真昼の食卓

#001 茜色

 仕事が休みであると、どうしてもぐうたらと過ごしてしまいそうになる。

 いざ休日のこの日を迎えるまでには、買い物に行こうとか、お菓子でも作ろうとか、掃除をしようとか、本を読んでみようとか、やりたいことがたくさん浮かんで計画を立てているはずなのに。とっても不思議なことだ。

 ましてや、夫は私にとても甘い。

 私よりもずっと早起きして気がついたら布団にいないのだけれど、なぜか私が起きると決まって寝室にやってきて「まだ寝てていいんだよ」って囁いてくる。だから、今日だって起きたらすっかりお昼近くになってしまった。

 十分に寝たおかげか、頭はとってもすっきりしている。もう少し寝たいという気はつゆほども起こらなかった。服を着替えて、顔を洗って、それから私はリビングへと向かう。

「おはよう」

「おはよう。よく眠れた?」

「うん、寝過ぎたくらいだわ」

「いいじゃないか。せっかくの休みなんだから」

「よくないわ。半日無駄にしたもの!」

 私がそういうと、夫は苦笑する。

「でも俺は、あかねには無理してほしくないんだよ」

「そういってまた私を甘やかすのだから……」

 夫はもう少し厳しくたっていいくらいだ。むしろ、休みの日でもぐうたらしてはいけないよって言って厳しくいって起こして欲しいくらい。でも彼は、さも当たり前だろうとでも言いたげににっこりと笑うばかりだった。

 彼はそうしてコンロの火をかちりと止める。そして沸いたやかんのお湯をもう準備されたものであろうコーヒードリッパーへと流し込んだ。とても良いコーヒーの香りがふんわりと広がって、少し楽しい気持ちになる。

「昼ご飯、何食べたい?」

「あんまり重たくないものがいいかしらねぇ」

「わかった。それじゃあどうしようかな……」

 彼はこまめにドリッパーへとお湯を垂らし入れながら、冷蔵庫やあたりを見回している。

 ダイニングに座りながら、ぼーっと彼のことを眺めてみる。いつも見ている顔だけれど、やっぱり私にはもったいないくらい、素敵な人だ。

 茶色とクリーム色の中間ほどの髪の毛はふわふわとしていてあいらしく、そこに添えられるエメラルドグリーンの目をはじめとして、鼻の高さも唇の厚さも頬の張りも顔のパーツの一つ一つが完璧な調和をなされている。

「なにか、ついてる?」

「いいえ? ふふ、相変わらずかっこいいなって思っただけ」

「……やめてよ、恥ずかしい」

 夫はそういうと、透き通るほど綺麗な頬をほんのりと桃色に染めて静かに頬を掻く。そう言うところもなんというか愛おしくてならない。

 彼は、入れたてのコーヒーを私の目の前に置いて「もう少し待っていて」と言った後、またキッチンへと戻って行った。

 こうして見ていると、本当に彼は、私にはもったいない人だと思う。

 夫と出会ったきっかけは本当に些細な一目惚れだった。

 彼とは、父を介して私の従兄弟だと紹介された時からちゃんとした関わりができたのだけれど、実はそれよりも前に、ずっと前に私は彼と会っていたのだ。それを本人に言ったことはないけれど。

 あれは、中学一年生の頃の話だったと思う。私は、いつも祖母からもらった大切なレースのハンカチを持ち歩いていたのだけれど、その日は、スマートフォンを取り出そうとした時に同時にポケットから出てしまったのか、それを落としてしまった。しかも、通学の途中であったから時間的に戻ることもできず、そのまま学校へ行かざるを得なくて、一日憂鬱な日々を送っていたのをよく覚えている。放課後になって帰る途中にも、道を見渡しながら探してみたけれど、全く見つからなくてもう諦めるしかないのかな、と思っていた時に彼に話しかけられたのだ。

「あの、もしかして今朝これを落としませんでしたか?」

 私が通っていた中学校は私立のいわゆる女子校だったものだから、彼は絶対に違う学校の生徒だということはわかったのだけれど、それよりもなんて綺麗な人だなと言うふうに思ったのを覚えている。

「それ、どこで……?」

「今朝、この辺りであなたが落としているのを見かけて、それで、急いで追いかけたんですけど見失ってしまったんです。それで今交番にでも届けようかと思ってた時に、あなたがいらっしゃったので」

