#005 方法
気がついた頃には、そこに陽兄ちゃんはいなかった。部屋は俺がいつもいる時よりも綺麗にされていたから、多分片付けは全部陽兄ちゃんがやってくれたんだと思う。すっかり寝落ちをしてしまったんだろう。枕元に投げ出されたスマートフォンを手に取って時刻を確認すれば、そこには午前三時と表示されていた。早起きをするにしてもあまりにも早起きすぎている。まだ外は暗い。
しばらくじっとツルミヤさんや陽兄ちゃんに言われたことを考えていたが、やっぱりまだ何もわからなくて、頭を掻きむしることしかできなかった。
でも、やっぱり手がかりは『黎明の天使』なんだと思う。これを読まないことには、たぶん僕の中で何か進展することはないんじゃないだろうか。それに、文字を追っていれば眠くなるものだろう。寝そべったままで机の上に数日放置されていた例の本を手に取って俺はそれを仰向けになりながら本を上に掲げて文字を追った。
だんだんと腕が疲れて今度は右を向きながら読む。しかし今度は耐え難い眠気が襲ってきて、ちょうどいいところなのにキリが悪いと悔しくなる。向きを変えようと次は左の方を向く。これが今度はベッドを置いている位置が悪くて微妙に腕が痛い。それならうつ伏せになろうと僕はくるっと回る。これまでの体勢の中で一番楽なような気がしていたので、しばらくそうして文字を追っていたが、今度は顎と首の境目がどうにも痛くなってきてしまった。
うまくいかないな。
結局僕は体を起こして、ベッドの上で三角座りをし、その大勢のまま読み進めることにした。当初の目的は、ほんの内容などついでで朝までもう一度眠りをつく気持ちの方が優先的だったのだが、いつの間にかあまりの面白さにその内容が気になっていってしまい、食い入るようにして読み進めてしまったものだ。
そうしていればやがて遮光じゃないカーテンから太陽の光が溢れ出す時間になっていて、しかしながらそんなことに僕は気づくこともなくまんまと読み終えてしまう。そのことに気が通いたのは、読み終えて余韻に浸りながら仰向けになり本を胸にだいていた時のことだった。
なんといったらいいのかわからないが、一言で言うのであれば、圧巻、ということに尽きるだろう。文章の繊細さはいうまでもなく、僕たちとは見えている世界が違うんだと認識させるような表現。それに余白があって、僕らはその余白を楽しむことができるんだろう。それに加えて、これを読んでいるうちに、だんだんと自分の感情が登場人物たちとリンクしていく。登場人物たちが緊張している時は緊張してしまうし、恥ずかしがっている時にはなんだか恥ずかしくなるし、嬉しそうな時は嬉しくなってしまうし、涙を流している時には涙を流しそうになって必死に堪えた。次の展開は一体どうなってしまうんだろうってページをめくる手が止まらない。時折入り込む大胆な展開も、実際には現実には起こり得ないのに、なぜか現実味を帯びていて繋がりを感じてしまうほどだ。
それだけじゃない。きっと湯村燐は小説を書いただけであるはずなのに、彼の心根の優しさが垣間見れたり、明確に何を持ってして幸福と定義するのかが伝わってくる。じんわりと僕の体に根を張るように伸長していくのだ。
とにかくこの本を読んでいる間には飽きという瞬間が来ない。それらが引き起こされるのは、リアリティに満ちた綿密なキャラクタの設定や、景色か感情を的確に表現する高尚な語彙の数々、文章の組み立て方も工夫されていって飲み物を飲み込むようにスムーズだ。
大雑把な話の内容としては、生まれつき色盲で全てが白と黒で表現できる世界に飽き飽きしていた少女が、ある時に午前零時にやってくるという幻の列車の噂聞き、諦めながらも待っていたところから始まる。そこで彼女は夜を模したような男性と出会い、彼とともに列車旅にゆくというものだった。
そんな異世界列車旅の中では、彼女は色を取り戻すことができた。生まれて初めて白と黒でない世界を見た彼女は、いく先々で様々な出会いと別れを繰り返ていき、非日常に触れるうちにその中に興奮と不安という表裏一体の感情を得るようになる。その不安はやがて現実になるとも知らずに。
実は、男性の正体は兄弟たちの罠に嵌められて翼と光輪を失ってしまった元ラッパ吹きの天使だったのだ。そうして天界を追放されてしまい居場所を失っただけでなく、さらに彼は、人間として暮らしていく中で手に入れた幸福でさえも酷い兄弟たちに奪われてしまったのである。全てを奪われて怒りの頂点に達した彼は、彼自身の終わりのトランペットの力で天界に対しての復讐を試みたのだ。
それに怒った神は、彼の中の負の感情を空間の形成へと用い、彼をその中に閉じ込めてしまう。出るための条件はただ一つ「幸福を見つける」ということ。元あった幸福以上の幸福なんてないと諦めていた彼は、彼の中にある「一人になりたくない」という願いに基づきたくさんの人々を列車へと誘っていってしまう。
彼は、しばらくその目的を忘れていた。しかし、彼は少女と出会うことによって思い出してしまったのだ。自分がなんのためにこの列車に乗り続けなければならないのかということを。
それは、少女の姿が、彼が人間であった時の幸福の象徴とも言える妹の姿と酷似していたからだった。彼の忘れていたはずの記憶がそうして思い出されてしまう。
「ぼくらは反抗もするし、復讐もするさ」
「だってぼくらは、天の願望を満たすだけの道具なんかじゃないんだから」
少女は、そんな彼の暴走を止めるために奔走するのである。決死の攻防を経て、少女は彼を説得し、共に解放されることを願い、彼の願いを叶えることを約束する。
そうして共に帰ろうという約束をしたにもかかわらず彼は少女の手を離す。
「永劫の輪廻の果てにもしもまた巡り会えたら、その時には今度こそ友達になって」
最後にそれだけを言い放ち、彼は列車ごと黎明の空へと消えていくのだ。高らかに夜明けを告げる音色を奏でながら。
世界に色を取り戻した少女は、彼の戻るべき墓を作り、そこでイーゼルを立てる。そして昔に追って捨てた絵筆を取り、その天使の姿を大草原のど真ん中で描いた。
May Angel of the Daybreak Rest In Peace!
——黎明の天使よ、安らかにお眠りください!
……反抗、復讐か。
結局、この天使は神に反抗し、自分を陥れた兄弟たちに復讐することができたのだろうか。たいそうな理想を言って聞かせた少女が行ったことは本当に正解といえるんだろうか。たしかに、彼を犠牲にしてたくさんの人が救われたんだと思う。でも、彼は? 本当に幸福を手に入れられたのか、僕にはわからなかった。
少女は、自分が犠牲にしてしまった彼を弔う方法を他に思いつかなかったんじゃないだろうか。彼がいたという事実を残す。そうすれば、彼の存在は決して一人にはならない。誰かの記憶と共にあり続けるんだろう。
復讐は何も生み出さないってよく聞くような気がするけど、人間っていうのは大概プラスの感情よりもマイナスの感情の方が力を生み出しやすいものだ。
「幸せって、何……?」
真にとっては、それが幸せだったの?
読み終えて大きな感動を得たと同時に僕の中に元々あった疑問はさらに絡まり合って固結びになってしまったみたいだった。
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