第三話
(1)神前ストリップ
「食べ方を工夫してみようと思う」
美月は、制服の上着を脱ぎながら、おもむろにそう告げた。香助は握り飯を一口齧った。顎の動きに従って塊は崩れ、磨り潰されていく。舌に広がる鮭の味。一日振りの食事は値段以上の満足感を与えてくれた。その満足をごくりと呑み込み、木々に囲まれた空を仰いだ。時刻は午前十一時半。太陽は真上に差しかかろうとしていた。
三幸来は、美月の見立てから大幅に寝坊し、凡そ二時間後に目を覚ました。晴れの日の朝にそうするように心地良く背伸びをした彼女は、何故自分が意識を失ったのか、意識を失ったあとに何をされたのかも覚えていなかったが喉の調子が良くないとしきりに首を捻っていた。それから「体調が悪いようだからまた別の機会に」という提案を素直に聞き入れ、沫波邸を後にした。美月と親しくなれたことを最後まで喜んでいるようだった。
三幸来を見送った二人は、その足で神社へ引き返した。二つの遺体を処理するためだ。気を揉みながら戻ってみても警察や野次馬が騒いでいることもなく境内は静謐そのものだった。香助はひとまず胸を撫で下ろし、拝殿の階に腰を下ろした。あとは美月が遺体の処理をするだけだ。自分は見張りに徹していれば良いと、丸一日ぶりのコンビニ食を頬張っていたところ、唐突に彼女が宣言した。食べ方を工夫してみたいと。
鮭の塩味を味わいながら問い返した。
「肉の味付けを変えたいってこと?」
「作法を変えたいという話だ」
今ひとつ分からなかった。
「前はどうやって食べてたのさ?」
「君と同じように口で食べていたさ。多少は大きく開いていたがね。だが君の話では血肉が僅かでも残るのは良くないのだろう?」
「ああ。警察って奴らがいるんだ。物証を残したらそいつらが捕まえにくる」
「それは私を襲ってきた人間とは違うんだな?」
「多分ね。人間同士の争いを取り締まる連中だよ。殺人とか、誘拐とか。君が起こした事件は既に注目を集めてる。今はまだ事件の概要も掴めてないみたいだけど、いずれ必ず真相に迫ってくるよ。可能な限り証拠は残さないほうが良い」
香助には科学捜査の知識などない。だが生半可なことでは隠し通せないという認識だけは持っている。血痕。足跡。毛髪。死体の血肉……。雨によって流されてしまったものも多いだろうが、それでどこまで安心できるものか。大切なのは捜査自体をさせないことだ。糸口を掴ませてはならない。
美月は、首のリボンをするりと外しながら「成る程」と呟いた。
「君たちは社会性を有する生き物だ。群れの機能を乱す個体には自浄作用が働くわけか」
香助は、コーラで喉を洗い流した。
「最初の一人はどこで食べたの?」
「どこかの山の斜面だな。住宅街で捕獲して屋根伝いに運搬した。別に深く考えていたわけではない。人目を避けようとしたらそんな場所しかなかった。人間がそう簡単に立ち入れる地形ではないが食い散らかした。君の言う証拠は山ほど残っているはずだ」
二人目も同じだ、とリボンを無造作に床へ落とす。
つまり場所が特定されていないだけらしい。そのまま何年も発見されない可能性もあるが、何かの拍子にあっさりと見つかる可能性もある。だがスマートフォンの位置情報を探られると考えれば前者を期待すべきではないだろう。現場に遺留品があるのなら早急に回収すべきかも知れない。
そこでふと、致命的な考えに思い至った。
「そう言えば、君の……沫波美月の親父さんだけど、殺したのはまずかったんじゃ? 仕事先から連絡があるだろ?」
「さあ? 今のところ問い合わせなどはないな」
「……何の仕事してたの?」
「沫波美月の記憶では作曲家となっている。部屋に篭るか、一人でどこかへ出かけるかのどちらかで、定期的に他者と会っていたわけではないようだ」
「作曲家。作曲家なのか……」
存在することは知っているが実物を見たことは一度もない。図鑑でしか存在を確認できない希少動物のようなイメージだ。決まった時刻に出勤する仕事ではないかも知れないが他人と接点がないわけでもあるまい。少なくともプロダクションの人間とはやり取りをする機会はあるはずだ。
今は作曲に集中しているため取り次ぎできません。旅行に出かけているため所在が分かりません。私に言われても困りますので父に直接お問い合わせください。
そんな言い訳が通じるものだろうか?
