(7)無明
瞬く葛城の前でグラスを煽る。彼は意外そうに顎を撫でた。
「随分と威勢が良い。その威勢の良さで君の奇行をどう説明する?」
空になったグラスを乱暴に下ろした。
「クラゲのフィギアを落としたことは認めますよ。神社の拝殿も借りました。でも、宮下さんでしたっけ? その人が殺されたとかいう現場には行ってませんし、悲鳴を聞いたとか、誰かを見たとか、そんな記憶は一切ありません」
「では、なぜフィギアが現場にあったのだね?」
「八田さんが言ってくれた通りです。どこかで落としたものが拾われたんだと思います」
「家に帰らなかった理由は?」
「衝動に駆られた突発的な非行です」
ふっと笑みを溢す音が聞こえた。三幸来か。国見か。もしかしたら美月だったのかも知れない。葛城を見据えていたから分からなかった。彼は、参ったとばかりに頭に手を当てた。
「では、こういうことかね? 君は犯行時刻前後に事件現場の近くにいた。そして君の所有していたフィギアが現場に残されており被害者の血液も付着していたが、その場へは行っておらず何も見聞きしていない。加えて事件当日に付近の建物へ侵入し寝泊まりをするという軽犯罪的行為を行っているにも関わらず特段事件とは関係ないという主張を信じて欲しいと?」
「事実を述べているだけです」
「成る程。面白い答えだ」
葛城のそれは、少なからず本心に聞こえた。生意気な態度が面白かったのか、生意気な子供を屈服させることに面白味を感じたのかは知らないが。
(大丈夫だ。こいつは何も掴んじゃいない)
暴れる心臓の手綱を引いた。
葛城自身が言った通りだ。直接的な証拠は何もない。だからこそ自供で穴を埋めようとしている。だったら一番困ることは何か?
(しらを切られることだ。そうだろう?)
勿論、吐かせる自信はあるのだろう。所詮相手は子供だ。口を割らせることは難しくないと侮っている。だとすれば、その余裕を性急に消費しようとはしないはずだ。余裕のある人間は必ず時間を上限まで使う。次の機会でも構わないと考える。そうであれば……拘束までの日数を稼ぐことができるのであれば、海へ行くチャンスは必ずある。
「だが、少しばかり足りないものがあるな」
「え?」
滑稽に口を開ける香助に、哀れむような視線を向けてくる。
「迫力だよ。無理を通すにはそれが要る。加えて視野も広いとは言えない。国見」
呼ばれた彼女はバッグからタブレットを取り出した。葛城はそれを受け取ると、画面を撫でて反転させる。
「見給え」
困惑しつつも画面を覗く。
「これは……」
ドライブレコーダーの映像らしかった。時刻は夜。画面は、車一台が通れる程度の小路を進んでいる。右側にはブロック塀越しに倉庫然とした建物が見え、左側も建物の側面が連なっている。慎重に運転しているのか、進行速度は緩慢で、変化のない映像が淡々と続く。だが、暫くするとヘッドライトが人影を照らした。ひとりの女性が、車を避け、道の脇に退避していた。車は彼女の横を何事もなく通り過ぎ、間を置かず別の人影が映し出される。
香助と美月だった。
私服姿の二人は、やはり同じように壁際に寄って車をやり過ごしていた。
映像はそこで停まった。
「……これが、何か?」
問いかけたのは美月だった。
葛城は、うむと頷いた。
「六月二十七日の九時過ぎ、足原市平坂区の工業地域で撮影された映像だ。一連の事件では街の防犯カメラには手がかりになるようなものは残されていなかった。カメラの設置位置は市のホームページに掲載されているから、そうした情報が逆手に取られてしまったのかも知れない。とは言え、今や一億総監視社会だ。地道に探し回ればこんな映像も存在する」
葛城は、画面に指で円を描く。
