(2)シュレディンガーによろしく

 四つの握り飯が入るほど香助の胃袋に余裕はなかった。残った握り飯は、剥いだ包装フィルムと一緒にバッグへ突っ込んでいる。ついでに血の付いたシャツと、美月の制服と下着、、見られたらまずいものは全部突っ込んでいるため職務質問を受けたら万事休すだ。尤も都会ではないから、そんな不都合はまず起こらないだろうが。

 きざはしから境内を見やる。唯一の入口たる鳥居からは長閑な田園風景が覗くばかりで人の現れる気配はない。時折、自動車やバイクの走行音が聞こえてくるが通り過ぎていくだけだった。今までもこうやって時間を潰してきた。だが参拝者を見かけたことは一度もなかった。用心は必要だとしても欠伸が出るのはどうしようもない。スマホを覗き、拝殿を仰ぎ見る。

 食べ終わるまで約四時間。それが美月の見立てだった。既に二時間が経過しているから一人目の処分が終わっても良い頃だ。死体は二つ。香助は、残り二時間の過ごし方に想像を巡らせ、苦く笑った。

 そのときだった。

(……あれは)

 視界の端に影が映った。

 誰かが石段を登ってきたのだ。鳥居の下にはっきりと頭頂部が見える。しかし、すぐには姿を現さない。人影は段の途中で立ち止まり、脇の草むらを覗いているようだった。

 一体何をしているのか?

 この角度では性別も分からない。目を凝らしていると、やがて影に動きがあった。僅かに覗いていた頭部が階段に従って上下を始める。間もなく境内に上がってきた人物を見て、香助は眉を顰めた。

 スーツ姿の男性だった。

 齢は三十前後だろうか。両手をポケットに入れたまま興味深そうに景色を見回している。凡そ神社には……観光地でもない、打ち捨てられた神域には不釣り合いな客だった。スーツを着ているのだから仕事中なのだろうが荷物を提げているわけでもない。土地の取引でもあって不動産業者が視察にきたのか、あるいはサボっているだけなのか。

(まあいい)

 手筈通りに動くだけだ。

 香助は、口角を上げ、拝殿の廊下をコツコツと叩いた。それで伝わるはずだった。一方の男に動きはない。鳥居の傍でしげしげと狛犬を観察している。しかし、ある瞬間――導線として当然ではあるが――男の顏が拝殿に向いた。視線が交わり、暫し互いに見つめ合った。

(……気味が悪いな)

 胸中で毒突いた瞬間、男が朗らかに笑ったのでびくりとした。

「成る程なあ」

 スーツの内ポケットに手を差し込みながら近寄ってくる。

「最近の子は興味ないものと思い込んでいたが浅慮だったかな? なに、私も学生の頃は大人たちに隠れて大いに楽しんだものさ。美味いと思ったことなど一度もないのに周りの仲間に見栄を張りたくてね。その見栄が生活に馴染んでしまったおかげですっかり肩身が狭くなってしまったのだから救いようがない。ま、禁じられた遊びに手を出してしまうのも偉大なる十代の特権だ。遼東りょうとういのこに幸あれ」

「……何の話ですか?」

 馴れ馴れしく話しかけてくる男に、そう返すのが精一杯だった。

 男は、懐から煙草のケースを取り出し、軽く振って見せた。

「とぼけなくても良い。君も吸ってるんだろ?」

「吸ってませんよ!」

 反射的に声を大にしてしまった。男は不思議そうに目を瞬かせる。「そうなのかい?」と首を捻り、内ポケットに煙草を仕舞った。

「では、こんなところで一体なにを?」

 いつの間にか、声を張らずとも会話ができる距離まで近付かれていた。香助は改めて男を観察する。しかし外見以上に判断できるものが何もなかった。会社員と名乗られれば会社員に見えるだろうし、教師と名乗られれば教師に見えるだろう。端正な顔立ちを柔らかさで取り繕ったさまは詐欺師にも見えた。左手の薬指に嵌ったリングが結婚詐欺の過程で用意されたものだと説明されても否定する理由は見当たらない。

 香助は言葉を選んだ。

「猫に……」

「猫に?」

「猫に、餌を……」

「猫に餌を」

 間抜けに繰り返してから、人差し指を向けてくる。

「だが君は餌を持っているようには見えない」

「餌ですから。もう全部あげてしまいました」

 男は「成る程」と大袈裟に合点した。

「餌には形がある。形あるものは全てなくなる。道理だな。しかし道理に合わないこともこの世の中にはあるようだ」

「? どういう意味です」

 男は、にっと頬に皺を作り、立てた親指で背後を指した。

「死んでいる猫に餌をあげることはできない。できたらシュレディンガー先生も驚くだろうな」

「……は?」

「灰色の猫だろう? 死んでいるよ。本当だ。階段の茂みに死骸がある」

 絶句し、男が示した先……鳥居を見た。拝殿からは階下は見えない。しかし男が立ち止まっていたことを思い出した。あれは猫の死骸を見ていたのか?

(でも、どうして……?)

 昨日までは生きていたはずだ。ならば……戦闘に巻き込まれたか? あり得ない話ではなかった。あれだけ派手に戦っていたのだから流れ弾を受けていたとしてもおかしくはない。不運にもほどがあるが起こり得る話だ。だが問題はそこではない。問題は……。

 男は、顎に手を添え、わざとらしく思案する素振りを見せた。

「ふむ。奇妙な話だ。ここに猫に餌をあげている少年がいる。片や餌を貰うはずの猫は死んでいる。少年、君は死者と交信する力が?」

「か……っ」

 香助は、立ち上がった。

「仮に俺が猫に餌をあげているのではなかったとして、あなたに何の関係があるんです?」

「もっともな質問……と言いたいところだが無関係かどうかは君次第かな?」

 男は、苦笑し、再び懐に手を入れた。しかし次に取り出したものは煙草ではなかった。

 黒い手帳――縦に開き、何でもない調子で翳してくる。そこに掲げられたものを目の当たりにしたとき、香助の心臓は今度こそ跳ね上がった。

 男は、にこやかに名乗った。

「県警捜査一課の葛城と言います。これも何かの縁だ。ちょっとお話を聞かせて貰っても構わないかな?」

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