(5)男の決意

「ふう」

 ベンチに腰を下ろし、ボトルのキャップを捻った。舌で弾ける炭酸の刺激が昂った脳を現実に引き戻してくれる。広がる甘味と、まとわりつく気怠さ。自販機の照明をぼんやりと眺めた。

 香助は、店の傍にある休憩スペースにいた。狭い通路に自動販売機とベンチを置いているだけの空間だが付き添いに疲れ果てた人間の避難所としては充分だった。休んでいるのは香助を含めて三人。一人は大学生ぐらいの青年で大量の買い物袋に埋もれぐったりとしている。もう一人の若い父親は乳母車の前で舟を漕いでいた。起こしたら可哀想だと物音を立てないよう意識したが、気遣いの甲斐なく赤ん坊が泣き始めた。父親はびくりと跳ね起きると、ふぎゃふぎゃと不機嫌を主張する我が子に手を伸ばした。よしよしとなだめながら香助と青年に「すみません」と頭を下げてくる。香助もいえいえと会釈を返し、そこで、はたと気が付いた。

 父親が、繁々とこちらを見ていた。

(……何だ?)

 そう戸惑ったのは一瞬だった。するすると皮が剥けるように記憶が鮮明になっていく。

 香助が、あんぐりと口を開けるのと、男がにこりと笑みを作るのは、大体同時だった。

「やあ少年。奇遇だね」

 男はいたずらっぽく片目を瞑る。その人を喰ったような態度が苦々しさを蘇らせた。

「け、刑事さん……」

 一週間前に出くわした刑事だった。名前は確か葛城慶一郎。行方不明事件の捜査をしていて香助にも疑いの目を向けてきた。

 こんなところで何を?

 反射的に生じた焦りを冷静な部分が押し留めた。まさか赤ん坊を連れて捜査をしているわけでもあるまい。

 葛城は、先回りして答えを寄越した。

「一か月ぶりの休暇でね。妻と娘の機嫌を取っている」

 自嘲を浮かべ、店のほうを顎で指した。二人の位置からは店内の様子は窺えない。だが一組の母娘がいたことを思い出した。妻と娘が買い物を楽しんでいる間、一人赤ん坊の世話をしているらしい。

 状況を把握し、動揺を宥めたところで、葛城が「君は?」と振ってきた。会話の準備ができていなかったので、少しばかり言葉に詰まった。

「……見ての通りです」

「ショッピングモールの隅っこで死んだ猫に餌やりを?」

「刑事さん」

「冗談だ。そう怖い顔をしないでくれたまえ。買い物かね?」

「他に用なんてないでしょう」

「違いない。だが君の用向きではないようだね」

 何を、と抗弁しかけたところで、隣にいた青年が立ち上がった。待ち人が現れたようだ。彼は、お待たせと手を振る女性の元へ駆け寄ると、彼女からまたひとつ荷物を受け取った。香助は、仲睦まじく歩いていく二人を憮然として見送った。

「……高校生のプライベートをしつこく聞いて回るのが刑事の仕事ですか」

「場合によってはね。しかし今日は非番で子連れときている。単なる好奇心だよ。詰問のように聞こえたのなら謝罪しよう。連れがいるのかい?」

「……友達と、一緒に」

「女の子?」

「ええ、まあ」

「なるほど。はは、大いに結構」

 葛城は、勝手に納得したようだ。

「歳月人を待たず。歓を得てはまさに楽しみをなすべし、だな。十代の楽しみは十代でしか味わえない。青春の甘味とほろ苦さを存分に堪能するといい。柵が君たちを縛る前に」

 そうして困ったふうに手元を見下ろした。赤ん坊が、逞しい腕に抱かれすやすやと眠っていた。だが本人しか分からない塩梅があるのか、程なくしてまた愚図り始めた。葛城は、泡を食って父親の顏に戻り、よしよしと身体を揺らした。

 香助は、ふっと笑い、ペットボトルに口を付けた。

「女の子ですか」

 葛城は「ああ」と苦笑する。

「妻に加えて娘が二人。父親はいよいよ四面楚歌だ。将来を考えると頭が痛む。今朝だって久しぶりの休みなのだからどこかへ連れて行けと徒党を組んでなんとまあ。私とて好きで泊まり込みをしているわけではないのだから責められても困るのだがね」

「……捜査は進んでるんですか」

「よしてくれたまえよ、仕事の話は。今日は妻と娘の機嫌以外で頭を痛めたくはないんだ」

 無論、奥方の機嫌が良かろうと捜査の進展など教えてはくれまい。

 巷では相変わらず毒にも薬にもならないような情報が溢れている。三人目の行方不明者が出たことで報道は一層過熱しているが、やれ被害者の共通点は何だとか、某宗教団体が関与している(三人目の女が信者だったらしい)だとか的外れな指摘ばかりで、これはと思えるネタは見ない。尤も、女子高生の脳に棲み付いた寄生虫が通りすがりの人間を力ずくで攫って喰らっているなど埒外ではあろうが。

