常軌を逸する
しかしそんな懇願とは裏腹に、刻々と時間は流れていき、あまりのじれったさから、一度目を開けてしまいたかったが、そんな間にも殺人が起きてしまったら目も当てられない。まつ毛に雪化粧したつもりで、根気強く城内に意識を淹留させる。
仲睦まじい男女の情事や、一人で延々と部屋の中のベッドに横たわる惰眠。黙々と読書に励んで知見を育む後ろ姿など、城内の暮らしぶりは、異世界とはいえ既視感があり、特筆すべき差異は見られない。回遊を始めてからどれくらい経っただろうか。絶え間なく抜き手を切っていると、まるで宇宙に放り出されたかのように時間の概念が曖昧になり、やがて自己はどろどろと溶けだすと、認知機能が剥落し藻屑と消える。そんな未知の恐怖が背後に迫り、俺は性急に壁を越えた。すると、遂に発見するのだ。数奇な動きを見せる一人の人間を。
からくり人形のように人間らしい動作から乖離した、均整を失った関節の動きはひとえに怪しく、凝視をして顛末を見届けるだけの理由があった。よくよく観察していると、こめかみに隆起する青筋が見て取れ、歯を食いしばる様子も窺えた。やがて、ゆっくりと首が右に回り出し、剥き出しになった歯茎から精一杯の抵抗の跡が浮き彫りになる。俺は直ちに意識を取り戻すと、部屋を飛び出した。城内の構造は来し方に理解した為、廊下を迷いなく走ることができた。
(間に合ってくれ)
被害者への直接的な心配というより、犯行を抑えて証人を立てる意味合いが強く、この足を動かすのはひとえに、「悪魔」を笠に着る小賢しい殺人犯を白日の下に晒そうと考える使命感であった。
「はぁはぁ」
件の場所を目指して甲斐甲斐しく操る身体は報われようとしていた。目前に捉えた曲がり角から、石の壁を叩く甲高い物音が耳に届いたのだ。俺は足音を殺す。今まさに齷齪と虚偽の犯人を仕立てようとする苦心を前に、障子に耳を当てるかのような慎重さを借りる。曲がり角を手摺りの代わりにして覗き込めば、そこには主観的に見ても風変わりだと形容せざるを得ない、正気を感じない人間の身体が独りでに壁へ打ち付けられる奇怪極まる様子があった。俺は呆気にとられて顎を落とす。
半ば心霊現象にも思える奇天烈な事象に、犯行を咎めるなどといった主眼は、意味をなさない。しずしずと事の成り行きを見守り、どのようにして死体がキリストを象るかを刮目した。
(そこにいるのか……?)
俺は目を閉じ、額を穿つつもりで強く念じる。まるで透明人間を見透かすように、その存在を捉えようと「力」の顕現を待った。ほんの少し、カップ麺を待つより遥かに早い。もしかすると、十秒と満たなかったかもしれない。俺は意識のみで知覚する人間の文目を思い描く。もはや絵空事に近い。だが、照らし合わせるべき現実は今の俺にとって存在せず、目を閉じたまま一歩目を踏み出す。そこにいるであろう殺人犯を捕らえる為に、一直線に走り向かった。
視覚を働かせなくとも、第三の目を持った頭が光景を映し出す。息をしない死体が大きく揺れる、姿なき動揺を。俺の判断に落ち度はなく、見事な看破によって真実へ導かれている。網のように両腕を横に広げて壁へ突進する姿は、傍目に見ると気狂いのそれだ。
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