神隠し
教室でのやり取りが久遠の昔のように感じられ、路上で偶さか顔を合わせた旧友とのぎこちない会話が展開された。それでも、見舞いを繰り返していくたびに、薄い膜のような緊張が徐に破れ、朗らかな表情で病室に入ってくる中村から、日常へ回帰したことを知る。
「ハハッ、なんだよそれ」
他愛もない世間話に哄笑し、とりとめもなく時間を共有する。教室の机に座して太平楽に日々を過ごしていたあの頃が蘇った。そんな折に、中村はふいに言う。
「退院したら、何がしたい?」
手の届かない望みを悲哀混じりに訊かれた感覚はなく、現実に即した至って前向きな質問だと把捉する。僕は斜め上を見上げて、白い天井のシミを凝視した。
「……」
不思議と何も何も思い浮かばなかった。したずのない解脱によって欲が取り払われてしまったのか? そんなはずはない。無数の願いが胸の中にあり、のべつ幕なしに語るだけの言葉が上手く汲み取れず、ひたすら足踏みをしているだけだ。ならば、端的に包括しよう。僕の願望を。
「どんな事だってしたい。望むなら」
炯々たる眼差しを中村に向ければ、喉仏が上下に大きく蠕動し、蛇に睨まれた蛙の如く、身じろぎせずに固まった。手の平を目の前にかざして左右に振るなどし、意識が通っているかどうかの確認をしても良かったが、少しすると瞬きを一回、二回と立て続けに繰り返した為、両手を膝の上に置き直す。
「そうだよな、そうだよ……」
ありもしない答案用紙と睨めっこしたかのように、中村は独り言を呟き、首を縦に振る。その日の会話はどこか途切れ途切れに終わり、奥歯に物が挟まったような違和感を覚えて就寝した。明くる日、いつもの時間に中村は病室にやってこなかった。通い妻に比肩する殊勝な心掛けでほぼ毎日、見舞いにやってきていた中村が姿を現さない。違和感をそのまま引き継ぐ形で、悶々とした気持ちをひがな一日抱え続けた。それは次の日も変わらず、連絡を取れば解決する問題でもあったが、僕は恐れてもいた。この長い入院生活に愛想を尽かし、袂を分かつつもりで足が遠のいていたのなら、「流行病」を慮って訊ねてみろ。厚顔無恥も甚だしい。ただ三日後の朝、それは杞憂に終わる。母親から、中村が行方不明になったと聞かされたのだ。
他人事のように事故の瞬間を眺めていた当時とは打って変わって、中村の安否が不明となれば、瞬く間に顔が青くなり動悸が激しくなった。
「……」
病室で今も尚、先行きの見えない身体を抱えながら、なんらかの理由で姿をくらました友人をひとえに心配した。事件や事故、ひいては家出も思案したものの、見舞いに際して中村がその厭世観から俗世に嫌気が差して逃避を図るような素振りは感じ取れず、全くもって不可解であった。しかし、この不自由な身体では外へ飛び出して行方を探すような友情に厚いメロスの影すら追えない。連綿と続く太陽の浮き沈みを横目に、僕はひたすら中村の発見を願う。
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