第二話
(1)アプリオリ
「あ、気が付いた」
零れた声は思いのほか大きく反響した。はっと口を噤んでから、咎める人間はいないと気付く。それでも否応なく後ろめたさを掻き立ててくるのが静寂と暗闇の力なのだろう。それらに順応した瞳は、彼女の瞼が開くのを鮮明に捉えていた。香助は、ほっと胸を撫で下ろした。時計の数字が零時を示し、今日が昨日と呼ばれるようになってから数時間が経過している。昂った脳には決して長くは感じなかったが、それでももう目覚めないのではないかと諦めかけていた。
彼女は、仰向けになったまま、瞬きを繰り返していた。見慣れない天井に混乱しているのかも知れない。ここは彼女の自室ではないし、快適なベッドの上でもない。小さな背中を受け止めているのは朽ちかけた木の床で、身体を覆っているのは毛布ではなく一枚のシャツだった。彼女は、シャツの下から片腕を持ち上げ、握ったり開いたりしたあと、ぐっと頭を起こそうとした。
「まだ動かないほうが良い。ひどい怪我――」
そう言い終えるより早く、だん、と床が爆ぜる音がした。香助の後頭部、そして背中に衝撃が奔る。遅れて伝播する痛み。気道が潰れる苦しみ。
壁に叩きつけられたのだ。
跳ね返り、前のめりに崩れそうになったところで首を掴まれた。再び壁に叩きつけられ、磔にされる。
「ここは?」
「ぐ……っ」
六十キロある香助の身体が片腕で持ち上げられていた。引き剥がそうと身を捩っても爪先が床を掻くばかりで、締め上げてくる腕はびくともしない。相手は左右に視線を這わせ、同じ問いを繰り返した。
「ここは?」
疑問を解消することしか頭になかったのだろう。ゆえに返答がないことを訝しんだ。香助が答えを差し出してくるのをたっぷり待ってから、ふと気が付いたらしかった。首を締められた状態では喋ることができないと。掴む力が緩んだ。
「かはっ」
支えを失った体は重力に従って落下した。床に手を着き、げえげえと嘔吐く。体面を取り繕う余裕などない。肺は、酸素を掻き集めようと収縮と膨張を繰り返す。呼吸のコントロールを取り戻すまで暫しの時間が必要だった。香助は、ゆっくりと肩を上下させ、唾を呑んだ。
「っ……あんたたちが……戦ってた、神社の……拝殿」
「広場にあった建物のことだな」
這い蹲ったまま、首肯する。
「倒れた君を、ここまで運んできた。……あれから何時間も経ってる」
「それで?」
襟首を掴まれ、三度壁に叩きつけられた。今度は宙吊りにはされなかったが、胸元に腕を押し付けられていた。その膂力は一切の抵抗を許さないほど強く、強張った胴の内側で肋骨が軋みを上げた。彼女は、吐息がかかる程の距離から瞳を覗き込んでくる。
「君は何者だ? 何が目的で私をここまで運んできた?」
暗闇に浮かぶ双眸は、暗闇よりもずっと昏く、深い色をしていた。
「き、君こそ、何者なんだ……」
香助は、その奥底を覗き返し、問いかけた。
「沫波さん」
彼女……沫波美月は、ことりと首を傾けた。些細な仕草に従って漆黒の髪が頬を滑る。
「言葉が通じていないのか? 質問をしているのは私だ」
香助は、彼女の黒髪が流れ落ちる先へと眼を動かした。銃で破壊されたはずの肩には傷一つない。密着した状態では確認できないが、腹部もすっかり修復されているのだろう。切り落とされた腕すら元通りに再生しているのだから。
(……いや)
元通りではない。異形と化していた腕や脚、触手は見当たらなかった。常人離れした怪力を除けば、眼前の少女は生身の人間と変わらない姿をしている。つまりは一糸纏わぬ少女の姿。
「……答える前に服を着てくれないかな。さっきまで毛布代わりにしてたシャツが」
「答えろ」
仕方なく明後日の方へ目を逸らした。
「星野香助。高校二年生。他は……別にない」
「なぜ私をここまで運んできた?」
「雨が降り出したから」
沫波は、視線を天井へと向けたようだった。雨音には気付いていなかったらしい。日付が変わる頃までは雨脚も強かったが、次第に勢いも弱まってきた。今はもうしとしとと染み入るような音しか聞こえてこない。香助は、雨漏りの染みを眺めやった。
「君は大怪我をしていた。放っておいても治るとは聞いていたけど、雨に濡れるのは良くないと思った」
「あの人間は?」
「死んだ。林の奥に隠してきた。しばらくは大丈夫だと思う。少なくとも腐るまでは」
「……なぜ私をここまで運んできた」
「その質問には答えただろ?」
「……」
香助は、沈黙に問いを被せた。
「今度は、俺の質問に答えて貰っても良いかな?」
承諾の返事はなかったが、構わずに続ける。
「君は何者? 沫波美月さんじゃないの? 何が目的で人を襲ってる?」
「答える必要がない」
「俺は答えた」
彼女は、しばし黙考したようだ。……ようだ、というのは無論、相手の心中など測りえないという前提もあるが、何よりも外的な反応が一切表れなかったからだ。カプセルを拾ってくれたとき。廊下から教室を覗いていたとき。諫武と対峙したとき。全て同じ貌。同じ無表情だった。それでも香助は、短いやり取りの中に、ある種の揺らぎを読み取った。
この生き物は、困惑しているのではないか?
