(3)烏の見る夢
「はい、八田さん。それに美月も」
チケットを一枚ずつ手渡した。三幸来は「わあ」と子どもみたいにはしゃぎ、受け取ったチケットを高々と掲げた。
「良いのかな!? こんなの買って貰っちゃって!?」
「いや、お金は貰うけど」
「あ、だよね」
耳を赤く染め、そそくさとポーチから財布を取り出す。一方の美月は生まれて初めて手にした紙切れをしげしげと眺めていた。裏返したり、はむと噛んだり、陽の光に翳したりしていたが、別に細工があるわけでもない。表面には幻想的なイラスト――ゆったりと夜空を泳ぐジンベエザメの姿――が描かれている。チケットから視線を上げた。
「水族館……」
仰ぎ見る先には『ようこそ
三人はバスと電車を乗り継ぎ、隣県にある水族館を訪れていた。オープンは半年程前。地域では最大規模の施設で敷地面積は七千坪、飼育種数は約五百種、目玉は水深八メートルの巨大水槽……とニュースで報じられていたが数字を並べられてもよく分からない。
だったら実物を観に行こう、と誘ってくれたのは三幸来だ。開館当初から興味津々だったそうだが機会が取れずにそのままになっていたらしい。
「沫波さんも初めてなんだよね?」
肩を寄せてきた三幸来に、美月はこくりと頷いた。
「うん。水族館。初めて」
「楽しみだね。パパもママもそのうちそのうちって言いながら全然連れてってくれないんだもん! 夏休みまでお預けされちゃうとこだった。何観たい? 私はやっぱり大水槽かなあ……あっ、ダイオウイカの標本とかもあるらしいよ!」
少々興奮気味にそう語る。一方の美月はエントランスを見回した。展示室へ吸い込まれていく人たちを眺めやってから、改めてチケットに目を落とした。
「これ、どうしたら良いの?」
「チケット?」
三幸来は、笑顔のまま首を傾げた。
「どうもしないよ?」
「どうもしないの? 交換とかは?」
香助は、苦笑し、チケットを二つ折りにして見せた。
「とりあえず持っておけば良いんだよ。係の人に見せろって言われたら渡してあげて」
預かっておこうかと手を差し出すと彼女は首を左右に振った。倣ってチケットを二つに畳みバッグの奧へ仕舞い込む。準備が整うのを見届けた三幸来が「じゃあ行こうか!」と胸を張った。二人は、先導する三幸来の背中に続いた。
「これはスミレナガハナダイだね。学名はPseudanthias pleurotaenia」
三幸来が水槽を指差した。大きな瞳の中で照明の光がきらきらと踊っている。
「沖縄のほうにいるハタ科のお魚さん。オレンジ色の子が雌で、湿布みたいな模様のある赤っぽい子が雄だよ」
「雄は、一匹だけなのね」
「ふふ、今日の私たちと一緒だね。群れの中で一番大きな子が雄に変身するんだ」
「性別が変わるの?」
「うん。雌性先熟って言ってね、縄張りを持つ種に多いんだよ」
へえ、と感心したのは美月ではない。偶々隣にいた老夫婦だった。三幸来は、暫し彼らと目を見合わせたあと、照れ臭そうに一礼した。夫婦はにっこりと微笑み返すと、次の水槽を覗き込む。
「さっすが。歩く音声ガイド」
「もう、星野くん……」
三幸来は、頬を赤らめて俯いた。
休日とあってか展示室は来館者で溢れている。先の夫婦のような高齢者もいれば自撮りに勤しむ若い女性もいる。熱心に硝子を覗き込む少年に、手を繋ぎ合う恋人たち。中でも多いのは親子連れだ。何も知らない赤ん坊から、斜に構え始めた中学生まで、色々な家族の姿があった。香助は、水槽そっちのけで駆け回る幼児を見ながら、最後に家族と水族館に来たのはいつだろうと考えた。思い出せないぐらいだから、相当前なのは確かだが。
水槽にいる魚も、そのあたりのことは興味がなさそうだった。
