(4)汚れた世界

「ところで星野くん。どうして下だけ制服なの?」

 隣を歩く三幸来が、素朴に訊いてきた。

 香助は、Tシャツの胸元を摘まんだ。

「……はは、まあ、色々あって」

 沫波の血で汚れたからシャツは脱いでバッグに突っ込んでます、とは流石に言えない。追及を拒む空気が伝わったのか、三幸来も深くは詮索してこなかった。

 半袖が不自然な季節ではない。半端に学生服を着ている高校生がいても、奇異な目を向けられることもないだろう。それでも香助は、自身の軽装に落ち着かないものを感じていた。

 独り先行する沫波の後ろで、立ち並ぶ家々を左見右見とみこうみする。どの家も真新しく、門構えが立派で、塀か庭木、あるいはその両方に囲まれていた。教会のような西欧風の建物もあれば、現代美術館を連想させる建物も見かけたが、一軒あたりの敷地が大きいことは共通している。小学生でも知っているような高級車が三台並んでいる豪邸の前を横切りながら、ぽつりと溢した。

「あいつの親、何やってんだろうな……」

「ホント。素敵なおうちがいっぱいだね」

 三幸来もまた感心の声を上げる。だが香助は知っていた。三幸来の家もここらに並ぶものに引けを取らないほどの邸宅だったはずだ。確か、両親のどちらかが研究者で、どちらかが会社役員だと聞いた。香助も、自分が経済的に恵まれているという自覚はあるが、沫波や三幸来の家と比べれば、落ちるのは一枚や二枚の話ではないだろう。

 横目に見やると、三幸来が照れ臭そうにはにかんだ。

「ありがとうね、星野くん」

 意味が分からず眉を顰めた。感謝される覚えなどない。彼女は、華奢な肩を寄せてきて、沫波には聞こえないよう声を潜めた。

「いきなりでおどろいちゃったけど本当にうれしいんだ。沫波さんとはずっとお話をしてみたかったから」

 気恥ずかしいのか、舌足らずな口調で続ける。

「ほら、きのう言ったでしょ? 沫波さん、あまりひとと話すことがないの。さっきみたいにおしゃべりをしてるの、授業で受け答えをする以外じゃはじめて見たかも」

「それは、以前からずっと?」

「うん。一年生の頃から、ずっと」

 沫波美月とは入学当時から同じ特進クラスらしい。その頃から彼女は他人と交わる姿勢を見せなかった。行事やグループワークなどで事務的な会話を交わすことはあっても、それ以上踏み込めた生徒はいない。友人はおらず、部活動にも興味がない。誰も、沫波美月の放課後の過ごし方を知らない。

「彼女、いつも何かに怒ってるみたい。何に怒ってるのかは分からないし、誰かを責めるわけでもないんだけど、肌に伝わってくるって言うのかな。静かなのにぴりぴりしてて、クラスに不発弾があるみたいって言われたりもして」

「怖がられてる?」

「……どう接したら良いのか分からないって感じかな」

「八田さんも?」

「私は……」

 三幸来は、そう口にしかけたが続く言葉はなかった。夢見るような眼差しを黒髪で覆われた背に注ぐ。三歩、四歩と靴音を響かせてから、思い出したように話し始めた。

「去年の秋頃だったかな。彼女が泣いてるのを見たことがあるの」

「……泣くって?」

 目を擦る仕草をして見せると、三幸来は無言で頷いた。

「何かあったの?」

「……わからない。放課後、教室に忘れ物を取りに戻ったら、窓際の席に彼女が座ってて、夕空を眺めながら、ひとり……泣いてたの」

 すすり泣くでもない。しゃくり上げるでもない。

 静かに……ただ静かに、涙を流していたという。

「そのときの彼女、とてもさみしそうで、とても……きれいだった」

 三幸来の口調は語りかけるそれではなく、彼女の内側に在るものが自然と滲み出しているようだった。しっとりとした声が心に染み入り、放課後の教室を鮮やかに描き出した。

 心寂しい姿は、やがて揺れる黒髪に重なった。

「それからかな? このひとの瞳は何を映してるんだろう。どんな世界を見てるんだろう。また泣いたりしてないかなって気になっちゃって。がんばって話しかけてみたけど相手にされなくて今に至る……みたいな? あはは、星野くん、彼女に一体どんな魔法をかけたの?」

 答えようのない質問だった。口ごもる香助を見て、三幸来はくすくすと肩を揺らした。

「良いの。沫波さんが寂しい想いをしてなければ。最近は雰囲気も柔らかくなってきてるし、きっと彼女も良い方向に変わってきてるんだと思う」

 そうして、ふわりと微笑んだ。

「だからね、〝ありがとう〟なの。彼女と仲良くなってくれて」

 うれしかった。

 胸に手を当て、味わうようにそう呟いた。その呟きが肩に圧し掛かり、視線は耐えかねて足元へ落ちた。雨の中で死体を引き摺ったせいだろう。古びたシューズは一層泥に塗れていた。汚れた靴が踏みつける地面もまた、ぐにゃぐにゃと波打って、気持ちが悪かった。

 鳩尾を掴み、込み上げる吐き気を辛うじて留めた。

「八田さん」

 目を合わせられないまま、告げる。

「本当にごめんね」

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