(5)呪詛

 それから沫波美月の家まで数分となかった。彼女は、ある一軒の邸宅――冠に〝大〟を付けても異論はなさそうに思えた――の、凝った意匠のフェンスを無造作に開けると、玄関までの道程をやはり無造作に突き進んでいく。香助は、敷地に足を踏み入れるだけで罪に問われるのではないかと怯んだが、無論のこと杞憂だった。お邪魔しますと小声を発し、先を行く沫波の後を追った。門から玄関までは庭木と草花で飾られていて、さながら植物園のようだった。中でも一際目立つ一本を見上げ「桂の木だね」と三幸来が呟く。一方の香助は花壇の様子に違和感を覚えた。至る所から雑草が生えている。見苦しいほどではないにしろ放置されているという印象を受けた。そんな目線で庭木を観ずると、どこか歪で不格好に映った。薄ら寒いものを感じを窺う。彼女は玄関の軒先で二人を待っていた。重たげな扉のノブを掴み、僅かに頭を下げた。

「さあ。入って」

 黒い扉がゆっくりと口を開く。下腹が締め付けられる感覚に唾を呑んだ。三幸来もまた緊張しているようだが別の理由だろう。瞳は期待に煌めいていた。香助は、重い靴底を引き摺り、玄関の扉をくぐった。

 明るい、というのが最初の印象だった。

 照明の明るさではなく自然光の明るさだ。見上げると吹き抜けになっていて天窓から陽の光が射し込んでいた。真っ白なクロスを自然光で照らすことで嫌味のない爽やかさを演出する狙いがあるようだが余裕のある空間の使い方がいかにも上流らしかった。磨かれたフローリングにはマットが敷かれ正面の壁面には螺旋を描く奇妙な工芸品が鎮座している。庶民の香助には、どんな高尚な観念を表現した代物なのか分からないし、どの程度の価値があるのかも分からない。しかし仮に大金が手に入ったとしても同じものは買わないだろうとは思った。金持ちの趣味は分からない。

 奧には居間へと続くであろう扉が見えたが、扉は扉であることを主張するのみで何の情報も与えてはくれなかった。

 香助は、僅かでも状況を把握しようと耳を欹てた。

 そのとき、背後でどさりと音がした。

「え?」

 振り返った先に三幸来の姿がなかった。否、視界に入らなかっただけだ。彼女はぺたりと腰を着け下駄箱に身体を預けていた。だらりと垂れ下がった両腕と、傾いた首。閉ざされた瞼。その頬を舐めるように半透明の物体を蠢いている。元を辿ると裾の捲れたスカートに行き着いた。の腰から一本の触手が伸びていた。

「毒針だ」

 先端を持ち上げて示した。

 香助は、膝を突き、三幸来の頬に触れた。

「安心しろ。人間を殺すほどの毒性はない。量を注げば二度と四肢を動かせなくなるだろうが、今ぐらいであれば一時的に意識を失わせる程度だ。直に目を覚ます」

 彼女は、触手を一振りし、スカートの内側へ仕舞い込んだ。律儀にローファーを脱いで、奧にある扉へ近付いていく。

「運べ。居間へ案内する」

 香助は、唇を噛み、三幸来の両脇に腕を差し込んだ。三幸来は小柄で体重も知れている。フローリングを引き摺って運ぶのに苦労はなかった。開かれた扉を抜けて居間に入る。予想通り人の姿はなかったが、その理由を考える余裕はない。ソファの前で待つ沫波の足元まで運んで寝転がした。三幸来は、巨大なゴム人形のようにぐったりと横たわる。せめて手足の位置を整えてあげたい衝動に駆られたが、これからのことが気がかりで動けなかった。

 香助は、沫波を見据えた。

「君の指示通りだ」

「ああ」

「君は、この娘を……」

 どうするつもりだ、と口にし掛け言葉を呑んだ。怯懦に過ぎなかったからだ。察しはとうに付いている。言語化を相手に押し付けたところで臆病を曝す以上の意味はない。ごくりと喉を上下させ、慎重に……刃物を取り扱うように言葉を紡いだ。

「君は、この娘を、喰べるんだな?」

「その通りだ」

 少女の姿をした生物は、悪びれず即答した。

 八田三幸来を沫波美月の家まで呼び寄せること。それが彼女の『やって貰いたいこと』だった。理由の説明は一切ない。だが仲良く紅茶で語り合いたいわけではないことぐらい香助にも理解できた。そして想像し、覚悟した通りの答えを、この生物は寄越してきた。

「だが殺すのは私ではない。君だ」

「は?」

 頓狂な声が漏れた。沫波は重ねて告げた。

「君がこの人間を殺すのだ」

 意味が理解できなかった。

 尻尾のような触手が三幸来の腕を小突いた。

「私はまだ君を信用したわけではない。つまりは、これから君の同胞を何十人と喰い殺そうという私に協力したいと申し出た君のことを、だ」

 当惑する香助を余所に淡々と言葉を繋ぐ。

「動けなかった私に危害を加えなかったから信用しろと? 成る程。一理ある。だが、それは君が混乱して適切な対応を取れなかっただけかも知れないな? あるいは同情が判断を鈍らせただけも知れない。私の繁殖に協力する? 助かりたくて出まかせを言っただけだろう」

「違う! 俺は、本当に」

 ぐるりと向けられた双眸が反論を制した。

 信頼、疑念。そんな感情からは程遠い、黒暗暗たる瞳。

 深い場所から告げてくる。

「口ではどうとでも言える。君が私の友人になれるかどうかは君自身が行動を以って示さなければならない。殺せ」

 促され、足元を見下ろした。横たわった三幸来の姿を。その寝顔は幼子のように安らかで、四肢を無防備に曝していた。。香助は、そこに強い抵抗を感じ取った。細く滑らかな首筋に。ゆっくりと上下する胸に。手首を奔る血の筋に。強力な、触れ難い力を感じ取っていた。

 熱を帯びた眼で、少女を窺う。

「私に協力したいのであれば、できるはずだ」

 彼女は繰り返した。

 殺せ、と。

 呪詛は香助の五体に絡みつき手足の自由を奪い取った。肺は窮屈な息しか継げず皮膚という皮膚から汗が噴き出す。震える腕を辛うじて持ち上げ自らの口許を掴んだ。そうしなければ抑えられなかった。叫びも。口腔から込み上げてくるものも。

 殺す? 三幸来を? 寄生生物への信用を示すために?

 理屈は分かる。正当性すらある。彼女に協力するということは。香助とて三幸来を捧げる覚悟までは決めてきたのだ。しかし全く不足していた。まさか自ら手を下すことになろうとは。

 三幸来に対して特別な感情はない。友人かどうかも怪しい。だが毎朝無邪気に笑いかけてくる彼女を赤の他人と同じように考えているかと問われれば違うと答える。ましてや命を奪うなど。

 口許に歪みが広がった。香助は、歪な笑みを張り付けたまま今一度少女に伺いを立てた。昏い瞳は何も反射せず、視線の裏側に在るものなど見透かしているようだった。

 人の域を超えた存在。

 ならば間違っているのは――。

 美しい唇が、三度言葉を紡いだ。

「殺せ」

 香助は、美しさに服従する道を選んだ。

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