こいつの名前は何だろうとパネルを確かめるより早く、三幸来がヒレナガネジリンボウだと教えてくれた。
「見ての通りハゼ科のお魚さん。背びれがアンテナみたいで可愛いよね」
可愛いかどうかは分からないがアンテナという表現は分からなくもなかった。頭部より少し下がった位置に長い背びれが立っている。背びれが長いからヒレナガ、全身を覆う縞模様がねじり飴に似ているからネジリンボウと呼ぶのだそうだ。
「……ホントよく知ってるね」
素直に賛辞を贈る。三幸来は、はにかんで手を振った。
「私、ほら、生態学者になるのが夢だから」
どこか言い訳をするように言う。
「パパが研究者やってる影響かなあ。小っちゃいときから図鑑とか博物館が大好きでね。みんながゲームとか動画に夢中になってるときも、ひとりだけ採集に出かけたりして……あはは、いつから目指してるのかもよく分かんないや。大学もそっちのほうに行くつもり」
成る程、と香助は納得する。三幸来の成績が良いのはそれが理由なのだろう。目指すべき目標が決まっている。目標が決まっていれば学ぶべきことも自ずと決まってくる。
「生態学者? になって、どうするの?」
美月が尋ねると、三幸来は「そうだねえ」と胸元で指を合わせた。
軽い冗句を思い付いたような顏をする。
「この子たちと一緒かな?」
「この子たち?」
「そう、この子たち」
示す先にはアンテナを立てたハゼの姿がある。ハゼは水底の巣穴に尾ビレを隠したまま、きょろきょろと辺りを警戒していた。巣穴に雌でもいるのだろうかと眺めていたら、顏を覗かせたのは紅白模様のエビだった。
「エビと魚が同じ巣穴で暮らしているの?」
「そ、すごいでしょ?」
解説によると、エビ――テッポウエビという種類らしい――は視力が弱いため、自らが作った巣穴をハゼに提供し、代わりに周囲を警戒して貰っているのだという。このように異なる種族が互いに利益を分け合いながら共同で生活することを相利共生と呼ぶそうだ。
そう言えば生物の授業で習った気もする。
「でも、それが八田さんの夢と関係あんの?」
三幸来は、うんと首肯する。
「私もね、この子たちみたいにみんなと……他の生き物たちと仲良く暮らしたいの」
愛おしそうに目を細めた。
「亀さんの背中に乗せて貰ったり、お魚さんと一緒に踊ったり。そういう絵本、読まなかった? 私は好きだった。あこがれたなあ……。そのおはなしの中ではね、誰もひとを傷つけたりしないの。不幸なことは何もなくて、みんなが助け合いながら、優しく生きている。一緒に、手を取り合いながら、この世界で。でも……現実は違う」
眼差しに陰が差す。
「私たち人間のせいでたくさんの生き物が数を減らしてる。過去の大量絶滅に匹敵するって言うひとがいるぐらい……それぐらい、ひどいことが起こっているの。社会の意識も少しずつ変わってはきているけれど、とても十分とは言えない。だから、どうすれば彼らと共存できるのか……一緒に、仲良く暮らしていけるのか、ちゃんと考えなきゃいけないの。今はまだ全然役立たずだけど、いつかはその力になれたら良いなあ……なんて。それが私の夢。えへへ、ちょっとおおげさかな?」
不意に恥ずかしくなってしまったのだろうか。彼女は、真剣な面持ちを愛嬌で隠した。けれど灯っていた眼の光はすぐに消えたりはしなかった。
純粋で、強かな意志の光。
美月は、その眩さから顏を背けた。揺らぐ瞳は硝子の向こう側へ行き場を求める。
やがて彼女は、力なくかぶりを振った。
「素敵な夢ね」
浮かぶ笑みは、どこか泣き顔にも似ていた。
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