 その美月もしばらく動くつもりはないのだから今のうちに騒いで貰う分に不都合はない。

「だが、約束できることはある」

 葛城は静かに告げた。語調の変化を感じ取りその横顔を見上げる。また父親のそれではなくなっていた。軽薄な作り笑いも浮かんでいない。彼は、至って真摯な口調で続けた。

「犯人は必ず捕まえる。それだけは約束できる」

 手の内でボトルのへこむ音が響いた。指先で鳴っただけの軽い音。たったそれだけの音に、どうしてか途轍もない焦りを覚えた。聞き咎めるように動いた光が、香助を捉えた。

「犯罪は人生を破壊する。被害者の心身は無論、その御家族も一生癒えることのない傷を負うことになる。我が子を奪われた御両親の心痛は如何ほどのものか。……とても正気ではいられないかも知れない。親とは子供を恐ろしい目に遭わせたくない生き物なのだ。私も、あらゆる不幸からこの子たちを遠ざけてあげたい。いつまでも無邪気に笑っていて欲しい。そのためにも悪は捕らえなければならない。必ず私がそうしてみせる。必ずだ」

 宣言し、娘に頬を寄せた。

 香助は直視できなかった。喉に水分を掻き込みたい欲求に駆られたが、手はボトルに縋りついて放そうとしない。心は形を成すことができず、ただ息苦しさから逃れたくて呻いた。

「……どんな事情があってもですか」

 葛城は……よく分からなかったのだろう。正気を疑うような眼差しを向けてきた。

「親から愛する子供を奪う以上の理由があるのかね?」

「わかりません」

 真っ白な床を見つめた。

「親からは、あまり愛されていないもので」

 そう溢したあとで唇を噛む。言い過ぎだった。言って不利になるものでもないが言わなくても良かった。冷めた容器に口を寄せ、炭酸の痛みを呑み込んだ。

 自販機の稼働音に、戸惑いが混じった。

「少年、君は……」

 葛城がそう漏らしたときだ。

「星野くん!」

 甲高い声が反響した。顔を向けると三幸来が大袈裟に手を振っていた。隣には、買い物袋を提げた美月の姿。試着も終えて気が済んだらしい。何を買ったのか気になるところではあるが、それより、

(まずいな……)

 葛城と美月が顔を合わせてしまう。

 刑事に顔を覚えられるのは面白くないし、美月は美月で反応が読めない。

 ではこれで、と立ち去ることもできただろうが、腰を上げるより早く三幸来が駆け寄ってきた。

「おまたせ~」

「……いや、待ってないよ」

 舌を打ちたい衝動に駆られた。三幸来はご機嫌な様子で声を弾ませる。

「ねえねえ、沫波さん何買ったと思う?」

 知らねえよ、とは流石に言えない。背後に控える美月に尋ねた。

「何買ったの?」

「帽子とチョーカーだ」

「いや、何で?」

 スカート試着してたんじゃなかったっけ?

 詳しい説明が欲しかったが二人とも「何で?」の意味が分かっていないようなので諦めることにした。嘆息してボトルを煽ぐ。そこで、ふと気が付いた。

 葛城が――まるで信じられない光景を目の当たりにしたように――目を丸くしていた。二人の少女を交互に見やり、香助と見比べて顰め面をする。理不尽や、理解を超えた現実、あるいは単なる頭痛……そんなものに耐えるかのように眉間に指を当てていたが、やがて何かに折り合いを付けたらしく「うむ」と大仰に頷いた。

「やるなあ少年!」

 ばしばしと背中を叩いてきた。

 何すんですか。痛いじゃないですか。この娘たちとはそんなんじゃありません。

 反論の言葉が溢れたが炭酸と一緒に飲み干した。詮のない誤解を解く必要はない。

(それより)

 美月を窺う。やはりと言うべきか。警戒の色が浮かんでいた。どうやら彼女も気付いたらしい。一週間前に出会った刑事だと。それは別に構わない。葛城と美月に面識はない。過剰な反応を示しはしないか。それだけが気掛かりだった。美月は、彼が休暇でこの場にいるだけだと理解できているだろうか?

 香助の懸念を裏付けるかのように美月の貌から険しさが消えていく。警戒を解いたのなら御の字だが、そうではない。。表れたのは人形の貌だった。仮面の下に隠されていた、外敵を排除せんとする寄生生物としての素顔。

(まさか、ここで仕掛けるつもりじゃないだろうな)

 強張る香助を余所に、美月はすっと息を吸った。そして、

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