 少し土で汚れてしまってはいるが、それは私の大切なハンカチだった。

「きっといいものだし、放っておいたらその、踏まれたりするかなって。……勝手に拾ってしまってごめんなさい」

「いいえ、そんな! むしろ見つけてくださって本当にありがとうございます。本当に大切なものだったので」

「それなら、よかったです。じゃあ、俺はこれで」

 そう言うと、彼はもう颯爽とその場から去ってしまった。せめてお名前くらいはと思ったのに、その時間すら与えないほどに、足早に去ってしまった。あまりにも美しい人にであってしまって、しかもわざわざ私の姿を覚えて話しかけてくれたその性格の良さに惹かれ、私は名前も知らない彼に一目惚れをしてしまった。

 それがしばらくの時を経て、再び巡り会う日が来るなんて思っていなかったけれど。

 私の家は、いわゆる名家とでもいう家柄で、代々大きな企業を運営している家だった。だから、お金には困ったことがないし、昔から色々な教育をなされて来たのだと思う。でも、私たちは一族から疎まれていた。私たちの家族はワケアリで、父も、そして私も、名家鶴宮の血を引いていなかったからだ。つまり、私と祖父とは血が繋がっていない。

 一族は、血筋を戻そうと必死だった。そうしてようやく見つけたのが、彼と彼の父だったということになる。はなから一族の人たちは、彼と私を政略結婚でもさせようと思っていたに違いない。

 私は、政略結婚という言葉は嫌だったけれど、どんな形であれ一目惚れした彼と結ばれることができるならそれでいいかって思っていた。しかしそんな思惑はうまくいくこともなく、彼は「誰とも結婚するつもりはない。ましてや政略結婚だなんて」と親族を一掃してしまったのだ。きっとそれは、彼にも将来の夢というものがあったからだろう。

 でも、私はどうしても諦めきれなくて、ずっと彼に告白し続けた。従兄弟同士、という気まずさがあることもわかっている。でも、それ以上に私は彼を、彼自体を心から愛していた。報われなくたって、そんな自分の気持ちだけは裏切れなかった。お互い学生という立場で、しかも彼は一歳年上で、学年が違う。そんな状態だから、ずっと会えない期間が続いていてだんだんと彼の心が完全に私から離れていってしまうのだと思っていた。

 しかし、ある時のこと。それは高校一年生の冬ごろだっただろうか。

 父に連れられて彼の家を訪ねて行ったことがあった。父としても、どうしても私と彼を結婚させたいとそう願っていたに違いなく、そんな圧力を彼にかけていたものだから、彼はきっと会ってくれないんだろうなと私はそう思っていた。そんな私が、大人たちの会話を黙って聞いているのに飽きた頃に突然、彼がリビングに顔を出しに来た。そして私に「ねぇ、ちょっといい?」と話しかけた。全然期待もしていなかったものだから、うまく返答できなくってただこくこくと首を縦に振ることしかできなくって、彼になんか変だと笑われた記憶がある。

 四方を本棚で囲んだような彼の部屋にお邪魔できたことに私は感極まって泣いてしまいそうだったのだけれど、必死にそれを押さえ込んだ。

「あなたも大変だね。大人たちの勝手な都合に巻き込まれてばっかり」

「でも私は、嬉しいです。親とか、家柄とか、血筋とか、そういうの全部関係なく、私は、あなたという人が好きになったので」

「そうはいっても、いうほど会ってないじゃん。どうするの、これで俺がクズみたいな男だったら」

 私は、そう彼に言われた時に、きっと彼は一番最初に出会った日のことを覚えていないのだなと思って急に悲しくなってしまった。だからこそ、このことは絶対に言うまいと決意したのかもしれない。

「いいですよ、それでも。凛太郎さんは、絶対そんなことしないってわかってますから」

 私は、強く揺るがないという心を持ってそう伝えた。すると、彼はまさかそう返されるとは思っていなかったらしく目をぱちくりとさせていた。そして、ふと考え込んで「そう……」と呟いてからじっと何かを考えるように黙り込んでしまったのを覚えている。この時は、何かまずいことを言ってしまったか不安になったけれど、これはじっくり何かを考え込むという彼の癖になのだということを後々知ることになった。