「運転手は隣県に住む四十代の男性――実家に帰省中、御尊父の見舞いから帰る途中だった。御覧の通り狭い路地でね。地元の人間が近道で利用するぐらいで、夜になればひと気もない。だが、そこに……星野くんと、沫波くん」
動画のシークバーを指で移動させる。
「そして、七人目の被害者とされる梶原優衣さんが映っている。彼女はこの夜を境に行方が分からなくなってしまっている」
「それが、何なんですか?」
三幸来が、緊張に声を震えさせた。
「二人が、被害者の方の近くに映っているだけです」
映っているだけ、という言い回しはいかにも苦しく聞こえた。被害者の背後に映っているだけでも充分に怪しい。何より事実として美月はこの女性を襲って殺している。この直後に、この場所で。
しかし、今は「それがどうした」という理屈に縋るしかない。
それはシナリオ通りの反応だったのだろう。刑事は淡々とページを進めた。
「さて、私の質問は分かっているね。君たちは何かを目撃したのではないか? 当然そう尋ねる。すると君たちはこう答えるだろう。『何も見てはいないし、聞いてもいない』 まあ、可もなく不可もない回答だ。事実、車は通り過ぎたのみで、これ以上の映像は残されていない。だが真相はそこに隠されている。わかるかな?」
当惑が浸透していく様子をたっぷりと見届けてから、細めていた眼を見開いた。
「君たちが知らない事実などいくらでもあるということだよ。梶原優衣さんは近くにある福祉施設に勤務していた。勤務態度は謹厳実直。人当たりがよく同僚や入所者からの評判は上々。誰か恋人はいないのかと度々責付かれていたようだが彼女はお茶を濁していた。だが、大っぴらにしていなかっただけで彼女には恋人がいた。学生時代からの付き合いで、真に心を許せる間柄だったそうだ。そして彼女たちはこの夜、二人で会う約束をしていた。丁度この小路を抜けた先にある曲がり角の店で」
空気を根こそぎ奪われた。そんな感覚に襲われた。
息苦しさに喉を押さえ、呼吸を止めてしまっていたことに愕然とする。
渇いた喉へ、辛うじて唾を流し込んだ。
「そ……」
「そんな店がどこに? 気付かなかったのも無理はない。周辺は繁華街からは程遠く夜には人通りもないからね。だが、そんな静けさを好む層がいるということも知っておいたほうが良い。倉庫を改造した隠れ家的なバーで外見からは判別できない。彼女たちはそこの二階で待ち合わせをしていた。しかし約束の時刻になっても梶原さんは現れなかった。映像ではこの路地まで……十数メートル手前まで近付いていたにも関わらず、だ」
再生ボタンが押された。車をやり過ごそうと立ち止まる女性が映り、続けて香助と美月が映る。彼らの視線は回避すべき車ではなく、飽くまで進行方向へ向いている。その眼が捉えているものを映さぬまま、画面は二人から離れていく。
――離れていく。
必死に手を伸ばして掴もうとしていたものが、届かない場所へと離れていく。三幸来の視線が、存在が、さっきよりも、ずっと遠い。
葛城は、タブレットをテーブルに寝かせた。
「……彼女は、私にこう言ったよ。優衣さんを必ず見つけて欲しい。優衣さんにもしものことがあったら私はそいつを許さない。絶対に許さないと、泣きじゃくりながらね」
全身が震えた。その原因が葛城の語気にあったのか、語られる悲劇にあったのか。
彼は、辛抱強く、丁寧に言葉を重ねていく。
「片岡美咲。若宮真由。宮下つぐみ。竹本未来。草野昌。中村綾乃。砂原凛子。皆同じだ。彼女たちを愛する誰かがいた。彼女たちが愛する誰かがいた。誰もが――そうやって生きていた」
軽薄な笑みは、最早なかった。
確固たる意志だけが、瞳の奧で煮え滾っている。
「何度でも言わせて貰う。話したまえ。君たちの知っていること全てを」
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