(7)生への畏敬
「もういい。充分だ」
肩に置かれた手を、香助は乱暴に振り払った。犬歯を剥き、喰らいつかんばかりに相手を睨みつける。そこで、はっと我に返った。平静な眼差しがこちらを見下ろしていた。
「君の覚悟は分かった。それ以上やると、君の友人が本当に死んでしまうぞ」
香助は、眼下に向き直った。
圧迫の緩んだ喉から、ごぼり、と排管が抜けるような音が鳴った。音は、暫しの間、三幸来の四肢を痙攣させていたが、徐々に穏やかな呼吸へと落ち着いていった。頸から離れた両手からも次第に熱が失われていく。乱れた呼吸を整えながら口許、そして目許を拭った。
「……君の、知ったことじゃ、ないだろう」
彼女は「ふむ」と頷いた。
「その通りだな。私の知ったことではない。だが君にとってはそうではないだろう? 私が人を食べることに変わりはないが、それが君の友人である必要はない。幸い食べ損ねた死骸が二つもある。当面はそれで充分。これ以上の殺生は無意味だ」
肩で息をしつつ茫然と少女を見上げた。上手く理解できなかったのだ。彼女が何を語っているのか。それは暴力がもたらした興奮のせいでもあったし、人喰い生物が見せた意外な温情のせいでもあった。だが、これ以上三幸来を傷付ける必要がないことだけは確からしかった。
三幸来から身体を剥がそうとしたが気が抜けてしまったらしい。ふらついた背に、彼女が手を添えてくれた。
「君の友人は一時間もすれば目を覚ます。緊張で倒れたとでも説明して家に帰してあげれば良いさ。君、名前は?」
酩酊した頭でぼんやりと記憶を手繰る。
名乗らなかっただろうか? どちらでもいいが。
「香助……。星野、香助」
「ホシノキョウスケか」
味わうように繰り返す。抑揚のない声音が耳に心地良かった。
彼女は、淡白に続ける。
「香助。私は君のことが理解できたわけではない。しかしどうやら嘘はないらしいことだけは分かった。認めよう。私に協力して欲しい」
言い終えると同時に右手が差し出された。夢を見るような心地で、差し出された手と少女を見比べた。黒い瞳がぱちぱちと瞬く。
「? この挨拶は間違っているのか?」
居間に射し込んでくる陽の光が、少女の双眸に映り込んでいた。
瞬間、靄が晴れたような気がした。
込み上げてくるものに従い、香助は苦笑した。
「いや……合ってるよ。君こそ、名前は?」
「言っただろう。名前などないよ。沫波美月とでも、何とでも呼んでくれ」
「じゃあそれで。よろしく美月」
「ああ、よろしく。香助」
そうして二人は手を取り合った。香助には他人と握手をした経験などなかったので少しだけむず痒く、少しだけ誇らしい気持ちになった。もしかしたら彼女も……美月も同じなのかも知れなかった。やはり表情に変化は見られなかったが、手が離れたあとも、じっと掌を眺めていた。
やがて美月は、横たわった三幸来を抱え、傍にあったソファに寝かせた。すうすうと寝息を立てるその姿を見て、香助はようやく安堵を覚えた。
「暫くは人間を狩らなくても構わないってことだよね」
「ああ。怪我と変形で消耗した分を差し引いても二週間は保つだろう」
「じゃあ、次の狩りは二週間後か」
「いや、もう少し後でも構わない」
眉根を寄せる香助を尻目に、美月はキッチンへ向かった。高級そうな食器棚を横切り、冷蔵庫に手を伸ばすと、披露するように扉を開いた。
「ここにストックがある」
香助は呻き、後退った。
押し込められていたのは野菜でも調味料でも、ましてや牛肉でもなかった。冷蔵庫を額縁に見立てた奇怪なオブジェかとも思ったが、それも違う。
人間だった。
齢は四十から五十ほどの中年男性。不自然に折り畳まれた形で押し込められており、複雑に交差した手足の隙間から窮屈そうにこちらを覗いていた。その焦点の合っていない虚ろな瞳が男性の生命活動が停止していることを明白に示していた。
男性は部屋着姿だった。齢の頃から言って恐らく……。
「……はは」
主のいない部屋に、乾いた笑いが響いた。
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