 大学も同じところに入りたいと親の反対を押し切って受験して、あれほど苦手だった読書もこれを機に試そうと読み始めた。少しでも彼の気を引こうと私は必死だった。何回断られたかもわからないけれど、しょっちゅうお出かけに誘っていたし、おすすめの本はなんですかとかとか聞いたりもしていた。そんなことをしても、彼は私に取って手の届かない存在だということを知りながら。

 彼は、小説家だった。彼のお父様さえ凌駕してしまうほどの文才を備えて、脳みそが十個以上あるんじゃないかと思うくらいの大天才。そうして世間で彼が囃し立てられていくうち、私はもう、彼が別の世界に住む人なんだと諦めるしかないのだと思っていた。

 でも、ある時……彼が大学四年生の頃の春頃だったと思う。私が、お花見でもしませんかと誘うと、一言「いいよ」とだけ返信してくれたことがある。の時期になれば、教育学部の彼は採用試験などで忙しくしているはず。にもかかわらず、時間をとってくれようとしたことに、私は喜ばさるを得なかった。なぜなら、私はそれを最後にしよう、と思っていたからだ。

 講義が終わった後に大学の正門で待ち合わせをして、二人で桜を見に公園へと歩いて行った。

 満開の桜の下を目的もなくただ歩いて眺めている時間は、本当に幸せな時間だったから、私はきっともうこれで諦められるってそう思っていた。程なくして歩き疲れたね、と適当なベンチに二人で座った時、その残された時間を存分に堪能しようと、彼の横顔をずっと眺めていた。

 すると突然、彼が「あの」といってこちらを向いたのだ。あんまりにも突然の出来事でしかも私が凝視していたことがばれてしまったんじゃないかと焦っていた時、彼はこれまで見てきたどんな表情よりも穏やかに笑っていた。

「うまく言葉にできるかわからないんだけど、ちょっと聞いてほしいことがあって」

「なん、でしょう」

 彼にしては珍しく、どう言葉を紡げばいいかわからないとそういう感じを醸し出していた。私は、それならいくらでも待とう、とそう思い、じっと彼のことを見つめていた。

「はじめは、そういう決められた恋愛とか結婚とか、俺は嫌だったし、それであなたを嫌厭していたことは、嘘じゃない」

「そう、だったんですね」

「でも……」

 彼は、ゆっくりと考えながら言葉を選んで私に言った。

「そうしてあなたを避けることそれ自体、親族たちと同じことをしているんじゃないかって思って。その、あなたをあなたとしてみていなかったな、と」

 私は、こくりと生唾を飲み、彼の言葉をただただ待っていた。

「ちゃんと向き合わなければ、いつかああすればよかったって後悔するのは嫌だから、ちゃんとあなたのことを考えてみようと思って。そうしているうちに、だんだんとその」

 彼は目を伏せて人差し指で頬をかきながら、決まり悪そうに視線をあちらこちらへ動かす。やがて、大きく深呼吸をしたかと思えば、彼はベンチから立ち上がってしまう。どうして、と思ったのも束の間、彼は私の目の前で片膝をつき、私の両手をとって真正面からじっと私のことを見つめた。急にどうしたんだろうって、疑問ばかりで、心臓はどくどくと鳴りやんでくれそうにないし、どうしたらいいのかと緊張をしていると、彼は優しく口を開いた。

「……ずっと逃げ続けてしまって、ほんとうにごめんなさい。もしも、あなたがまだ俺のことを好きだと思ってくれているのなら、俺の持っている全てをあなたにあげます。一生、あなたに尽くすと誓います。あなたの辛さもぜんぶ引き受けます。だから、どうか許してくれませんか?」

 私は現実を受け入れることができないでいた。脳みその理解が追いついていないみたいだった。

「じゃあ、私が今、好きです、付き合ってくださいっていったら、答えてくれる?」

「……うん」

 その後のことはぼんやりとしか覚えていないけれど、私は彼の前で、大号泣をしてしまい、人に顔を見せられないほど顔も感情もぐちゃぐちゃになってしまったのだ。あぁ、きっとこれが幸せというやつなんだろうなと思って、彼に大変な迷惑をかけてしまったことを覚えている。

 あとから父に聞いた話によれば、彼は、この日になるまでに様々なことを色々なところと調整して、物書きをやめるということも、教師をめざすこともやめるということも、鶴宮家の婿養子となることも、私以上にさまざまなことを考え、全てが円満になるようにしてくれていたらしい。


