第38話 国家機密
「停戦合意の内容はご存じですか?」
マルベリーさんはお菓子を食べる手を止め、姿勢を正す。
それほど真剣な話なのだろう。
「主たる内容は、お互い十年は武力行使をしない。これを反故にした場合、リュダディカ帝国の力を借りた報復を許す、だったよね」
ルクスさんも作業の手を止め、カウンター越しに彼女と向き合って話す。
「はい。エゼライが降伏する形で、リュダディカに調停に入ってもらい、そのような和平を結んでいます」
「そもそも戦争を仕掛けてきたのはエゼライ側だ。そちらが大人しくしていれば、この国がわざわざ争いを起こすことはないよ」
「父が大人しくしていると思いますか? あの人はたぶん、悪魔にでも憑りつかれているんです」
話についていけない私は、ただ息を潜めてその場に立ち尽くしていた。
一般人の私が、こんな話を聞いてしまっていいのだろうか。
……絶対に駄目だと思う。難しくて話の半分も頭に入ってこないけど。
「まさか、グラスティアが武力を行使するよう陥れ、リュダディカの力を使って侵略しようとしている?」
「その通り。そもそも父が停戦を持ち掛けたのも、それが狙いです」
「方法は?」
「いくらでもあります。国境は警備をしてるといっても隙がある。地理に詳しく、私のようにグラスティアの言葉を操る者なら、紛れ込むのはさほど難しくない」
何やら危機迫った様子だ。
二人の会話スピードが上がり、ルクスさんの声に焦りが滲む。
「グラスティアの民衆を扇動するつもりか」
「いえ。それよりももっと簡単な方法があります」
マルベリーさんはひと呼吸置いてから、「弟です」と静かに言う。
「……王子の身は停戦に際してグラスティアが預かっているけど、彼は世継ぎのはず」
「そうですね。でも、父はあの子を人質だと思っていない。侵略を正当化するための道具です」
ルクスさんは「理解できない」と呟き、髪をぐしゃっと掻き上げる。
「エゼライでは悪魔と称される男が……善良なんですね」
マルベリーさんは眉尻を下げ、憐れむように笑う。
「僕にあの仕事は向いてない。だから離れたんだ」
ルクスさんの顔色が悪い。
手が震え、声も震え、冷や汗が止まらないようだ。
魔力の暴走……。
ふと、以前ルクスさんから聞いた言葉を思い出す。
建物がミシミシと音を立て始めたのを聞いて、まずいと思った私は咄嗟にルクスさんの名前を呼んだ。
「大丈夫ですか?」
「ごめん。少し動揺しただけ」
ルクスさんはハッと我に返り、深呼吸すると、まだ少し上擦った声でマルベリーさんに尋ねる。
「君は王都へ行って、どうするつもりだった?」
「私の望みは父の陰謀を暴き、弟を救うこと。情報と引き換えに私たちを亡命させるよう、交渉しようと思っていました」
「それで、祖国がどうなっても構わないと……」
言い淀むルクスさんに対し、マルベリーさんは力強く訴える。
「叶うことなら今すぐ、父を国王の座から引きずり下ろしたい。ですが、弟はまだ十代。来るべき日に備えて、力をつけなければ」
彼女は血が滲むほど強く、唇を噛んだ。
漠然と、家族とは温かいものだと思っていたけれど、父親に怒りと憎しみを向ける姿を見て、私は必ずしもそうでないという現実を知る。
「交渉をするにしても、何を根拠に信頼を得る? 君と父親がグルになって、グラスティアを陥れようとしている可能性だってある」
マルベリーさんの言葉は生々しくて、演技には見えなかった。ルクスさんもたぶん、嘘ではないと分かっている。
「私をこの国に逃すにあたり、姉が一人犠牲になりました。信じてもらえなければ私たち姉妹の決死の覚悟は無駄になり、弟も死に、この国は父の手中に落ちるのみです」
何と声をかけたらいいんだろう。
私もルクスさんも、黙り込むしかなかった。
重苦しい雰囲気の中、軽やかにドアベルが鳴る。
この店の常連、サイモンさんだ。
「今日は休みだったか?」
「いえ、こちらへどうぞ」
いつものカウンター席に通すと、何も知らない彼は、いつもの明るいトーンでマルベリーさんに話しかける。
「お嬢さんはどちらから?」
「南から来て、寒さに行き倒れていたところを助けてもらったんです」
「昨日、一昨日は異常な寒さだったからなぁ。ウチにも立往生してた人を泊めたよ」
「そうでしたか。急な雪だったので、本当に助かりました」
私の指摘を取り入れたのか、マルベリーさんは少し砕けた言葉と表情で、常連客との会話をこなす。
「村長が言うには、今日からまた晴れるらしいな」
「交通網はいつから正常に戻りますか?」
マルベリーさんは天気の話に食いついた。
少しでも早く、王都に向かいたいのだろう。
「この気温なら、明日か明後日には雪が溶けるんじゃないかぁ?」
その言葉を聞いて、マルベリーさんは安堵の表情を浮かべる。
「サイモンさん。申し訳ないけど、来週はお店を開けられないかも」
ルクスさんは、ハーブティーを出しながら断りを入れる。
私は、マルベリーさんについて王都に行くつもりなのだと悟った。
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