(4)不気味の谷

「え?」

 視線が跳ね上がった。目の前の男を呆然と見つめる。その口許ににこやかな笑みが張り付いているのを認め、聞き間違いを疑う。

 今、何て?

 葛城は、鼻先に指を突きつけてきた。

「え、じゃないよ。君はさっきからずっと背後を気にかけているだろう? それに最初のコンコンってやつ? あれ何かの合図だよね」

 軽くノックの仕草を見せる。

 自分はどんな貌をしていたのか、答えを知るのに鏡は不要だった。間抜けを曝しているに違いない。

(聞かれていたのか……!?)

 大きく音を立てたつもりはなかった。葛城にも気付いた様子はなかった。だが、それは擬態だった。こちらがどう泳ぐかを見極めるための!

 葛城は、香助の脇を素通りし、きざはしに足をかけた。

「大丈夫。仲間が煙草を吸ってたくらいじゃしょっぴきゃしないよ。まあ、それが薬物やレイプの類なら別だけど。あ、もしかして彼女たちを監禁してたりしない? だったら万事解決なんだけどなあ」

「だ、誰もいませんよ!?」

「だったら別に良いじゃないか。お、鍵開いてる」

 肩越しに見返り、にっと口角を上げる。制止する間もなかった。呻くような……あるいは嘲笑うかのような軋みを上げ、格子戸は無抵抗に懐を開く。同時に、黴と埃の混ざり合った空気が鼻孔を侵し、胸中に不快を齎した。

 陽光が暗闇を引き裂いていく。

「これは……」

 葛城の口から初めて動揺が漏れた。香助も追いすがって内部を覗く。朽ちかけた格子戸の奧には朽ちかけた床が見えた。虫食いの穴を無様に曝し、雨漏りのまだら模様を広げている。

 それだけだった。

「……ほら、誰もいないでしょ」

 葛城は、香助を無視し、緩慢に視線を巡らせた。床を踏み抜くことを恐れたのか踏み入ることはしなかった。必要もなかった。香助が指摘した通り拝殿の内部には何もない。最奥部には本殿が見えるが硝子戸で隔てられ、錆びた南京錠で閉ざされている。

 葛城は、行き場を失ったように立ち尽くし、やがて沈黙を破った。

「靴跡が在る」

 ぽつりと漏れた声は、視線となって香助を捉えた。見返る葛城に頷いた。

「……ええ、入りました。好奇心です」

「拝礼のための建物だ。参拝者の進入も機能の一端と言えるだろうが……」

「まずかったですか。やっぱり」

 葛城は、かぶりを振りつつ格子戸を閉ざした。

「良くはないだろうね。住居侵入罪が成立する可能性はある。とは言え、中は御覧の有様であるし、所在も分からない神主を引っ張ってきてどうこう言うほど暇ではないかな」

「すみません」

 ぞんざいな謝罪は苦笑で受け止められた。取っ手に触れて手が汚れたのか、葛城は白いハンカチで右手を包む。指の先まで丁寧に拭い、満足を見せたところで「お?」と口を丸くした。香助は、その視線の先を追う。

「あ」

 境内に猫がいた。灰色の猫だ。体格と毛並みからして、餌をやっていた猫に間違いない。ゆらゆらと尻尾を揺らし大欠伸を掻いている。目角を立てて葛城を見やると悪びれもせず笑っていた。

「私の嘘もばれてしまったね」

 そうして器用に片目を瞑る。苦虫を噛み潰す香助の脇を抜け、ひらひらと手を振りながら参道を引き返して行く。

「では少年、私はこれで。君も遅くならないうちに帰りなさい」

 知るか、さっさと消えろ。

 胸中で毒吐き、鳥居を潜る背を睨みつけた。その姿が階下に消え、落ち着きと安堵を取り戻した頃、眼前に影が舞い降りた。一瞬巨大な黒鳥を連想したが勿論違う。音もなく着地したその影は、長い黒髪を翼のように翻した。

「香助、今の人間たちは?」

「だから! 出てくんならその恰好何とかしてくれよ!」

 香助は慌てて顔を覆った。降臨した人影……美月は、眩い裸体を惜しげもなく曝していた。恥じらいも何もない。下着一枚身に着けていない。抗議の声にも眉一つ動かさない。だが香助が取り乱していては話もできないと考えたのだろう。胸と下半身を腕で隠した。

「これでいいのか?」

「いや、それはそれで……なんか……」

「注文が多いな。では、これでどうだ」

 そう言って腕を広げると、美月の背や腰のあたりから糸状のものが伸びてきた。黒い絹糸のようなそれ――どうやら髪のようなものらしい――は胸と下半身にするすると巻き付き、隠すべき部分を覆っていく。そうして彼女が全身を見下ろしたとき、黒い水着を纏ったようになっていた。