 私が言ったわがままのせいで、結果的に彼はきっと多くのことを諦めざるを得なかった。

 もし、彼が先生になっていたら、どれだけ多くの生徒が彼を慕い、彼に救われてたんだろうと思うと、時折心が苦しくなる。

 それに、事実上「湯村燐」も「湯野凛太郎」も両方を捨ててしまうこととなった。おそらくは彼なりの私への誠意だと思うのだけれど、結婚して以降、一切実家にも顔を見せていないだろうし、多分今後とも見せるつもりはないんだと思う。彼は、私に対して並々ならぬ罪悪感を抱いて、そしてそれの償いをするために、「湯野凛太郎」として持っていた全てを捨てて「鶴宮凛太郎」という私以外に誰もいない、新しい人間として生きることを決めたのだろう。彼らしい、と言ったらきっとそうなんだと思う。

 入れたての温かいコーヒーの香りは、とても落ち着くものだった。

「あら、美味しい」

「本当? 前よりは少し上手になったかな」

「元から上手よ、いつも美味しいんだから」

「……正直に言ってよ。上手になりたいんだから」

「いつだって私は正直なことしか言ってないわよ」

 本当に素敵な人。……私の、最愛の人。彼の情を一身に受けられる私は、この世で一番の果報者だ。これから、色々と大変なことがあるかもしれない。辛くて、時折死にたくなってしまうことだってあるのかもしれない。でも、彼がそばにいてくれるならなんだって乗り越えられる。そんな気がしてならないのだ。

 夫がそうしてキッチンで忙しなく動いているしばらくの間、スマートフォンで今日の天気だとか、ニュースだとか友人たちのSNSとかを見て回る。そういえば、開花予報によるとそろそろ、桜が見られる頃かもしれない。そうと思うと、自然と心が踊るのを感じた。

 いいなぁ。また、彼とどこかに出かけたい。

 呆然とそう考えながら時間をつぶしていると、ことん、と目の前に山盛りのたまごサンドが乗せられた。

「お待たせ。すごく簡単なものにしちゃったんだけど、たまごサンドを作ってみたよ。どう?」

「ふふ、とても美味しそう」

「それじゃあ、食べようか。お腹空いたでしょ」

「ええ、とっても!」

 真昼の食卓を二人で囲み、私たちは静かに手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

 こんな日常を送れる日が来るなんて思っていなかった。これからも、ずっとこんな日が続いてくれたらいいな。

「うん、とっても美味しい!」

「それならよかった」

 綺麗に並べられたたまごサンドを二人で分け合って食べる。

「そういえば、ずっと言おうか迷っていたことがあるんだけど」

「えっ! な、なんでしょう」

「……そんなに緊張されると、こっちまで緊張してきちゃうよ」

 彼がそうやって心底困ったような顔をしたものだから、思わず笑ってしまって、私はまたも彼に窘められる。

「もう、本当に……」

「あはは、ふふ、ごめんなさい。それで、一体なあに?」

「大したことじゃないんだ本当に。……多分俺、昔に一度あかねと会ったことがある気がする」

 私は、その言葉を聞いてとても驚いた。もしかして、私のこと気づいてくれてた?

 でも私は少し意地悪だから、あなたには確信を持たせてあげない。だって、あれは大切な私だけの思い出だから。

「そう? どうなんでしょう。知らない間に会っていたりはするのかもだけど」

 彼は私に、何か遠くを見つめるような目で微笑みかける。

「もしどこか行きたくなったら、その時は教えてね。絶対に一人で行こうとしないでほしい」

「どうしたの、急に。さびしんぼさんになったのかしら」

「別にそういうわけじゃないけど……」 

 今日はいつもよりなんか変な夫だ。様子がおかしい気がする。

 けれど、なんだか彼に寄り添ってあげなければならないようなそんな気がしてならなかった。

「えぇ、約束する。だから……」

 私は、だんだんと色とりどりに染まっていくであろう庭を見た。これからもっと色とりどりになってほしいとそう願って。

「桜が咲いたら、一緒にお花見でもどう?」

「いいね。一緒に行こうよ」

 夫は、心から安心と幸福を得たかのように満面の笑みを浮かべる。

 ——いつまでもこんな食卓でありますように。

 そんな願い事を、私は心の中でつぶやいた。

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