(6)幸せな夢
「かっわいい~~~~~~~~!!」
叫びが鼓膜をつんざいた。発したのは美月……では勿論ない。三幸来だ。胸元でぎゅっと手を握り、葛城の懐を覗き込んでいる。きらきらと輝く瞳には、赤ん坊の姿が映し出されていた。
三幸来は、美月の手を取った。
「ねえ、見て沫波さん! めっちゃ可愛い!」
不意に手を引かれ、美月は呆気なくつんのめった。けんけんでバランスを保ち、驚きで目をまん丸にする。葛城もまた三幸来の勢いにたじろいでいた。だが余裕を取り戻すのは彼のほうが早かった。にっこりと外面を繕い、抱いた我が子を傾けた。
「市子ちゃん、かわいいだって。よかったね~」
「いちこちゃんっていうの? こんにちは~、知らないお姉ちゃんですよ~」
くりくりの瞳に向かって両手を振る。赤ん坊は、見知らぬ女――見知っている人間がいるかどうかも怪しいが――を不思議そうに見つめ返していた。
三幸来は、葛城に問いかけた。
「星野くんのお身内の方ですか?」
「いや、顔見知りだよ。少年にこんな素敵なご友人がいるとは知らなかった。星野くん? 彼も中々隅に置けない」
含みのある言い方だったが、美月は勿論、三幸来にも伝わった様子はない。それより彼女は目の前の天使に夢中だった。本人に尋ねるように問いを重ねた。
「もう首据わってます?」
「ああ、少し前にね。抱っこも大分楽になったよ」
「へえ~」
そう相槌を打ちながら体をそわそわさせる。察した葛城が「構わないよ」と微苦笑を浮かべると「わあ」と喜色を溢れさせた。愛らしい指をそっと握り、握手の要領で優しく揺らす。赤ん坊は嫌がるでもなく大人しくしていた。
三幸来は、これはたまらないと身を震わせた。
「ほら、沫波さんも!」
美月は「へ?」とらしくない声を上げた。三幸来の眼差しに言葉を詰まらせたあと、困惑の色を香助へ向ける。だが、どうすれば良いのか分からないのは香助も同じだった。何も言えないでいるうちに、惑う視線は赤ん坊へ戻った。
彼女は、未知の生物と遭遇したかのように、おずおずと赤ん坊を覗き込んだ。赤ん坊もまたじっと彼女に目を注ぐ。
「どう? 沫波さん、可愛い?」
「え? ……あ、うん」
そのとき赤ん坊が「きゃっ」と叫んだ。美月は「わっ」と仰け反った。その反応が可笑しかったのだろうか。きゃっきゃとはしゃぐ声が続いた。
葛城と三幸来も、愉快そうに笑った。
「この子も君が気に入ったようだ」
「沫波さんのこと、お母さんだと思ってるんじゃない?」
「そんなわけ……」
美月は否定しかけたが、伸びてきた赤ん坊の両手に遮られた。母親と思い込んでいるかは別にしても求めていることは明白だった。葛城は、ふっと口許を緩めた。
「抱っこしてみるかね?」
その提案に美月はいよいよ言葉を失ったようだ。警戒することも忘れ、頼りなく視線を彷徨わせた。だが赤ん坊の機嫌ぐらいしか読み取れるものがなかったのだろう。再び香助に助けを求めてきた。香助はぐっと息を呑んだ。
これは、あって良いことなのだろうか?
美月が赤ん坊を抱く。
たったそれだけのことなのに、不安が鼓動を急き立ててくる。
何も取って喰おうというわけじゃない。咎められることは何もない。それでも誰かが問いかけてくる。本当にこれで良いのか、と。
答えを出せないでいる間にも無邪気な手招きは続いている。そのどこまでも純粋な要求に、惑う心は屈服した。乞うように掌を差し出し、柔らかな体を受け入れた。
腕に、ずしりと重みが掛かるのが分かった。
ようやく希望が叶った赤ん坊は、満足そうに目を細めた。美月は、自らの腕に抱いたものを……歓びに満ちた瞳を、戸惑うように、不思議がるように、じっと見下ろしていた。
「どうかね?」
父親の問いに、そっと呟いた。
「……重たい。それに、とても温かい」
赤ん坊がまた「きゃっ」と笑った。美月は、今度は驚かなかった。幼い体をしっかりと抱き締め、その存在を確かめているようだった。
彼女は何を考えていたのだろう。
小さな命を腕に抱きながら。その温もりを胸に感じながら。
「沫波さん、私にも抱っこさせてよ~」
ひとときの間、少女たちは母親ごっこに興じていた。
葛城と別れたあと三人はモール内のレストランで昼食を取った。ピザにパスタにフルーツパフェと盛りだくさんに注文を並べた三幸来に対し、美月はアイスティーしか頼まなかった。彼女はダイエット中なのだと説明すると「必要ないでしょ……」と、この世の終わりみたいな顔をしていた。
午後は話題の新作映画を観た。異世界から迷い込んできた水の精霊が、絵描きの青年に恋をするというストーリーだ。人魚姫をモチーフにしているとパンフレットに書かれていたが最後は青年と結ばれて幸せな結末を迎えた。
良い映画だったと思う。
三幸来は「二人とも末永くお幸せにねえ」とハンカチで目元を拭っていた。香助はそこまで感情移入できなかったがエンドロールを見届けようと思える程度には満足した。美月はどうだったろう。照明が現実を照らしてからも彼女は席を立たなかった。その横顔には微笑みも涙も浮かんではいなかったが、眠りから覚めたばかりのような余韻があった。
きっと彼女も満足をしていたのだと思う。きっと。
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