戸惑い、動揺している。得体の知れない人間を前にして。
そうであれば……昆虫のように反応だけで動く生物でないのであれば、言葉が交わせる。コミュニケーションが取れる。たとえ相手が猛獣であっても。
呼吸を止めて応答を待つ。圧迫された骨の下で心臓が窮屈に悶えていた。
拝殿内に、すっと息を吸う音が響いた。
「私は、私という存在を表す特定の呼称を持たない」
一拍を置いてから、自身のこめかみを指で突く。
「だが君たちの概念で言えば寄生虫と呼ぶのが相応しいだろう。私は、この人間の脳内に寄生し、この人間の肉体を操作している。君たち人類とはかけ離れた姿をした生き物だ」
「……宇宙生物?」
「宇宙に由来するかどうかは知らない。自我を得たのはこの肉体に入ってからだ。以前の記憶もなくはないが、はっきりとは覚えていない。だが君たちが海と呼ぶ場所を漂っていたことだけは確かだ。魚に寄生し、どういう経緯か、この肉体に取り込まれた」
「……海に、君みたいな生き物が生息してるってこと?」
人間の脳に寄生し、肉体を操り、作り変え、人間を喰らう?
「そんな話は聞いたことがない」
「君が知らないだけではないか? 私も同胞の記憶は持ち合わせていないが、存在すると考えるのが自然だ」
そう言われると口を噤むしかなかった。自然発生説が否定されて久しいことは流石に香助でも知っている。少なくとも親の世代がいなければ、目の前の個体は存在しない。そして形質や能力は、永い進化の果てに定着するものであって、ある世代を境に突然現れたりするものではないはずだ。人の手が加えられでもしない限りは。
そこまで考え、ふと脳裏に浮かぶものがあった。
諫武未花。
彼女は何だ?
何か組織に属しているような口ぶりだった。事実あんな銃器や体術は個人で備えられるものではないだろう。軍のような組織で訓練された人間。そう考えるのが妥当だ。ならば『沫波美月』もそうした分野に属するものと見なすことはできないだろうか? たとえば軍事施設から流出した生物兵器……。
(はっ)
可笑しさが込み上げてきた。荒唐無稽で馬鹿々々しかったからではない。兵器という無機質な単語が、目の前の少女に似つかわしかったからだ。殺戮のために造られた戦闘人形。麗しさには不釣り合いな表現が、彼女の印象を端的に表しているようで、ぞくりとした。
少女の滑らかな喉元が、微かに膨らんだ。
「帰らなければならない」
「え?」
「目的を訊いただろう。私は、海へ帰らなければならない」
「どうして」
「繁殖するためだ。存在は繋がなければならない。それは君たちも同じではないのか?」
「……君の仲間がいるとは限らないだろ」
「仮に同胞がいなくとも、私は、私ひとりで子を成すことができる」
無性生殖……いや、単為生殖か。本来は有性生殖を行う生き物が、時期や環境に応じて単体で次世代を産むこと。ミジンコやミツバチが有名だが、寄生虫の中にも生殖方法を切り替える種がいると河田教諭が言っていた。
「だが、私の身体は未成熟だ。子を成すためには、この肉体を通じて一定量の栄養を摂取する必要があり、君の同胞を捕食する必要がある。昨日の人間は、それを阻止するために襲ってきたのだろうが素性は知らない。君の知りたいことはこれで全てか?」
「沫波美月……君の、宿主の名前だけど、彼女はどうなってる?」
「意識はない。睡眠に近い状態だろう。だが私の支配下にあるうちは目覚めることはないし、私を無理に引き剥がそうとすれば脳が損傷する。つまり助かる見込みはない。今度はこちらから質問をしよう」
腕で香助を押さえ付けたまま、片方の手の指を一本立てた。注目を命じられたわけではなかったが、香助の意識は自ずと先端に注がれた。
指は、香助の左眼にぴたりと突きつけられた。
「なぜ私をここまで運んできた?」
落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び激しく暴れ始めた。動揺は腕を経由して沫波にも伝わっている。焦りと、丸裸にされたかのような羞恥が香助の呼吸を浅く乱した。
沫波は淡々と続けた。
