(7)『理由』

 境内に荒い息遣いが反響した。横転した沫波は動かない。諫武は、銃を構えたまま大袈裟に肩を上下させていたが、やがて飽きたように腕を下げると沫波に視線を固定したまま叫んだ。

「星野くん、まだいるんでしょう。もう出て来ても大丈夫よ」

 香助はびくりと肩を震わせた。客席から舞台を眺めていたら突然役者から名指しされたようなものだ。無論ここは舞台ではなく香助もまた観客ではない。あるいは脇役かも知れないが当事者だった。湿った草を踏み、恐る恐る近寄った。諫武の隣に立ち、倒れた沫波を見下ろした。

 異性の裸体を前にすれば羞恥や劣情を抱くのが普通だろう。しかし状況があまりに異質過ぎて日常的な感覚が湧いてこない。石畳に散らかった触手。翼のような器官。大きな両脚。それらと混ざり合った少女の肢体。現実ではあり得ない代物が、現実の生々しさを以って、現実の感覚を呑み込んでいく。香助は、口許を覆い隠した。

「……死んだの?」

「いえ、まだ生きてる」

 その言葉通り沫波は小刻みに痙攣していた。だが脇腹は抉れ、傷口から内臓が零れている。石畳に広がる鮮血の色が、彼女の生命が失われつつあることを示していた。香助は、愕然とした気持ちで問いを重ねた。

「その、一体……何なの?」

 曖昧な質問だったが通じたようだ。諫武は、頬に張り付く髪を鬱陶しそうに指で払った。

「詳しくは教えられないけど……沫波さん? 彼女も、元はただの人間よ。それがある生物に乗っ取られてこんな姿になった。そいつを狩ることが私の任務」

 任務? 何かの組織なのだろうか?

 沫波を見据える横顔は昼間とはまるで別人だった。鉄のように硬質で厳かな雰囲気がある。だから、祈るように組み合わされた手の中にある兵器の存在を香助は一時忘れていた。

 銃口が、再び沫波を捉えた。

「……殺すの?」

「ええ、とどめを刺す。資料だとこいつには再生能力がある。放っておいたら復活するわ。だから早めに処分する」

 処分。その作業的な言葉が向けられた先には、淡白な二文字では到底説明し切れない存在が伏せっている。複雑で、大きく、理解が及ばない。

 香助は、自身の手首を掴んだ。袖に付着した泥が手の内でざらりと肌を撫でる心地良さ。真っ新だった制服は余すところなく土色に染まり、端々に落葉の屑が塗されている。汚れていない場所なんてどこにもない。一方、視線を巡らせれば神聖とされる景色が映る。鳥居。拝殿。境内を囲む木々。いずれも固く口を閉ざし、無関心を貫いている。意志を交せるのは眼前にいる少女だけ。

 気付けば、諫武の肩を掴んでいた。

「? 何」

 彼女は怪訝に眉を顰める。その戸惑いに答える準備はなかった。「いや」と目を伏せ言葉を探す。次に顔を上げたとき、香助の口許にはぎこちない笑みが張り付いていた。

「どうしても殺さなきゃ駄目なの?」

「はあ?」

「その……見逃してあげるわけには?」

 諫武は言葉を詰まらせた。意味が理解できなかったのだろう。折れ曲がった眉の形から、彼女の内側で様々な解釈が入り乱れていることが見て取れた。しかし結局はシンプルな結論に辿り着いたようだ。めらりと瞳が燃え上がった。

「ないわよッ! できるわけないでしょ!?」

 信じられない馬鹿を見た。

 そう書き殴られた顏で唾を散らす。袖を掴む手を乱暴に振り払い、林を指差した。

「あんたも見たでしょ!? さっきの死体! こいつはね、人を喰うのよ! 喰い殺すの! 最近ここらで起こってる行方不明事件だって全部こいつの仕業よ! 私たちはそれを止めに来た! 見逃すって何なのよ!?」

「でも……」

「でももへちまもあるかっ!」

 諫武は、香助の襟首を掴み、激昂した。しかし怒鳴りつけた相手がすっかり唇を噛んでしまったのを見て我に返った。まだ何か言いたげに唸っていたが、やがて力を緩め、嘆息した。

「……気が引けるってのは理解できるわよ。この娘も元はただの人間。被害者よ。悪いのは彼女の頭ん中にいるやつ。でも、こうなってしまったら助からないわ。処分するしかないの。可哀想だけど」

 分かってくれるでしょう?

 同情を孕んだ声音が、香助に引き下がることを要求していた。そして彼女の真意はどうあれ、意に沿わない返答をすればどうなるか、想像できないほど香助は馬鹿ではなかった。まさか根気強く説得を続けてくれるほどお人好しではないだろう。諫武の手の内にあるものを見て、香助は身震いした。

 そもそも何故、自分は沫波を助けようとしているのだろう?

 諫武の言い分は正しかった。人間に害をなす。沫波は助からない。だから殺す。簡潔で反論の余地がない。圧倒的な正しさ。ならば何故逆らおうとするのか?

 分からなかった。分からないまま探した。彼女を助ける理由を。殺さなくて済む方法を。そして、混沌とした脳に閃いた理屈は、やはり香助にもよく分からなかった。

「……でもさ」

 声を震わせながら、諫武との距離を詰める。

「拾ってくれたんだ」

「……は?」

「拾ってくれたんだよ。だから、殺すってのは、ちょっと……」

 諫武の貌に困惑と、困惑とは別の色が浮かぶ。

「星野くん、君、何を言って……?」

 彼女は、拳銃を胸元に引き寄せ半歩引いた。

 直後、揺れていた瞳が、素早く真横へ奔った。

「星野くんッ!」

 諫武は叫び、香助に腕を伸ばした。香助は反応できなかった。衝撃が胸部を打ち据え、次いで腰に痛みが走る。突き飛ばされたのだ。香助は、咄嗟に閉じた瞼を開いた。目に飛び込んできたのは、胸の真ん中に紐のようなものを生やした諫武の姿だった。

 ぱくぱくと動く口許から、ごぼりと冗談みたいな量の血が溢れた。

「あっ……? え?」

 香助が紐を……否、触手を辿ると女の細腕に辿り着いた。沫波が、――内臓が露出しているにも関わらず――平然とした貌で、頭と肩だけを起こしていた。彼女は緩慢に腕を捻じる。触手が蠢き、貫かれた諫武が奇怪に身を捩った。諫武の喉から、がぼがぼと人間が発するものとは思えない不快な音が鳴った。彼女は、零れんばかりに眼球を剥き「お」と胸部を膨らませた。血に塗れた口から、さらに大量の血液と反吐が撒き散らされた。とても生きてはいられない量だった。それでも気力を振り絞ったのだろう。諫武は、沫波を睨み付け、銃を握る右腕を持ち上げた。

 かしゅっと淡白な音が二度響き、沫波の肩と腹部が破裂した。沫波は肉と血を飛び散らしながら仰向けに倒れ、その触手に引っ張られるようにして諫武も顔面から石畳に突っ伏した。

 香助は、血溜まりに伏した二人の少女を、茫然と眺めることしかできなかった。

 鼻先にぽつりと雨粒が落ちた。

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