(3)ネペンテスの香り

 人間が、理由もなく存在を許されている場所は案外少ない。

 それが香助の実感だった。そもそも存在意義などないというのに存在するためには理由が求められる。家族だから。友人だから。生徒だから。病人だから。理由のない人間は家にも学校にも居場所はない。吸血鬼が家主の招きを得ようとするのも客人という理由が得られなければ存在できないからだろう。元より存在などしていないのだから。

 ベンチに座り、きらきらと雨露を輝かせる芝生を眺めながら取り留めもなく考える。

 公園という領域も例外ではなかった。幼いときは楽園のように感じられた遊び場も、あどけなさを失った頃から自分のものではなくなった。十代も半ばを過ぎた人間が存在するには幼さとは別の理由が必要だった。たとえば、そう、待ち合わせのような。

(あと十五分か……)

 スマートフォンを握る手を、膝の間にだらりと垂らした。

 相手が指定してきたのは沫波美月の自宅近くにある公園だった。敷地が広く、高校生二人が屯していても不審がる人間は特にいない。けれど幼児たちがはしゃぐ中、ベンチに居座ってじっとしているのも甚だ居心地が悪かった。香助も、彼女も、本来こんな空間にいるべき存在ではない。

 香助は、眼前の光景を苦々しく見つめた。晴れ間が覗き始めた空の下で、幼い姉弟がボールを転がし合っている。親が見守って然るべき齢に見えるが両親の姿は見当たらない。代わりに彼らを見つめているのは微動だにしない

 外見というものはつくづく重要だ。

 仮に幼子を観察しているのが薄汚れた中年の男だったとすれば、その真意の如何を問わず、他者は彼に警戒の目を向けるだろう。だが美貌の少女が幼児を見つめていたからと言って誰も危険とは思わない。平穏や、微笑ましさを感じるだけだ。だが彼女の正体を知る香助からすれば、真逆の印象を抱かずにいられなかった。

 気付けば、軋むほど筐体を握り締めていた。

 はっとして力を緩め、取り繕うようにディスプレイを立ち上げた。着信や通知の類はない。次いで公園の四方へ目を這わせたが、目ぼしい人影はどこにもなかった。額を拳で小突き、逸る心臓に言い聞かせた。

(落ち着け)

 自分で決めたことなのだから落ち着け、と。

 一方の彼女はマネキンのように動かない。こちらの動揺などまるで意識してないように見える。しかし……。

 スマートフォンを覗く。周囲を見回す。額を小突く。溜息を吐く。同じ動作を繰り返しても胸騒ぎは治まらない。やがて液晶の数値が八時半を示した頃、芝生を隔てた向こう側に子供ではない人影がぽつりと現れた。影は背筋を伸ばしてきょろきょろしていたが、香助たちの姿に気付くと遠目でも分かるほど大袈裟に手を振った。濡れた芝生を突っ切らず、石畳の歩道を迂回してくる。一分もあればこちらに来るだろう。

 時間が停まって欲しい。

 香助は、その想いから眼を逸らした。はポニーテールを揺らしながら軽快に距離を詰めてくる。そして、お互いの顏が判別できるほど近付いたとき改めて胸元で手を振った。

「星野くん、おはよー」

「……おはよう、八田さん」

 八田三幸来は、何が嬉しいのか、能天気そうに――学校へ行くときいつもそうするみたいに――ふわふわと笑った。だが今日は制服を着ておらず、チェック柄のワンピースに、白いポーチを提げている。『女の子』を形にしたような装いが、顔立ちの幼い三幸来にぴったりだった。

 香助は、立ち上がり愛想を作ったが、上手く出来ている自信はなかった。

「土曜なのに、ごめんね。まだ寝てたんじゃない?」

「ううん、休みでも早く起きてるから。ほら、みんなにご飯あげなきゃだし」

 みんな、というのは彼女が飼っている動物たちのことだろう。

「じゃあ、やっぱりごめん。忙しかったでしょ?」

「ぜんぜん! みんな腹ペコだからあっという間。自分の卵焼き作るほうが時間かかっちゃうかな?」

 フライパンを返すような仕草を見せてから、えへへとはにかむ。香助もつられて笑みを返したが、会話は膨らまずに萎んでいった。彼女は、そわそわと肩を揺らし「それで、その」と首を伸ばした。

 香助も気付いていた。三幸来はずっと彼女の存在を気にかけている。状況が不自然極まりないのだから当然だ。香助の中で、ようやく本題に入れるという安堵と、いよいよ本題に入ってしまうという気鬱さが、煙のように混ざり合った。半歩身を引き、彼女に腕を差し向ける。

「うん。沫波美月さん。俺より詳しいと思うけど」

 は、腰を上げ、ぺこりとお辞儀をした。そういう仕草も知っているらしい。

 香助は、意識して言葉を並べた。

「昨日の放課後、ちょっと話す機会があってね。その、意気投合したって言うか……そう、簡単に言えば友達になったんだよ」

「そ、そうなの? 沫波さんと、星野くんが?」

 うんうんと、縦に首を振る。

「彼女、こう見えて……動物が好きらしくてね。八田さんもそうだって教えて上げたら、是非とも話がしてみたいって」

 三幸来は「そうなんだ」と曖昧な相槌を繰り返した。不審がっていると言うより、状況に思考が追い付いていないようだった。さもありなん。三幸来は。親しくなろうとして拒絶されてきた。それが急に態度を翻されたら……昨日まで面識がなかったはずの香助と仲良くしていたら、いくら三幸来でも戸惑うだろう。

 どうやって納得させるべきか。

 言葉に窮していたとき、が一歩前へ出た。

「八田さん。急に呼び出したりしてごめんなさい。迷惑だったかしら」

 その口調が一変していたから香助は驚いた。三幸来は「迷惑だなんて」と泡を食う。

「ただ、ちょっと驚いちゃって。私のほうこそごめんなさい」

「学校ではあまり話をしないものね」

「うん、それに、二人が一緒にいるのも、すごく不思議な感じだなって」

「そうね。私もとても奇妙に感じているわ」

 は、柔和な態度で三幸来に接する。と言っても、やはり淡々としていて人間味はない。恐らく沫波美月本人のそれを真似ているだけなのだろう。口調の端々から作り物めいたものが滲み出ているが事情を知らない三幸来は気付いていないらしかった。

 伺いの笑みを向ける。

「それで、私に話って?」

 は、わざとらしく視線を巡らせた。

「ここで立ち話をするのも何だし、私の家に来ない?」

「え!?」

「この近くなの」

 三幸来はいよいよ目を丸くした。はことりと首を傾けた。

「だめ?」

 垂れ下がった黒髪が、赤い唇を隠していた。香助は強く奥歯を噛み締める。そうしなければ図らず何かを口走ってしまいそうだった。三幸来は、上気した頬に手を当てた。

「ありがとう。でも、良いのかな? 私なんかが沫波さんちにお邪魔しちゃって」

「いいのよ。遠慮しないで」

「そう? だったらお言葉に甘えようかなあ、なんて」

 三幸来がそう答えた瞬間だった。。話は終わった。そう言わんばかりにすたすたと出口へ歩を進める。突如として会話を打ち切られた三幸来は、何が起こったのかも分からない様子だった。香助は、立ち尽くす三幸来に、力なく笑いかけた。

「行こうか、八田さん」

 三幸来は、狐につままれたような貌で、うんと頷いた。

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