「先ほどの回答では疑問を解消するに至らなかった。君は、私が人間でないことを……人間に害をなす存在であることを知っていたはずだ。その上でなぜ、私を助けた?」
僅かな震えで零になりそうな距離を、彼女はミリ単位で詰めてくる。
目を瞑ることはできなかった。指が迫ってくる恐怖よりも、閉ざした瞼ごと眼球を貫かれるかも知れないという恐怖が勝っていた。そうでなくとも彼女の機嫌ひとつで後ろに控える脳まで串刺しにされるだろう。誤答は許されない。
瀬戸際に追い詰められている実感が、香助の全身を戦慄かせた。
「答える前に、確認」
もつれそうになる舌を、辛うじて動かした。
指先はまだ頭部を貫かない。慎重に言葉を繋ぐ。
「君は、子孫を残すために海へ向かう」
「そうだ」
「卵から孵った子供たちが人間の身体に入れば、また君と同じように人を食べる」
「その通りだ」
香助は、口の端を釣り上げた。
「君の力になりたい」
「頭がおかしいのか?」
視界の半分が青白い光で満たされた。
「……っ」
何が起こったのか?
混乱を治めたのは昨日の記憶だった。薄暗い林の中で、彼女の変容した手足が同じ色の光を放っていた。つまり発光しているのは指先だ。人差し指だけの部分的な変形……攻撃態勢に入ったということなのだろう。
淡い光が、彼女の相貌を闇に浮かび上がらせていた。
「私が食す人間の数は一人や二人ではない。少なくともその倍は要る。海に放出される我が子の分まで数えれば腕がいくつあっても足りないだろう。私は、君がそれを見過ごせるとは考えないし、そもそも私の正体を知った人間を生かしておくより餌にしてしまったほうが早いという理屈には賛同して頂けると思うが?」
「それをしないのは君の中に迷いがあるからだ」
香助は不敵に言い放った。すかさず言葉を差し込む。
「俺は、死にかけた君に何もしなかった。君はそんな俺を信じても良いんじゃないかと迷っている。違う?」
そうして笑みを装ってから、ふと、この生き物はどこまで表情の意味が理解できるのだろうと考えた。それを取り繕う術を知らないだけかも知れない。たとえ胸中には葛藤が渦巻いていたとしても。
無垢な貌を見つめる。
「君はまだこの社会のことをよく知らない。君の食事の邪魔になる連中のことをよく知らない。そんな君を、俺ならサポートしてあげられる。協力させて欲しい」
彼女の表情に変化はなかった。ただ微かな息遣いが聞こえた。
黒い瞳の中で、青い光が揺らいだ。
「……君は何だ? この肉体と交尾がしたいのか?」
「君はそうなんだろうね。繁殖して子孫を残す。でも、そうしなきゃいけない理由って何? どうして君は海へ向かうの?」
「……」
「そこに答えがないのと一緒だよ。俺がそうしたいからするだけだ。まあ、強いて言うなら」
香助は、くつくつと喉を鳴らした。
「クラゲ人間の大軍団を見てみたいんだよ」
そして静寂が流れた。
不思議と雨音も聞こえない。突きつけられた指はぴくりとも動かず、この時間が永遠に続くかのような錯覚を覚えた。そう……錯覚だ。数秒先には眼球の穴から脳症を撒き散らすことになるだろう。
(それも悪くない)
この美しい死神が、退屈な人生に幕を引いてくれるのなら。
香助は、四肢の力を抜き、心地良い満足感に身を浸した。そのとき、
「……さっぱり分からん」
胴に押し付けられていた腕が離れた。支えを失った身体は、ずるずると壁を滑り、床で尻餅を突いた。一拍遅れて背筋にぶるりと悪寒が奔る。思っていた以上に緊張していたらしい。立ち上がろうにも両脚に力が入らなかった。下がった視界に沫波の裸体が映り込んだが、網膜に残像が焼き付いて腰の曲線しか捉えられなかった。
頭上から告げられた。
「私の服を取って来い。食いかけの死骸の近くに脱ぎ捨ててある。あれがないと外を歩けんのだろう。人間は」
発光は既に治まっている。しなやかな指が香助の顎を掴み、強引に上向かせた。
「そこまで言うならばだ。君にやって貰いたいことがある」
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