潮時だな」
直後、彼女の挙動の意味に気付いたのは、香助を含め誰もいなかっただろう。
美月は、中腰で半身を取ると、正面の国見へ腰を向けた。
「?」
国見は、何の反応もできなかった。反応できないまま……美月のスカートから伸びてきた触手に頬を弾かれた。その首は可動域を越えて回転し、当然の帰結として彼女は絶命した。ソファに崩れた相棒を見て、葛城がどこまで事態を把握したかは分からない。少なくとも慌てふためきはしなかった。
瞬時に身を引きながらテーブルを蹴り上げる。
美月は、迫るテーブルを片手で制し、もう片方の手を――触手に変形した異形の腕を――葛城へ向けて突き出した。伸びた切っ先は眉間を貫く寸前まで迫ったが、咄嗟の反応だろう。葛城は、頭を振って刺突を躱す。そして壁に刺さった触手が引き抜かれるよりも速くスーツの懐へ右手を差し込んだ。それだけで、次の動作を想像するに足りた。
香助は、躊躇なく葛城に組み付いた。
「おおおおおッ!」
そのまま引き倒そうと体重を預ける。だが、
「放しなさいッ!」
一喝と共に弾き飛ばされた。咆哮に力が伴ったかのように感じたが無論違う。シンプルに腕力で引き剥がされたのだ。顔面を打たれ転倒する香助の網膜に、鉄の塊を構える葛城の姿が映った。ひどく緩慢な動作だった。先端を美月へ向け、引き金を引くだけの所作に膨大な時間を費やしている。
(いや)
葛城だけではない。自分も、美月も、極限までスローだった。世界の全てがそうなっていた。故に葛城もまた、眺めることしかできなかったのだろう。自身の肉が、骨が、触手に突き破られ、壊れていく様を。
「……がッ……はっ!」
上半身を貫かれ、彼の身体はくの字に折れた。滑り落ちた鉄塊は床で跳ね、次いで大量の血反吐が撒き散らされる。美月は、葛城の胸倉を掴み上げると、突き刺さった触手を無造作に引き抜いた。支えを失った身体は、よろめき、背後の壁に衝突する。そのまま壁面に血の軌跡を描きながら、床に沈んで動かなくなった。
美月は、触手に付着した血を払った。
「香助、大丈夫か?」
近寄って膝を付くと、人間のほうの手を伸ばしてくる。
触れんとする口許には血が滲んでいた。殴られた際に切ったのだろう。舐めると舌先に鉄の味が広がった。重症では勿論ない。「大丈夫」と上半身を起こそうとしたところで、その異変に気が付いた。
美月の瞳が、異様に近い。
「……ん」
唇の端に、柔らかく、温かなものが触れた。粘り気と濡れた感触。吐息の温かさ……噎せ返るような血の臭い。呼吸すら忘れた香助をよそに、彼女の舌先は傷口を這い、滲む血液を拭い取っていく。やがて痛みまで綺麗に舐め尽すと、糸を引きながら静かに離れた。
添えられていた手が頬を滑り、香助の口許を優しく拭う。
「だ……」
彼女の肩を掴み、距離を離した。
「……大丈夫だよ。美月こそ、大丈夫?」
「ああ、君が助けてくれた」
美月は、上体を起こして背後を見やる。彼女に敷かれた体勢からでは分からなかったが、そこに葛城の骸があるのだと思った。血塗れの手だけが辛うじて視界の端で横たわっている。
彼女は、腕の形状を戻しつつ、視線を転じた。
「君も、大丈夫か?」
返事はない。呼びかけられたことすら理解できていなかったのかも知れない。横転したテーブルとソファ。グラスの破片。飛び散った血反吐。諸々が散り乱れた中、彼女もまたそんな風景の一部であるかのように、床にへたり込んで放心していた。
「三幸来」
美月は、動けない三幸来に手を差し伸べた。
葛城を貫き、血塗れになった手を。
「いやあああああああああああああああああああああァッ」
絶叫が響いた。
彼女は、美月から逃れようと、全身で滅茶苦茶に床を掻いた。
滑り、転び、腰を振りながら、部屋の隅に頭を突っ込もうとする。
「ひひっ、ひ、ひとごろし……ひとごろし……ひとごろし! 人殺しっ! や、やだ……やだァッ! こないで! こないでよおっ! ママっ、ママァあああああ~ッ」
怯え、半狂乱で泣き喚く。
美月は声を失っていた。血みどろになった両手。返り血を浴びた制服。汚れた全身と、錯乱した三幸来。それらを見比べ、かけるべき言葉を検索しようとする。だが何も見つかりはしなかったのだろう。立ち尽くしてしまった華奢な肩に、香助はそっと手を置いた。
ぎこちなく振り返ってくる、彼女の貌。
それを見たとき、香助の胸に痛みが奔った。
だが、どうすることもできない。かぶりを振ると、美月は力なく項垂れた。そして三幸来の傍で片膝を付く。過呼吸に悶える三幸来は悲鳴を上げることすらできなかったが、眼差しには克明に恐怖が刻まれていた。その足首に、美月は指先を当てた。途端に三幸来の四肢から力が抜けていく。毒を入れたのだろう。聞くに堪えない苦悶の喘ぎは、徐々に安らかな寝息へと変わっていった。
彼女は、寝顔に指を伸ばした。
「三幸来。今までありがとう。……ごめんなさい」
そうして、涙で濡れた頬を拭った。
香助は、改めて室内に視線を巡らせる。奇怪に首を歪めた国見。内臓から臭気を放つ葛城。ぶち撒けられた赤い果汁を、高級な絨毯が吸い上げている。壁に穿たれた穴を睨み、香助は問うた。
「これから、どうする?」
部屋は片付ければ済む。死体も処理すれば済む。だが彼らが訪れてきたという事実は消えない。葛城と連絡が途絶えたと判断した時点で、警察はこの屋敷に踏み込んでくるだろう。
美月は、首を左右に振った。
「……逃げるしかないだろう。予定を繰り上げて海へ向かう。卵が熟しているとは言い難いが、無事に孵ることに賭けるしかない。香助、どの程度の猶予があると思う?」
「希望的観測を込めて半日。もっと早いかも知れない」
「ならば、すぐに出発しよう」
「八田さんは縛っておくよ。君はシャワーを浴びてきて」
美月は頷いて戸口へ向かう。しかしドアノブを掴んだところで動きを止めた。
「? どうしたの」
問いかけには応じず、その場で屈んだ。傍らには事切れた……否、事切れたと思われていた葛城がいた。信じられないことに、彼にはまだ息があった。内臓を露出させ、両脚を投げ出した姿勢のまま、ぶつぶつと何かを呟いている。
香助の距離からでは聞き取れなかったが、美月にはそうではなかったらしい。
葛城の手を両手で包むと、自らの額に押し当てた。
まるで、祈りを捧げるように。
「美月……」
秒針が円を描く程度の間、彼女は葛城の傍にいたが、やがて無言のまま部屋を去った。
声は、もう聞こえなくなっていた。
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