 窮屈を主張する胸を突っつき、こちらを窺ってくる。

「どうだ? 文句あるまい」

「……ああ、うん。もういいよ。それで」

 どこからツッコんでいいかわかんないし。

 徒労感が肩に圧し掛かったところで、ふと気が付いた。

「今の人間……?」

 美月は、眼球を鳥居へ向けた。

「階段の下にもう一人いたぞ」

「マジ?」

 気が付かなかった。刑事なのだから二人一組で行動をするのも当然かも知れないが。

「だが隠れてこちらを探っていたわけではないようだ。休息でも取っていたのではないかな」

「休憩、か」

 恐らくそうなのだろう。無人の神社に聞き込みの相手などいるわけがない。喫煙者の葛城が休憩がてら境内へ。非喫煙者の相方が下で待機。そんなところか。

「君が言っていた、警察とかいう集団か?」

「ああ。君が喰べた人間を探してた。ここに来たのは偶然だったみたいだけど。用心して正解だったね」

「そうだな」

 二人して拝殿を見上げた。

 美月が食事を取っていたのは拝殿の内部ではない。屋根だ。屋根ならば境内から合図を伝えやすく、すぐに身を潜めることもできる。周囲に高い建物がないから目撃される心配もない。超人的な身体能力を持つ美月ならではの選択だった。

 美月は、露わになった腹部をちらりと見た。

「一つ目の死骸はもうだ。骨の一欠片も残していない」

「順調だね。いくら警察が嗅ぎ回ろうと死体がなけりゃ動きようがない。ついでに言えば沫波美月っていう一介の女子高生には人ひとり攫う手段も、殺して処理できる力もない。睨まれる心配はないさ」

 産卵までの数か月程度であれば余裕で稼げる。それどころか迷宮入りさせることも不可能ではない。状況は至って良好だ。だが美月の貌に満足はなかった。無表情ゆえに感情を読み取ることは困難を極めるが確かに何かを案じているようだった。直立不動のまま、呟く。

「今の男」

「うん?」

「大したものだな。最初から君を疑っていたわけだ。その上で疑心を悟らせずに近付き、揺さぶりをかけてきた。表情筋を取り繕って」

 ぐるりと首だけを動かした。

「その点、君は隠すのが下手だった」

「う、ごめん」

「謝罪か。群れの秩序を維持するためにはそのような信号も必要なのだな」

 またひとりで納得し電池が切れたように黙り込む。そのうえで腕を組むなり頭を抱えるなりすれば分かり易いが唐突に動かなくなるのだから反応に困る。せめて視線は外して欲しい。何か言うべきか迷っていると、また同じ唐突さで喋り出した。

「あの人間だ」

「あの人間?」

 一瞬、誰のことか分からなかったが、どうしてかすぐに答えが浮かんだ。

「諫武未花のこと?」

「そう。あの人間はなぜ私の正体に気付いたのだと思う?」

 今度は香助が口を噤む番だった。諫武未花がどうやって美月の正体を突き止めたのか。彼女の素性が分からないのだからどこまで情報を掴んでいたのかも分からない。だが行動から推測を立てられなくもなかった。

「多分、諫武は君を排除するため学校に潜入してきた。でも誰に寄生しているかまでは特定できていなかったんじゃないかな。特定しているのなら校外で襲撃すれば済むわけだからね。つまり彼女の手元にあったのは不鮮明な画像や映像の類だったんだと思う」

 防犯カメラやドライブレコーダー、あるいは生徒間で噂されていたような、謎の怪人の目撃談。そうした断片的な情報から外見など大まかな特徴だけを把握し、宿主を特定しようとした。

「でも君の正体は外見からじゃ分からない。行動を観察して追跡していく必要がある」

 不自然な言動はないか。以前と変わった様子はないか。生活習慣の変化。周囲との不和や態度の急変。人間社会に不慣れな生物であれば歪みは必ず表層化する。諫武未花はそうした違和感を見定めようとしたのだろう。

「今思えば、彼女は転校初日から嫌に明るく振る舞ってた。君は人間の真似をするのが不得意だから一人ひとり接触して反応を確かめていたのかも」

「だろうな。実のところ……イサタケミカ? 昨日あの人間に話しかけられた」

「そうなの?」

 頷く代わりに視線が屋根へ向く。

「廊下を歩いていたら突然な。挨拶程度のやり取りだったが唐突なのが気になって少々警戒していた」

 香助は、そう言えばと宙を見る。昼休み、美月が諫武未花の様子を見に来ていた。沫波美月は他人に興味がないと聞いていたから転校生を気にかけている姿が少々意外だったのだ。

「やり取りに問題はなかった……と私自身は認識しているが君と同じく下手だったのだろう。結果的に正体を突き止められた。沫波美月の父親にしてもそうだ。表情。人間らしい振る舞い。人間らしさ、か……」

 人間味のない眼差し、抑揚でそう溢してから、美月は再び動かなくなった。今度の沈黙は長かった。面前で手を振ってみても微動だにしない。不安になってきたところで、またしても目玉だけがぎょろりと動いたので腰を抜かしそうになった。

 彼女は、口の端をぐにゃりと歪め、そして、

「にこぉ」

「いや、怖いよ」

 一転、真顔に戻った。

 元通りの無表情なのに、その貌はどこか不服そうだった。

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