「構わない。どうせ二、三か月のことだ。知らぬ存ぜぬで通してみるさ」
美月は、肩にかかる髪を跳ね除け、胸元に手を伸ばした。
「彼を殺すつもりはなかった。お前は誰だと問い詰められたから仕方なく殺した。私の擬態が不完全だったせいだ。あれは不用意な殺しだった」
「美月……」
バッグを見た。中にはまだ三つの握り飯がある。二食抜いて空腹だったので多めに買ってしまったが、とても全部は食べられそうになかった。
美月は、シャツのボタンをたどたどしく外しながら続けた。
「いずれにしろだ。これからはもっと慎重に、だろう? そこで私は考えたのだが」
「ところで何で脱いでんの?」
ボタンを摘まむ手がぴたりと止まる。彼女は胸元に目を落としたまま停止していたが、やがて何事なかったように作業を再開した。
「そこで私は考えたのだが」
「聞けよ。さらっと流すな」
「うるさいな、君は」
美月は、無表情のまま――だが、どこか面倒くさそうに――言い分を口にした。
「脱がないと服が汚れるだろう」
「そりゃそうだけどさ」
彼女は、じっとこちらを見据えたままシャツ、次いでインナーを脱ぎ捨てた。スカートを残し上半身は布一枚になる。神前で下着姿になる少女。背徳的な光景は少年の動悸を健全に乱した。露出は昨晩より少ないが明度が違う。陽光の下、肌が艶めかしく輝いている。美月は、目を伏せる香助をじろじろと無遠慮に観察し、ふむとひとり納得した。
「恥の概念か。それもまた人間が社会秩序を保つためには必要な要素だな。擬態を完成させるためには学んでおいたほうが良いのだろうが」
知ったふうなことを口にし、右腕を持ち上げる。
「見ろ、香助」
促され、恐る恐る目を動かした。雪のように眩しげな腕。よく見れば肌が薄っすらと汗ばんでいるが注目すべきはそこではない。掌が仄かに青く光っていた。変形の兆候だと気付いた矢先、横一文字に裂け目できた。刃で裂いたような跡だ。香助が息を呑む間にも、裂け目は広がり、肉を盛り上がらせ、やがて大きく口を開いた。文字通り、大きく口が開いていた。
「これは……」
唇が、歯が、舌が、掌に形成されていた。顔面にあるそれと変わらない、人間の口だった。美月は操作感を試すように掌の口を動かして見せた。閉じて開き、歯を剥き、赤い舌を突き出す。正反対に、動きの乏しい口調で彼女は言った。
「私は全身のどこにでもこれと同じものを作ることができる。腹だろうと脚だろうと乳房だろうと。そしてそれらは顔面に在るものと同じように機能する」
「つまり、君は全身で人間を食べることができる」
「その通り」
掌の口が、かちかちと歯を鳴らした。
「これは君に分かり易いよう可視化したに過ぎない。実際は肉眼では捉えられないほど微細な口を皮膚全体に形成することも可能だ。そして、消化液で肉を溶かしながら啜れば……そうだな、恐らく君の目には皮膚に死骸が吸収されていくように見えるだろう」
「血や肉が飛び散らないわけだ」
美月は「その通り」と拳を握った。そして次に指を開いたとき掌の裂け目は消え失せていた。改めて痛感する。何と出鱈目な生き物だろう。怪力。変形。再生。知性。常識外れな能力が披露されるたびに、自然の生き物ではないという思いが強まっていく。
「だが、この方法は食べ終わるまでに時間がかかる。そこで君の出番だ」
「分かった。誰か来たら合図する」
彼女は頼むと頷いた。香助は握り飯のフィルムをくしゃりと丸めバッグに放り込んだ。替わりに別の握り飯をひとつ取り出し、具の中身を確認する。
(シーチキン)
ふと脳裏に閃くものがあった。黙っておくべきか迷ったが訊いてみたいという欲求に勝てなかった。握り飯を見下ろしながら問う。
「覚悟が決まっていないとは受け取って欲しくはないんだけど」
スカートのアジャスターに伸びていた手が止まる。
