(4)美しい牢獄
三人は順に展示を見て回った。フグの水槽で癒され、ジンベエザメの迫力に圧倒された。タカアシガニの群れはまるで別の惑星を見ているようだったし、ダイオウグソクムシは写真で見るよりずっと大きかった。海生生物に興味などなかった香助だったが、実物を前にして無関心を貫くほど頑なでもない。三幸来の熱心な解説は、眠っていた好奇心を相応に刺激した。一方で、どこか小骨の刺さる感覚もあった。
三幸来の夢だ。
先に聞かされた彼女の夢――みんなと仲良く暮らしたいという純朴な夢――が頭の片隅から離れなかった。気が付けば、彼女の理想を汚したくなる自分がいた。それは全く困難ではなく取れる手段はいくらでもあった。だが突き詰めれば突き詰めるほど虐待の手段を思案しているようで嫌気が差した。
こんな欲求は間違っている。
賢しく自省を装ったところで鬱屈が晴れるわけでもない。次第に目の前に在るものが窮屈に映り、息苦しさに胸が痞えた。
煩悶としていたそのとき、三幸来がわあと幼い声を上げた。
「きれい……」
クラゲだ。
海の底を思わせる暗い展示室。青く幻想的な光が、透明な姿を浮かび上がらせていた。
水流を作っているためか。水槽内には無数の気泡が散らばっている。仄暗い空間で浮遊するそれらは夜空に煌めく星々にも似ていて、拍動する傘は重力から――全ての束縛から解放されたようだった。
宇宙空間を漂う生き物。
焦りも、苦悩も、何もない。在るのは揺蕩う心地良さだけ。
ふと、思ってしまう。
こんなふうに生きられたなら――
「不思議な生き物だよね」
三幸来が、吐息を漏らした。
「この子たちを見てたら、何もかもどうでも良くなってきちゃう」
同意することに抵抗はなかった。
彼らは何も語りかけず、何も要求してこない。ただただ流れに身を委ねている。
確かに、解きほぐされる何かがある。
(何だか眠たくなってくるな)
噛み殺した欠伸を見られたのだろう。三幸来が、ふっと口許を緩めた。
「最近の研究だとクラゲも眠ることが分かったんだって。不思議でしょ? 脳がないのにどうして眠るんだろ」
眠る我が子を眺めるように言う。
彼らは、ゆったりと漂いながら、安らかに微睡んでいる。
「この子たちは、どんな夢を見てるんだろうね」
三幸来は、脳がないから夢は見ないのかな、と笑った。
香助は、ふと隣の美月を意識した。彼女は――寄生生物は――沫波美月の脳に寄生する以前は魚やクラゲに寄生していたという。ならば答えることもできるのだろうか?
クラゲが、どんな夢を見るのか。
端正な横顔は、じっと水槽を見つめている。それからもしばらくは無言でいたが、三幸来が二人から離れ、別の水槽を眺めているとき、ぽつりと言った。
「沫波美月のことだがな」
彼女は額を指で小突いた。
「前にも言った通り、今は眠っている状態に近い。その……脳波というのか? 私も少しだけ読み取ることができるのだが、どうやら夢を見ているらしい」
「夢? どんな」
訊くと、哀れむような、聞き分けのない幼子を前にしたような、複雑な笑みを作った。
「それが存外幸せな夢を見ているようなんだ。時折、微笑んだり、胸が温かくなるような感覚が伝わってくる。こんな虫ケラに人生を奪われ、家族を殺され、一体何の夢を見ているのだろうな?」
問いかける響きがあったが答えようがなかった。
代わりに浮かんでくるものがあった。
「美月、君は夢を見ることがあるの?」
青い光を湛えた瞳が、こちらを一瞥する。
彼女は、寒さに耐えるように腕を抱いた。
「このクラゲたちは……」
「……うん」
「子孫を残すことができるのか?」
香助は、少し考えた。
三幸来のような知識はない。だから漠然とした印象で答えた。
「難しいんじゃないかな。安定して飼育できるものでもなさそうだし。繁殖なんて」
本当はどうだか知らない。だが美月は納得したらしい。「そうか」と瞳を閉ざした。
「ここは墓場だな」
呟きが滑り落ちる。
「生の行き止まりだ。このクラゲも、他の生き物たちも、多くは囚われたまま死んでいく。彼らの系譜はここで終わる。幸福で、穏やかな、死の牢獄だ。私たちは美しい牢獄を見ている。だが、それでも……」
美月は、腕を掴む手に力を込めた。
続く言葉はなかった。水槽を……牢獄と呼んだ世界を、静かに見つめ続けていた。
香助は、声には出さず、もう一度問いかけた。
――君はどんな夢を見てる。
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