(2)海月の見る夢

 思い返せば彼女はいつも空を見ていた。諫武の死体を処分した夜。三幸来と別れた帰り道。そして葛城と国見を殺すと決めたとき。

 横顔が答える。

「星を見ているんだ」

「星?」

 こちらに向き直り、力なく笑う。

「大した意味はないよ。私がかつて魚に寄生していたという話はしただろう? そこはとても暗い世界だった。何も見えず誰もいない。朝がなければ夜もない。見渡す限りの暗闇だ。だが地上へ出て、この体に移ったとき、初めて星の光というものを目にした」

 胸が、すうっと膨らんだ。

「美しかった。それまでの知識を……理解を、遥かに超える光景だった。あの頃の私は情動などという概念は持ち合わせていなかったが今なら分かる。私は感動していたのだ。感動に震え、涙すら流していた。そのときからすっかりと魅了されているのだよ。あの手の届かない場所にある、小さな光に」

 そしてまた夜空へと視線を戻した。

 すぐに言葉を返せなかった。

「初めて聞いたよ。そんな話」

 彼女は、微苦笑を浮かべた。

「それ以来だな。何かあると、ついつい空を眺めてしまう。そこに星がなくても」

 照明が反射する列車の窓からは星の光を見ることは難しかった。だが夜空を見上げる美月の瞳は、宝石を散りばめたように煌めいている。

 その輝きに、香助は目を奪われた。

「……連れて行ってあげれば良かったな」

「?」

「天体観測。望遠鏡で星を見たり、星座を探したりするんだ。星が好きなら、きっと楽しめたと思う」

「星座か。聞いたことはあるな」

 星と星を線で結び付け動物や道具に見立てたものだと説明すると、彼女は、たとえばどんなものがあるのかと尋ねてきた。香助も星座に詳しいわけではなかったからスマートフォンで画像を示した。天秤座。射手座。へびつかい座。狼座……。何となく形状が連想できるものもあれば、苦笑いしか浮かんでこないようなものもある。それは美月も同じだったのだろう。不思議そうに首を傾ける仕草がどことなくあどけなかった。

「昔の人にとっては神話や物語に見立てたほうが憶えやすかったんだろうね」

「物語があるのか? 映画のように?」

「そこまで作り込んだものじゃないと思うけど」

 よく知らないのでやはり検索に頼る。不死ゆえに猛毒に苦しめられた賢者ケイローンの悲劇。神々が人間を見捨てたあとも地上で正義を説き続けた女神アストライア。オリオンを懲らしめた功績によって星座として認められた大さそり。

 美月は、興味深そうに耳を傾けていた。

「さそり座と言えば……そうだ、銀河鉄道の夜にもさそり座の話があったね」

「銀河鉄道の夜?」

「昔の童話だよ。ジョバンニとカムパネルラって男の子が鉄道に乗って宇宙を旅するんだ。列車の中で色んなひとと出会って、色んな体験をする」

「……鉄道は宇宙を走ることができるのか?」

「架空の話だから。昔、読まされたことがあるけど、どんなだったかな」

 開いていたのは、さそり座について紹介したページだった。検索結果から適当に選んだものだが銀河鉄道の夜に言及している箇所もあった。画面をスクロールし『蠍の火』のエピソードに目を通し、そして、

「香助?」

 後悔した。他愛のない会話で安らいでいた心が暗愁で蝕まれていく。

 見なかったことにしても良かったのだろう。目を逸らし、そっと画面を閉じてしまっても。だができなかった。文字のひとつひとつが心に爪を立てているようだった。

 それは本編の引用だった。ジョバンニとカムパネルラが天の川の向こう岸に赤い光を見つける場面。カムパネルラが「あれは蠍の火だ」と言う。すると列車に乗り合わせた幼い姉弟……その姉のほうが、由来について語り始める。

 スマートフォンを手渡すと、彼女は素直に読み上げた。


 そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの――


 声はそこで途切れた。彼女は画面を見下ろしたまま硬直している。単に喉を休めるにしては長過ぎる沈黙だったし、それを信じていたわけでもない。

 致命的に疵付いた鈴。

 香助はそんなものを連想した。幾重にも刻まれた亀裂が修復不可能な状態にまで広がっていて、あとひとつ音を鳴らせば器そのものが壊れてしまう。だが彼女もまた目を背けることができなかったのだろう。唇を震わせながら、それでも続きを読み上げた。


 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ――


 掠れた声が途絶え、二人は静寂に沈んだ。

 鉛のような重たさが全身に絡み、肺の奥へ流れ込んでくる。苦悶に耐えかねた意識は、窓の外に逃げ場を求めたが、外界は闇で閉ざされ、ここが底だと思い知らされただけだった。

 車輪が線路を踏み鳴らす音にも、過ぎていく時間にも、何の意味もない。

 逃げ場など、どこにもないのだから。

「……あの刑事、最後になんて言ってたの」

 その問いかけにも意味などなかったのだろう。

 溺れる者が、掴めるものを掴んだに過ぎなかった。

 答えは、嘆息とともに零れた。

「娘と、妻の名だ」

 おそらく、と言い添え、顔を伏せる。見下ろす先には透き通るような白い手があった。

 かつて無垢な赤ん坊を抱いた手。今しがたその父親を殺した手。

「沫波美月の父親を殺したときも」

 その手で、自身を抱くようにする。

「同じだった。彼は、最期まで娘の名前を呼んでいた。美月、美月と……」

 けれど何ひとつ隠すことはできなかった。

 震えも。脆さも。罪の形も。

「香助」

 溶けて、消えそうな声で言う。

「以前……君は、こう訊いたね。私は何か夢を見るのかと」

 浮かんだのは仄暗い展示室だった。

 青く幻想的な光。星屑のような泡の粒。重力から解き放たれた、彼らの姿。

 彼女は、天を仰いだ。

「私は、星座になりたい」

 取り繕うものはなかった。

 ただ切実に、願っていた。

「あの星たちのように……何も奪わず、誰も傷つけずにいられたら」

 彼女には、何もなかった。

 この底を泳ぎ切る力も、その重みに耐える強さも。

 ゆらゆらと暗闇に揺られながら、見上げることしかできなかった。

 夜空を――遠くにあるものを。

「今度は、そんなふうに生きられたら……」

 そうして彼女は涙を流した。

 星たちは、瞬いているだけだった。

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