「人間以外の食べ物で代用することはできないの?」
濁った鳴き声が空に響いた。鴉だ。獲物を追いかけているのか、獲物として追われているのか。緊迫した悲鳴は幾重にも重なり、やがて遠退いていった。静まるのを待ったわけではないだろうが、境内が無音を取り戻した頃、彼女は答えた。
「可能だろうな」
瞠目を自覚した。ただの思い付きが現実味を帯びたことに驚悸を抑え切れなかった。そんな香助の胸中を美月は否んだ。
「だが却下だ。理由は二つ。ひとつは、いくら可能性があろうと失敗しないという保証がない。そもそも何を代替として摂取すれば良いかが分からない。人間を栄養素として摂り込むことができたのは運が味方をしたからだ。他の代替物ではそうはならないかも知れないし、場合によっては有害にすらなり得る。私が次世代を残せるかどうかがかかっているのだ。私は、私を使って危険な実験をするつもりはない」
「……もうひとつは」
尋ねた瞬間、怖気が奔った。こちらを捉える双眸に昆虫のような無機質さが宿っていた。冷然と告げてくる。
「私自身が人間を喰らうことを欲しているからだ。君たちの言葉を借りれば本能と呼ぶべきものだろう。私はこの欲求に逆らうつもりはない」
動脈を刃先で撫でられるような緊張感。震える手先が必死に訴えかけていた。依然として立場は存在するのだと。蜘蛛と蝶。捕食者と被捕食者。彼女の側に立ったところで、それが変わるわけではない。慎重に喉を動かした。
「……分かった。君はそのままで良い」
辛うじて呻くと張り詰めた空気が微かに弛緩した。彼女の視線は香助から離れ、一本の杉の木の先端へ……鴉のいなくなった空へと注がれた。
「同胞の犠牲を抑えたいという姿勢は理解する。だが私にとってはそうではない。人間だろうと、他の生き物だろうと、命を奪うことに変わりはない」
何を見ていたのだろう。眩むような光が在るばかりで掴めそうなものは何もなかった。彼女は、暫しの間、虚空を仰いでいたが、やがて目を伏せ、腰に手を伸ばした。スカートがするりと床へ落ちる。眩しい脚が露わになり、いよいよ上下とも布一枚になる。眼福と眺めていたいところだが、これ以上脱ぐなら場所を変えて欲しかった。耳を真っ赤にしていると「そう言えば」と呟く声が聞こえた。
「どこで死骸を喰べるか決めていなかったな」
「? 今隠してるとこじゃ駄目なの?」
彼女は、呆れたようだった。
「君は昨晩自分が何を見たのか覚えていないのか?」
「あれは、まあ……はは、確かに」
冷たい眼差しが、林へ向けられる。
「次の目撃者が君のような変わり者だとは限らない。それに、ここから距離も離れている。君に見張りを任せていても合図を送る術がなければ意味がないだろう?」
そこまで警戒するなら白昼堂々半裸になるな。
そう思いはしたが、また睨まれそうなので黙っていた。
「人が来たら電話をかけるってのは?」
「無理だな。私はその機械を持っていない。家に帰ればあるかも知れないが……」
美月は、ぼそぼそと声を窄めながら両腕をだらりと垂らした。そのまま棒立ちになって動かなくなる。奇妙な挙動だったが、どうやら思案に耽っているらしい。思考にリソースを裂くと肉体の操作が疎かになるのかも知れない。香助もまた額を拳で小突く。
人の出入りを監視するなら香助は境内で待機するしかない。香助から情報を受け取るためには美月は近くで食事をする必要がある。人を見つけ次第走って知らせに行っても身を隠す時間はあるだろうが不審がられる行動はなるだけ避けたい。境内の近くで、香助の合図が確認できて、すぐに身を隠せるような場所。
香助は、肩越しに振り返った。
古ぼけた拝殿が、二人を見守るように佇んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます