(2)F列車で行こう

 その小さな駅に着く頃には夜が明けていた。雨は止み、雲は薄らいでいるが晴天には程遠い。ホームには靄が立ち込め、どこか異界めいた雰囲気があった。

 香助には早朝から電車に乗る習慣がない。だから朝のホームの風景は新鮮だった。まだ鳥も鳴き始めたばかりなのに、もう電車を待っている人がいる。所在なさげにスマホを覗いているスーツ姿の男性。旅行者らしき高齢の夫婦。ベンチでは足元にスポーツバックを転がした学生が眠たそうに欠伸を掻いていた。今日は休日だ。部活の試合にでも行くのだろう。

 では、同じく制服を着た自分たちはどこへ向かおうとしているのか?

 自問は、苦笑と高揚を招いた。

 行き先は聞かされていない。だが部活動のような健全なものでは決してあるまい。人喰い生物が何をしようとしているのか。未知への期待に胸が躍った。

 その生物に尋ねた。

「電車の乗り方とか知ってんの?」

 は、ぼうっと雲を眺めていた。

 反応はない。無視をされたかと嘆息した矢先、ぽつりと返事があった。

「私は宿主の脳を代替として自らの情報処理能力を拡張させている。同時に宿主の記憶から情報を引き出すこともできる。電車ぐらい乗れる」

「……すごいな。だから言葉も喋れるんだ」

「万能ではない。言語の解読には相応の時間を費やした。それに情報を引き出せたとしても意味の分からないものも多い。特に沫波美月本人の感覚や認識に根差す情報は理解できない」

「つまり?」

「哀しい、という情報があってもどう哀しいかまでは分からない」

 ふうんと相槌を打った。ネットを閲覧するようなものだろうか? 情報の処理はコンピュータが担ってくれる。検索すれば知識を得ることもできる。しかし知ろうとしないことまで教えてくれるわけではない。仮に目当ての資料が見つかったとしても読み解けるかどうかは閲覧者の知識と読解力に左右される。他人の情感など推して知るべし、だ。

 香助は、沫波美月のコクピットに小さな沫波が座っている場面を想像した。チビ沫波は、スマホで辞書を引きながら操縦マニュアルを読み解こうと悪戦苦闘している……。

「? それはどういう反応だ?」

 香助は、口許を手で隠したまま「何でもない」と言葉を濁した。

 そうしているうちに電車が来た。貸し切り状態の車内に乗り込み、ボックス席で向かい合って座る。彼女の一連の動作は澱みなく、その言葉に嘘がないことを証明していた。

 改めて、を眺めてみる。

 溜息を禁じ得なかった。

 車窓からの光を受け止める、陶器のように滑らかな肌。そこに陰影を映し出すほっそりとした鼻筋。天を仰ぐ瞳には弧を描く睫毛が飾られ、結ばれた唇が相貌に憂いを与えていた。

 眼前の可憐な少女が、人を喰らうと言っても信じる者はいないだろう。しかし現に彼女は人間の理解を超えた存在である。

 香助は、彼女が腰かけたシートを見やった。一晩中野ざらしにされていた制服からは一滴の水も染み出していない。ずぶ濡れだった制服は、彼女が着込み、全身を光らせると、あっという間に渇いてしまった。皮膚から水分を吸い取ったのだという。

「あのさ。どういう仕組みで身体を変形させてんの?」

 横顔が、素っ気なく答えた。

「知らん。最初からできた」

 手足を自在に動かすようなものでメカニズムまでは分からないそうだ。

「恐らく今まで寄生した生物の特徴を反映させているのだろう。私がおぼろげな自我を得たのは魚に寄生してからだが、それ以前はクラゲのようなものに付いていたのだと思う」

「クラゲ……ねえ」

 ある種の生物には、他の生物の遺伝情報を取り込み、次世代へ継承させる者がいると聞いたことがある。『遺伝子の水平伝播』という現象らしいが、この生物もまた、宿主を鞍替えする過程で、その遺伝情報を取り込んでいるのかも知れない。

 そこまで思索し、自嘲を浮かべた。

 知識のない人間が考えを巡らせたところで答えなど出ない。肩を竦め、座席に背を預けたところで、ふと気が付いた。

 バッグに結び付けていたクラゲがなかった。昨日、帰りの電車の中で見たのは覚えているが、以降目にした記憶がない。

(ばたばた走っているうちに落としたか?)

 恐らく林の枝にでも引っかけたのだろう。探せば見つかるかも知れないが、なくして惜しいものでもなかった。三幸来には後で頭を下げておこう。

 それよりも気がかりなのは、林の奥に置いてきた大きな荷物……諫武未花、そして沫波が食べかけていた女の遺体だ。場所が場所なだけにすぐに見つかる心配はないだろう。境内に撒き散らされた大量の血液も雨が洗い流してくれている。余程運が悪くない限り一日程度は隠し通せるはずだ。そのはずだが、放置して気分が良いものでは決してない。

「今さ、どこ向かってんの?」

 やって欲しいことがあると言われても、遺体の処分を後回しにしてまで自分にして欲しいことが何なのか。香助には皆目見当が付かなかった。

 車輪が線路を叩く音が、秒針のように時を刻んだ。

「君は質問ばかりだな」

 彼女は、空に視線を向けたまま、ぽつりと溢した。

 香助は、その言葉の意図するところを測りかねた。煩わしいと当て擦られているのか、ただ事実を口にしただけなのか。人形めいた相貌の下に真意を隠したまま、彼女は続けた。

「私の家だ」

 私の家……

 そうだ。。今まで通りの暮らしをしながら身体の成熟を待っている。帰る家だって当然あるのだ。だが自分のに招いて何をさせたいのか? 壊れたパソコンを看て欲しいわけでもないだろう。

 困惑を察したのか、彼女は「そうだな」と向き直った。

「そろそろ話しておかなければ、時間が無駄になるか」

 無感情な眼差しが香助を捉える。

「君も、あの機械は持っているな?」

 白い指が示した先には、ロングシートに身を埋め、気怠そうにスマートフォンを覗いている会社員の姿があった。香助は、無意識にポケットの中身に触れていた。

 そして具体的な要求が告げられた。

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